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第5章 Invisible Voice
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受付に、昨日放置で帰ってしまった女帝は居た。
眼鏡を外した早瀬と一緒に出社したあたしは、例の如くぎろりと睨まれたが、いつも通りに軽い挨拶であたしと通り過ぎようといる早瀬の腕を引いて引き留めると、大きな目からぽろぽろと涙を流して、父親がしたことを詫びていた。
凄いな、映画の一場面を見ているようだ。
気分は、戦争に行こうとしている恋人を、必死に引き留めているような切実な場面を見ている感じ。
その涙が嘘か本当かは関係なく、美人が泣く図は迫力と影響力がある。
……同性には、しらけ気味になるかもしれないけど。
ちらりと見る早瀬は、明らかに嫌がる素振りを見せながらも、執拗な謝罪を突き放すことが出来ないようで、「わかったから。だから泣くな」などと困り果てて、あたしにSOSを送っている。
まあ確かに女帝に罪はなく、本当に父親を説得して頑張ったかもしれないけれど、もう少ししょっぱい対応をしないと女帝はわからないような気がする。
結局どうなったんだろう、違約金の話。
昨日、電話でも早瀬はそれについて触れていなかったということは、会議も早瀬も問題にしていないのだろうか。
まあ、早瀬がちょっと大きな仕事をこなせば、大金となるから、それでまかなえばいいと軽く思っているかもしれないけれど。
「早瀬さん。今度、お詫びにお食事でも……」
さすがは肉食女。
食いついたら離れない。
「いらないから。気にしなくていい」
「そんなこと仰らずに! 私の謝罪を受けて下さい」
……まあ、女帝が早瀬を好きだから仕方がないとはいえ、しかも出勤者が溢れる受付でそんなことをしていれば目立つし、優しく宥めて逃げるのが大人の対応かもしれないけれど、告られている早瀬がしっかりと拒まないから、食事を誘われる羽目になっているのだと思えばいらっとして、あたしはふたりの横を通り過ぎた。
「上原」
なにか言われたけれど、あたしもいつもの如く。
……食事に誘われてそれに乗るということは、結構苛立つものなんだと気づいたあたしは、あたしが朝霞さんの誘いに乗ったことに対してはどう思ったんだろうと思って、自嘲する。
勘違いしたら、昔と同じ目にあう。
あたしだけが早瀬に対して特別な感情を抱いていればいい。
求めるだけ無駄だ。
「悪いが、俺はお前と会社の外で会う気はねぇよ。そんな時間があったら、俺がしたいことに費やす。これでも暇人ではねぇんだ」
そう思っているのに。
嬉しさ通り越して……
「俺の態度が勘違いさせているのなら、すまない。おかしな噂をたてられたらたまったもんじゃねぇから、もう一度はっきりいっておく。俺は会社の同僚として以外の気持ちはねぇし、この先もそれは変わらねぇ。下らねぇ希望は持つな」
言い過ぎ。
「プライベートでお前は必要ねぇから」
――お前、もう要らないから。
トラウマがフラッシュバックしている。
古傷が膿んでずくずくと痛んだ。
今の女帝は、九年前のあたしと同じだ。
勘違いするなと、こっぴどくフラれたあたしと。
早瀬の態度が甘いとは思ったけれど、あまりにも塩対応すぎる早瀬に、女帝に対する同情心が芽生えてしまった。
――有名人の娘だからお前のバージンに価値があった。それがなくなれば、お前に価値はねぇ。性処理でもいいって言うなら、抱いてやるけど?
どちらの言い方がいいとは言えないけれど、九年前と同じ非情な早瀬がいることに、とにかくきりきりと心が痛くて。
九年前、キスをしていた女はもう朧にしか覚えてないけれど、早瀬と気軽にキスしてしまうようになってしまった今、あたしがそれと同じ立場にいる。
女帝は、九年前に傷つけられたあたしだ。
どうして、いい気味だとか馬鹿な女だとか、思えようか。
こんな群衆の前、ひそひそ声が聞こえる孤立無援の中で、さらし者にされることのどこに、喜ばしい要素がある?
……女帝は傷ついているはずなのに。
「俺には、好きな奴がいるから」
早瀬は横目であたしを見る。
頭をガツンと殴られたような心地がした。
……そうか。そうだよね、どんなにキスが優しくても、他にいるんだ。
心のどこかで、九年前と違う流れにいるのではないかと思っていたらしいあたしは、大きなショックを受けながら、早瀬があたしを見て言ったことに意味があるように思えて。
きっとあたしに対する牽制もあるのだ。
キスぐらいで浮き足立つなと。
特別性なんかないと。
息が、苦しい。
だからあたしは――。
「三芳さん、ちょっと用があるんです! 来てくれませんか!?」
あたしは、早瀬をキッと睨み付けて、俯いて震えている女帝の方に手を回して、庇うようにしてその横を通り過ぎた。
「おい、なんで……」
「うるさい! この女の敵!」
「はあ!?」
あたしは悲しみと怒り心頭で、そのまま女帝をトイレに連れていき、そこで化粧をしている女性に頼み込んで、出て行って貰った。
「大丈夫ですか?」
「出て行ってよ……あんたも!!」
女帝を庇ったはずなのに、両手で顔を隠しながら泣いている女帝はあたしに怒鳴った。
「早瀬さんにこっぴどくふられて、いい気味とか思っているでしょう!!」
「……思ってません」
「嘘よ」
「嘘じゃない。あたし、早瀬と高校同じで……高校時代に早瀬にふられてるんです。優しくされて勝手に勘違いして、こっぴどく手のひら返されました。それ以来、ずっと辛くて辛くてたまらなくて、他に恋も出来なくて。二年前に再会した時は、神様恨みました。早瀬が嫌で嫌でたまらなかった」
「……」
「今、三芳さんの目に仲良く見えても、早瀬の心があたしにあるわけではない。仕事が絡んで優しくされる度、九年前が蘇るんです。そう簡単に、恋していた時の傷は消えてなくならない。おわかりでしょうけど」
「……好きなの? 今も早瀬さんを」
あたしは迷った末に、正直に言った。
「……はい。気づいたのは昨日です。……馬鹿ですよね、あれだけ傷つけられて泣いて暮らしていたのに、また同じ相手を好きになるって。生産性のない恋愛は、あたしの胸だけに留めますので、誰にも言わないで下さいね」
「……言わないの、早瀬さんに」
「言ってまた傷つけられるのが怖いから、言いたくないです。あたしひとり、抱えていればいいだけです。早瀬にはなにも望みませんし、期待も一切しません。三芳さんのように有能で美人でも駄目なのに、あたしでいいわけないのもちゃんとわかってますし。それに……どうやら、あんな男にでも本命がいるようですから」
「……っ」
「実はさっき、自分をダブらせてしまいました。あたしの時はひとりの女性の前でしたけれど、ひとりでも観客が嫌だったのに、あんな沢山の人の前で拒絶されることに、どれだけ三芳さんが辛い思いしているかと思えば……。あたし、本当に辛かったから」
〝俺には、好きな奴がいるから〟
我慢していたのに涙が止まらなくなってしまう。
悲しみに暮れてまた気づく。
あたしは自分を早瀬の特別だと思いたかったということに。
馬鹿な柚。
早瀬の音楽とキスに、あの優しさに、また事実がわからなくなっていたなんて。
「なんであんたが泣くのよ」
「ごめんなさい……」
「泣かないでよ、私が泣かせたみたいじゃない」
そういう三芳さんの声も涙声で。
「ごめんなさい」
「あんたって、本当にお人好しの馬鹿よね」
「ごめんなさい……」
「愛すべき馬鹿だわ!」
そう言うと、三芳さんはあたしを抱きしめてきた。
「あんたも、苦しかったんだね。……ごめんね、勝手に妬いて」
「そ、そんな……」
「そっか……早瀬さんとタメなら、高校から……九年来か。私は年下に片想いして三年。フラれて三年。三年でも辛くて、めげずにがんばっていたけど、あんたは九年、痛み抱えていたんだ……」
「……っ」
「ありがとう。フラれても押していけばいつかは必ず振り向いてくれるだろうと、……自業自得に突き進んだ私のために、トラウマぶり返しながらも泣いてくれて。あの三人は遠巻きにしか見ていなかったのに、あんただけは彼を叱って私を助けてくれようとした」
あまりにも優しい声で、堰を切ったように、あたしは声をあげて泣いてしまった。
女帝は今まで嫌いだった。
コミカルな出現とはいえ、いつもあたしを目の敵にしていたから。
なにも話していなかった。
なにも話そうとしていなかった。
あたし自ら、理解しあう言葉を拒絶していた。
素直な言葉を出したら、こんなにも女帝は優しくて。
女帝の傷に、あたしも共鳴して。
あたしの傷に女帝も共鳴して。
早瀬に対する、この複雑でやり場のない想いが少しだけ報われた気がした。
理解の言葉を待っているだけでは駄目だね。
自分から理解しようと動かなきゃ。
・
・
・
・
「え!!」
泣いて化粧崩れをした顔を、仲良く隣で修復していた時。
目を修復している女帝を見て、思わずあたしは驚いてしまう。
目が、小さいんだ。
「なによ」
「いや、その……目……」
「大変なのよ、毎日面倒でも時間かけて大きく見せるようにしているんだから! 私のコンプレックスなの、この小さすぎる一重の目!」
「お、大きくなるんだ。あんなにぱっちり二重に……」
「あんた何気に失礼ね! 化粧が上手いと言えないの!?」
「あ、その……ごめんなさい」
「ふん。ひとには黙っているのよ。トップシークレットなんだから」
「はい。だけどよかったんですか、あたしにトップシークレットを」
「……あんたが、頼んでもいないのに勝手に隠したい傷を見せてくれたんだから、これでも足りないくらいでしょう。馬鹿じゃないの?」
「……っ」
口は悪いけど、ほんのりと頬を赤く染める女帝は……いいひとな気がする。
「とにかく私、これからあんたにはネコ被らないから。だからあんたも、ビクビクおどおどしないでよ。私は化け物じゃないんだから」
「はい」
「なににまにましてるの。気持ち悪い」
……口、悪いなぁ。
そう思うけれど、なにか楽しくて。
「よろしくご教授下さい」
そう頭を下げると、
「堅苦しいわ。とりあえず、その言葉遣い直したらどう? 私は年上とはいえ、私達、対等なんだから」
やはりどこか頬を赤く染める女帝がふんと横を向く。
「わかった。よろしくね」
「よろしく、柚」
「えええええ!?」
「なによ、悪い!?」
「いや、そうじゃなくて。知ってたんだ、あたしの名前」
「私は有能な秘書兼受付嬢よ、馬鹿にしないで! あんたは馬鹿だから、私の名前、知らないでしょうけど」
「知っているわよ。三芳奈緒さんでしょう?」
「だったら、やり直し。はい、よろしくね柚」
差し出される片手。
「はい。よろしく、奈緒さん」
重ねる手。
……にっこりと満足げに笑う女帝……奈緒さんの顔は、既にぱっちりとした大きな目があり、とても綺麗だった。
昨日のあたしの立ち回りのおかげか、今日はやけに皆、あたしを見るとぺこりと頭を下げて、そそくさといなくなる。
今まで頭も下げてくれなかったことを思えば、ちょっぴり進化したかな。
今日は世界が違って見える。
藤岡くんは目の周りに凄いクマを作って、ぼぅっとしている。
企画百本ノック、課長に通したから徹夜でもして必死にやってきたのか。
早めに来て、珍しく仕事をしている茂、机の上にあるその企画書の山のために、お菓子を置く隙間がないのか、珍しくクッキーとかマドレーヌとかそういうものがない雑多な状態で、企画書を読んでいるようだ。
「藤岡くん、これは酷い。やり直し。明日までにさらに百!」
「ひっ」
容赦なく茂、斬ってしまったようだ。
茂、甘いもの食べないとイライラするおデブちゃんだからなあ。
ノート型パソコンの電源を入れると、あたしのバッグの中のスマホが震えた。
見ると、早瀬からのLINE。
『あのさ、なんで俺がお前に怒られないといけねーの? 俺、お前の気に障ること、なにかした?』
早瀬が好きな女は誰なんだろう。
――私さ、早瀬さんが好きなのは、あんただと思うわ。
女帝は帰り際、さっぱりとした顔でそう言った。
――私に気を遣わなくてもいいから。まだ引き摺るかもしれないけど、私、重い女にはなりたくないし、こっぴどくされたから逆にすっきりしたというか。
あたしが、早瀬の好きな女?
ありえないよ。
そんなこと、言われてもいないし。
なにを根拠にそう思えるというの?
勘違いしたら痛い目にあった過去があるのに、客観性なんて。
キスをしたから?
キスの回数?
甘々になったけれど、確かにそこは九年前とは違うけれど、そこに意味があるとすれば、ストレートで強引な男がはっきりさせないところが、意味があるのだろうと思うんだ。
あたしはきっと、愛人に適しているのだろう。
過去の傷があるから、早瀬に共の未来を求めない。
金で身体を縛られているのだから、どんな関係かなんてあえてはっきりさせなくてもいい。
求めれば応じる、使い勝手のいい愛人程度で。
……セフレ、ともまた違う。
本命がいるのなら、そっち抱けばいいのに。
早く生理が終わらないかなと思ってしまった、昨夜をやり直したい。
『既読無視は許さねぇぞ。なぁ、怒ってる理由を教えてくれよ。気になって会議に身が入らねぇ。怒ってねぇなら勘違いだと言って』
返事を書くのも嫌だけど、会議の妨げになるのもと思ったあたしは、ウサギが怒りまくっているスタンプを押した。
そういえばこれが早瀬に返す初めてのものだ。
『やっぱり怒ってる!? どこが!?』
わからないのが余計に腹立たしい。
直後、汗を飛ばしている、りすのスタンプが送られてきた。
なんだ、りすの自覚あるのか、りす王め。
あんなにりすの被り物が嫌だと言ってたくせに、スタンプは用意しているのか。ほーほー、誰とこのスタンプのやりとりしてたんでしょうね。
そういえばそんな女はいないとか力説して、スマホも見せてくれたけれど、仕事用のスマホの中にカモフラージュされているんでしょうかね。
信じられない!
そう思ってスマホの電源を切って、さあメールチェックをしようと思ったら、パソコンが立ち上がらない。
コンセントも抜けていないし、何度も電源ボタンを押したが、うんともすんとも言わない。
「おや?」
ひっくり返しても側面にも、全く異常はないのに、起動しない。
「やば! 中にある報告書、今日提出しないといけないのに」
既に作成してあるのに、外部保存していなかったために立ち上がらないパソコンの中にしかなく、このままパソコンがおかしくなってしまったのなら、報告書もその他諸々まとめていた貴重な資料もデータも、すべてなくなる。
え、パソコンってこんなに突然おかしくなるものなの!?
さぁぁぁと血の気が引いたあたしは、パソコンを手にして下のシークレットムーンに行って見た。
パソコンを取り扱うところであるのなら、きっとパソコンも復旧して貰えるだろうし、あるいはデータを吸い出してくれるかもしれない。
初めて行く千絵ちゃんの会社だ。
ドアを開けると、同じ間取りのはずなのにやけに閑散として思えた。
受付がないから、どこに声をかけていいのかわからないが、丁度こちらに向かってきてくれる女性がいた。
「どうかしましたか?」
髪の毛をアップにしている、やや童顔のかわいい系の美人だ。
春めいたピンクとかの服なら似合うだろうに、きっちりとした白黒のスーツで大人のお洒落を演出している。
「ええと、上のエリュシオンに居る者なんですが、実はパソコンが動かなくなってしまったので、斎藤千絵ちゃんを頼ろうと思って……」
するとその女性は哀しげに微笑んだ。
「斎藤は、退職しました」
「え? 退職!?」
挨拶もしないまま辞めてしまったことがショックで。
「え、なにがあったんですか?」
「……私事都合だそうです」
会社が好きだと千絵ちゃんは言っていた。
なにか、急変した事情があったんだろうか。
もう千絵ちゃんに会えないのか。
ずっとお昼、ひとりか……。
「主任、どうしました?」
その時、奥からスーツ姿の男性が現われた。
艶やかな黒髪に眼鏡。
理知的な涼やかな美貌。
凄まじいイケメンだ。
「あ、香月課長。実は上の会社の方のパソコンが動かないそうで」
香月さんと言うのか。
これは早瀬といい勝負になりそうだ。
ただ、早瀬は自由人の感じがするけれど、香月さんは物静かな優等生タイプのようにも思える。早瀬が嫌うITの典型的なインテリタイプだろうな。
何歳なんだろう。
とても若い気がするけれど。
「お預かりしてもいいですか?」
「あ、はい」
香月さんが、渡したパソコンの裏を見ながら尋ねてくる。
「症状は?」
「電源ボタンを押しても起動しないんです」
「電源コードはいつも入ってましたか?」
「はい。ただ前にちょっと外れていたことに気づかないでいたことはありましたが、その後は使えてました」
「使っていてなにか変な音がしたりとかは? ギーとか、カタカタとか」
「いいえ、特には」
「じゃ、ハードは大丈夫かな。念のため、データー抜き出した方がいいですよね、お仕事に支障あるでしょうから」
「はい、是非お願いします!」
「課長、大丈夫そうですか?」
「中を見ていないからなんとも言えませんが、多分大丈夫だと思います。恐らくバッテリーの類いで電源がつかないだけだと思うので。データも問題なくコピー出来るかと」
にこりとした……だけど営業用だとはっきりわかる、涼やかな笑顔。
……あたしも早瀬でイケメン耐性がついているようで、くらりとはするけど、倒れるほどまでにはいかない。
なんなの、このビル。
上の忍月コーポレーションの宮坂専務といい、イケメン率が高すぎる。
「課長は杏奈とプログラムを組んでお忙しいでしょう。あたしが……」
「私は大丈夫です。あなたはあなたの仕事を」
この課長さんの、彼女を見る眼差しが優しい。
相当気を許しているのかしら。
「……わかりました」
女性は頷いて、あたしの方を見た。
「出来るだけ早く復旧させ、終わったらお持ちします。ええと、お名前……」
「上原と言います。企画事業部の育成課でチーフをしてます。受付に言って下されば……」
「わかりました、上原チーフですね。あたしは、斎藤の上司であったWEB部主任をしております、鹿沼と言います。あ、こちらはあたしの上司である課長の香月です。上原さんのPC、責任持って承ります」
ふたりは揃って頭を下げたため、あたしもつられるようにして頭を下げた。
「あ、失礼ですが代金はどれくらいなのでしょうか。見当がつかないので、それまでにATMで下ろして用意しておきますので」
鹿沼さんは香月課長と顔を見合わせ、課長が頷き彼女も頷いた。
「然程作業も必要ないと思いますので、こちらの件は無償で」
「え、でも……」
「実は今までも何人か、このビルの中の方が焦って飛び込んでらっしゃいます。同じビルに勤める者同士の、友情価格と思って下されば」
「……しかしっ」
「では。もしも私達が困ったことが出てきたら、相談に乗って下さい」
鹿沼さんも香月さんも優しく笑う。
いやいや、ITがうちを必要とすることはないでしょう?
「困った時にうちを思い出して下さっただけで、今のあたし達はとても嬉しいんです。あたし達は信用第一でいきたいと思っていますので、パソコントラブルだけではなく、パソコンに関するもの全般に、なにかあればまた来て下さいね」
鹿沼さんの言葉にほろりとしてしまう。
鹿沼さんは可愛いだけじゃない。
きっと仕事が出来るひとなんだろう。
言葉尻から頼もしさを感じられ、安心する。
そして香月さんといい、困ってるひとを少しでも早く助けてあげようという善意が、ひしひしと感じられた。
うちのように、相手がなにを望んでいるのかどうでもよく思い、ただ自分のところの利潤を追い求める会社ではないのだろう。
信用第一……。
あたしも、そんな会社に居たかった。
昔のエリュシオンはそれに近かったのに。
「大丈夫ですよ、ご安心下さい」
鹿沼さんはなにを勘違いしたのか、励ましてくれた。
「ご機嫌斜めの上原さんのパソコンに、ちゃんと喝入れておきますから」
温かいひとだ。
千絵ちゃんはいつも言っていた。
主任がとてもいいひとで、会社になくてはならない存在だと。
彼女が頑張る限り、会社は倒れない……と。
いいなあ、頼られるひとは。
会社になくてはならない存在なんて、羨ましいなあ。
同じビルにいるのに、鹿沼さんを雲の上のひとのように感じながら、あたしは手を振る笑顔の鹿沼さんと、にこやかな笑顔を向ける香月さんを背にした。
……そして二時間後に復旧しただけではなく、動きが格段に速くなってレベルアップしていたパソコンと、データをDVDに外部保存してくれたその素早さと鮮やかさに、誰がなんと言おうと、IT従事者は神様のように凄いと絶賛せずにはいられなかった。
もしシークレットムーンが頼ってきたら、あたしが先頭に立ってなにかしてあげたいと、そう固く心に誓った。
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