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第5章 Invisible Voice
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◆ハデス
ローマの神話では冥王星の名前の由来ともなったプルートと呼ばれるが、ギリシャ神話において、ティターン神族(オリュンポスの神々より前の古の神々)の長であるクロノスとレアとの間に生まれ、ゼウス、ポセイドン、デメテルらの兄弟である。
「生まれた子供に権力を奪われる」という予言を信じた父クロノスに丸呑みにされ、ポセイドンらと共に父親の腹の中に幽閉されて育ったが、ゼウスに救出され、兄弟でティターン神族と戦い、勝利した結果、ゼウスは天空を、ポセイドンは海を、ハデスは冥府を支配することになった。
正妻がいてもたくさんの妾と妾腹の子を持つ兄弟と違い、ハデスは真面目で一途、心優しい性格の堅物とされるが、一目惚れをした姪のペルセポネーを地上から略奪して妻にする(ゼウスの策略とも言われるが)、強引さがある。
◆ペルセポネー
ゼウスとデメテルの子供で、大地の女神デメテルに愛情を注がれて育ったが、彼女に一目惚れをしたハデスによって(一説によると、馬鹿にしたペルセポネーに対するアフロディーテの報復としてエロスがハデスの心に矢を打ち抜いたとされる)、冥府に誘拐されてハデスの正妻にされる。
ハデスは、ハデスの兄弟でありペルセポネーの父であるゼウスの許可を貰って妻に迎えたが、ペルセポネーは母が恋しいと冥府で泣いて過ごして、ハデスを困らせる。
一方、娘を勝手に奪われた母デメテルの悲憤のストライキにより、地上の凶作に困ったゼウスは、ヘルメスを使いペルセポネーを冥府より連れ出そうとするが、ペルセポネーはハデスに勧められるまま、冥府の食べ物である石榴(ザクロ)を口にしてしまったため、食べた分…1年の三分の一は冥府にいないといけなくなった。これが四季の始まりとされる。
その後、ハデスとペルセポネーは、冥府で仲睦まじく過ごしたと言われている。
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*+†+*――*+†+*
朝七時――。
早瀬の車が迎えに来て、電話の合図で下に降りると、黒い外車が停まっている。
「おはよ」
窓を開けて出てきたのは、眼鏡姿の麗しい王子様の顔。
涼やかで爽やかなのに、微妙に気怠い感じが、色っぽくて。
――いいか、言葉遣いを戻せよ。戻さなかったら、公開処刑だから。
ぞっとする脅しをしてくれたおかげで、なにか強張った顔で笑う。
「おはようご……ざる」
「なんだよ、それ」
ちょいちょいと指を振ってあたしを呼び寄せれば、顔を下げて見下ろしたあたしの唇に、顔を上げて朝のキス。
「なっ、朝っぱらから公衆の面前でなにしてるのよ、このエロ男!!」
思わず、びしぃぃぃっと指を突きつけて叫ぶと、悪気なさそうな顔で早瀬は笑う。
「一応、虫除けと自己主張?」
「はああああ!?」
「べた惚れな彼氏の」
「ふり」と小さく言い、目を固定して瞳だけを別の方向に向けてあたしを促すと、ブロロロロと音がして、なにか黒い車が過ぎ去った気がする。
「乗れ」
鋭い眼差し。声の調子が変わり、慌ててあたしは反対側に回り込んで、助手席に乗ってドアを閉めた。同時に車がゆっくりと動く。
今さらだけれど、早瀬の運転は上手だと思う。
運転手の気分が損なえば荒くなるものの、高級外車だということを忘れれば、お年寄りでも安心して乗れるんじゃないだろうか。
「……あの黒いボックスカー、五時には来ていた」
「ええええ!? って、なんで知ってるの、そんなこと。まさかあなたも五時から居たの、うちの前に?」
「ああ…、まあ厳密に言えば、三時からだな。どんな奴なのか、見極めねぇといけねぇからな」
「三時!? 寝てないの!?」
「家で仮眠はとったが、気になって」
「は……」
「大丈夫だ、仕事が入れば貫徹が続くのザラだから。気にするな」
何でもないという顔で早瀬は言いながら、ハンドルを切る。
「朝からこうやってお前を待っていれば、勘づかれたと思うだろうし、いつ誰が出てくるかわからないところでキスしてれば、そっちの面からも俺がお前を離さねぇと、拉致作戦変えるだろ」
あのキスは作戦だったと思うと、ちょっぴりショックを感じているあたし。
そんなことを言った日には、大通の真ん中で派手なキスをしてきそうだから、絶対いっちゃいけない。
「あ、あたしなんですかね?」
「……恐らくは。窓が開いて、男が手にしていた双眼鏡がお前の部屋に向いていた」
ぞぉぉぉっとして、あたしの全身鳥肌だ。
「じゃあ、二時間も張り込んでたんですか、あいつら。さらにあなたは、四時間!」
なんだか早瀬に申し訳ない。
その間、あたしはぬくぬくと寝ていたんだから。
「俺が見ていることに気づいていたから、根比べしていたんだろうな。何度も通り過ぎては、違うところに駐車して、最終的にあそこになったようだ」
「はぁ……」
本気に引っ越さないといけないかなあ。
「しかしなんで突然……。なにか重要機密なものを拾ったとか見たとかしてないし、至って普通に会社に行き来していたというのに」
「ここ数日、家でなにか送られたとかもねぇの?」
「数日に家に来たのは……大家のおばあちゃんだけだし。いつものお煎餅といつものお花を持ってきてくれただけだなあ」
「だとしたら、お前がなにかしたというわけではなく、向こうがお前を必要だということだな」
「本当にあたしかなあ」
三階建ての建物には、二十四室満室だ。
しかも全員が、あたしと同じ時期……改築時に入居している。
ご近所づきあいはしていないけれど、そんな……物騒だったり、なにかに追われているような挙動不審なことはいなかった。
そう思えば、あたし以外も該当者がいないのだ。
「今夜からなんだが、お前、青山の俺のスタジオで寝泊まりしろ。俺もそっちから会社に通うようにする」
「へ?」
――俺もそっちから会社に通うようにする。
待て待て待て!
「ひとつ屋根の下……同棲!? それはちょっと……」
思わず身体を早瀬からそらすようにして、ドアに張り付いた。
「はは。同棲か。そこまで考えてなかったが、それもいいな」
「よくないって! 嫁入り前の娘がそんないやらしい……」
ぶるぶると身震いしたら、早瀬が笑う。
「お前いつの時代の人間だよ」
頑なに家に男を入れなかったのは、実は細かい亜貴のせいでもある。
最初物騒だからと中々一人暮らしを認めてくれなかった亜貴は、家に男を入れないという約束で許してくれたのだ。
亜貴はかなり古風な男で、料理もきちんと出汁の取り方からなにから、料理のいろはを教えてくれたから、一人暮らしをしても自炊に困ることはない。
「……別に、相手が同じならいいだろ」
昔を思い出していたら、早瀬の言葉を聞き逃した。
「なにか言いました?」
「……聞けよ! なんでそういう時はお約束で……ああ、これは今はいい。よくはねぇけど後回し。後回しと言っても、そこまで後にはしねぇけど、今は先にやることがある。……いや、こっちが先か?」
……なにについて、こんなにぶちぶちと言っているんだろう。
「とにかく、念のためだ。俺のスタジオなら、セキュリティーがしっかりしてるし、人通りに面してる。俺の会食が今夜七時からになっちまって、これ昨日延期させた手前抜け出せねぇから、とっととすませて帰って来るが、その間誰かつけるわ」
「要らないって、そんな大事にしなくても……」
「駄目だ。小林も格闘系いけるし、裕貴も金曜の今日テスト終えたら、月曜から高校休みになると言ってたし、打ち合わせも必要だったから、全員呼ぶか。……小林の嫁、苦手だけど後で電話するとして……」
「打ち合わせ?」
「お前のことと、音楽のこと。営利目的なエリュシオンでどうなるかわからねぇけど、HADESのコンセプトで、俺が信頼出来る奴らで安心出来る場所で進めようと思ってる。あのスタジオなら機材もみな揃ってるし、足りねぇようならまた小林のところから持ち出してもいいし」
「裕貴くん、大丈夫かな。いきなりの大役……」
「あいつは度胸がある。口はうるせぇけどやるときゃやるし、場数踏ませねぇとあいつも伸びねぇ。あいつの柔軟性あるギターの音は好きだし、音楽界に出ている奴を使うと、いつ情報が漏れてオリンピアや他のところにかっ攫われるかわからねぇしな。だから名がなくてもいいんだ。俺が信用出来る音を出せる奴がいれば、アマでいい。それでいく」
昨日、裕貴くんからLINEが来た。
『柚、また会おうね』
そのひと言は、早瀬になにか言われた後だったんだろうか。
「どうしてもHADESプロジェクト、世に出したいんだ」
「当然。やると決めているのに、不条理な横やりでやめてたまるか。そんなものに屈しねぇよ」
完璧主義の有言実行で有名になった王様なら、どんな逆境でも自分の力で切り抜けそうだ。
「小林さんのドラムも上手いの?」
「ああ。大学時代、音楽……ギターの勉強にと、色々なライブハウスに顔を出してて、あいつのパワーがあるのに正確なリズムに惚れ込んで、バンド組ませてくれと頭を下げた。あいつが結婚してスタジオ開くまでの三年間、バンド組んで仲良くしていた。今でも年末に一回、ライブをしてる」
早瀬と再会して二年目。
そんなことをしていたなんて初めて知った。
知ろうとも思わなかった。
いつもすました涼しい顔で、余裕に満ちていたから。
そんな人間的な部分があるのを、あたしは拒絶していたから。
「でもプライベートの方には登録してないんだ?」
「ああ。あくまで仕事の一環だからな。不用意に巻き込みたくねぇから。色々なものに」
そう前を見据えて運転する早瀬の横顔は厳しくて、なにかひっかかりを感じた。……こうした音楽界の利益が絡んだトラブル、という意味だろうけれど、それ以外にもなにかあるような気もして。
だけど、なぜかそれは聞けなかった。
「話戻すが、合宿のノリでいいからスタジオに寝泊まりしろ。客室も無駄に多くある。せっかく雇っているハウスキーパーも仕事のしがいがあるというもんだ」
「……でも合宿ならとくに、あたし邪魔になるし……」
「俺、言ってたろう? お前をプロジェクトに入れたいって。演奏以外にも、お前は能力がある。卑下するな」
「……っ」
「お前のいねぇ音楽は作る気ねぇから。だったらとりやめる。今俺が強行しようとしているのは、お前が入ること前提だぞ。ボーカル見つけて終わりじゃねぇからな? 他人事に傍観してるんじゃねぇぞ、絶対音感」
「……ぅ」
「あ?」
「ありがとう……」
……嬉しくて。
仕事も出来るわけじゃない。
音楽も中途半端にやめて、あったのは……至高の音楽を届けたいというプライドだけ。
そんなあたしを奮い立たせてくれることに。
あたしも出来るかもしれないという気にさせてくれることに。
「どういたしまして」
早瀬はにっと笑って、涙が流れた頬を指で拭った。
ああ、あたし。
どうしようもなく絆されている。
また傷つけられたら、立ち直れないかもしれない。
苦しんだ過去をなかったことには出来ない。
別に早瀬に好きだと言われたわけでもない。
期待することすらおこがましいくらいに、今のあたし達に流れる空気は和やかで優しくて、なにも知らない九年前みたいで。
「同棲か……いい響きだな」
「同棲じゃなく、ただの同居です!」
「お前が言ったんだろ?」
「そ、そうだけど……。合宿なら」
「別に同棲でも歓迎だけど」
「いりません!!」
「……こら、言葉遣い」
「いらないっ!!」
「はは。尖ってる唇、頂き」
信号で停まると、早瀬は顔を傾けて、唇を奪ってくる。
「運転をしろ――っ!!」
「あはははは、真っ赤」
横浜に行って、あたしは変わってしまった。
あれだけ警戒していた、禁断の領域に踏み込んでしまった。
昔のようにぽんぽんと出来る会話が楽しくて。
あれほど嫌でたまらなかった、この空気が楽しくて。
……キスが嬉しくて。
同時に、この先あたしはどこに行き着くのだろうと思うと、これからが不安で……、そのぎりぎりの平衡をあたしの勝手な感情で崩したくないと、涼やかな早瀬の顔をこっそり見つめては切なくなった。
応援ありがとうございます!
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