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第7章 Staying Voice
1.
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The greatest happiness of life is the conviction that we are loved – loved for ourselves, or rather, loved in spite of ourselves.
(人生最大の幸福は、愛されているという確信である。自分のために愛されている、否、もっと正確には、こんな自分なのに愛されているという確信である)
Victor Hugo
・━…‥・‥…━・
*+†+*――*+†+*
静謐な薄闇の中に、荒い息が聞こえる。
軋むベッド。
ふたり分の重みが擦れて、濡れて縒(よ)れたシーツの皺。
聞こえる水音は、どこから発せられたものかもうわからない。
飽くなき愛の言葉と相手の名前は、消え入りそうに弱々しく、それを闇に消すまいとして、何度も何度も繰り返されて。
あたしは、自身の快楽を求めるよりも、須王の感じる顔が見たかった。
今まで気づこうともしなかった彼の愛の深さが、絶対ありえないという先入観で却下していた彼の激情が、彼の身体から伝わってくる。それが深く強ければ強いほど、彼を失望させたくなくて。
せめて身体ぐらいは、彼の好きなように……と思っていたのに、好きな相手に抱かれるという行為は、思った以上にあたし主体で心まで官能的に感じさせて、何度も急激に上り詰めては、振り出しに戻されて。
果てた直後はとても気恥ずかしいのに、彼はキスをしてくる。
よくやったねと言わんばかりのキスをして、さらなる刺激を与えてくる。
貪欲に求めてくれるのが嬉しかった。
どんな恥ずかしい姿も、彼には見せられた。
触れていたい。
繋がっていたい。
彼への想いを封じるのは長きに渡って苦しんでいたというのに、想いを解放した途端、九年の想いは簡単に、奔流のように流れ出る。
心まで彼に抱かれたいと、彼をぎゅっと抱きしめながら啼いた――。
「柚……は……お前、やばすぎ……っ」
端正な顔に絡む、汗に濡れた乱髪。
切れ長の目は苦悶に細められ、半開きの唇から甘い息が漏れる。
正常位で繋がる彼は、男らしい喉元をせり出すようにして、なにかに耐えるように天井を仰ぐ。
その色香は凄絶に満ちていて、見ているだけでぞくぞくと欲情してしまう。
筋肉が隆起した双肩。
男らしい、がっしりとした精悍な身体。
汗ばんで紅潮した首からは汗が滴り、太い鎖骨がセクシーで。
早瀬須王というものを象るすべてのものに、フェロモンが漂って。
……この身体にもっと包まれたくて、身体が熱く切なく、きゅぅっと疼く。
「柚、俺だけイカせるな。柚……っ」
その上に欲情した時になるハスキーな声音を聞かせられれば、須王しか経験のない素人のあたしは、それだけでたまらなくなる。
彼を、あたしのすべてでぎゅっと抱きしめれば、須王が悲鳴を上げるようにしてあたしに抱きついてきて、あたしの身体の中で果てた。
薄い膜一枚に隔たれ、熱い彼を直に感じられないのがもの悲しくも思う。
須王は、後始末をするとやるせなさそうな息をして、あたしの唇を奪い、念入りに舌を絡ませると、静かに息を整えたようだ。
「お前相手だと、自制は利かねぇわ、やけに絶倫だわ、早漏だわ。はぁぁぁ、格好悪ぃ」
彼はごろりと仰向けになってベッドに倒れると、あたしの頭を腕に乗せて、そのまま彼の身体に引き寄せ、布団をかけた。
「少し寝ようか。……へばられたら、明日……といっても、もう今日か。なにも出来なくなるから」
「え、まだするの?」
「勿論。九年分を取り戻さねぇと」
「ゆっくりいけば……」
「駄目。抱けば抱くほど、またお前に惚れちゃってるの。これでも我慢してるんだぞ?」
さらりとそう言って、あたしを赤面させる須王。
濡れたダークブルーの瞳が優しくあたしを見つめていた。
「……あ」
「なに?」
「肝心なこと忘れてた。やべ……先にこれもちゃんとすべきだったのに。ちょっと待っててくれる? すぐ戻るから」
「うん?」
須王はベッドの上で上体を起こすと、そのまま隣の部屋に行った。
「………」
なんというか、全裸のまま美形が歩くのって絵になると思っていたけれど、美しいお顔と長い手足と逞しい胸板はいいとしても、今まで繋がっていたものも目に入ると思えば、なんだか生々しい気がして、それを見る前に思わず目をそらす。
あたしだって、まだ女の子なのよ。……ぎりぎりだけど。
そんなあたしの戸惑いを知らずに戻って来た須王は、あたしの上体を起こすと、なにかを差し出した。
「これ、使ってねぇから」
……それは通帳だった。
記載されている口座番号は、毎月借金返済のためにと振り込むように指示されていたものだ。
「え?」
なんで返されるんだろう。
「お前に返す。そして……もう要らねぇから。借金返済終了、今まで毎月欠かさず、ご苦労様」
須王は笑って、あたしの頭を撫でた。
「お前の積立金、結構貯まったぞ?」
「な、なんで……っ」
すると彼は薄く笑った。
「元々お前から取る気はなかった。なにが嬉しくて、心底惚れた女から金を毟り取って抱くかよ。……そうしてまで、お前が欲しかった。お前を俺のものにしたかったんだ。お前を縛る名目に使っただけだ」
「……っ」
須王の告解は切なくて、あたしの手に握られた通帳が震えた。
――これは契約だ。ヤクザに売れる体なら俺に売れ。俺が抜きたい時に性処理としてお前を抱く。拒絶したら契約は白紙だ。
……あたしは、その言葉を信じてきた。
彼の真意は……こんなにも切なすぎて泣きそうだ。
半年、あたしは見当違いの思いを向けられているのだと思って、抱かれてきたというの?
その真偽は、今の彼の表情とその言葉の音から真実だとわかる。
どうしてあたし、今まで彼の心がどこにあるのか、見抜けずにいたのだろう。どうしてあたし、ひとりで苦しい想いをしてきたんだろう。
セックスまでして、彼の近くにいたはずなのに――。
「……っ」
あたしは震えたまま、通帳を開いてみた。
それは半年前から、毎月給料が出た日やあたしの預金を振り込んだ金額が、預金の部分だけに記載されて、合計金額だけが増えていた。
一千万には満たないが、あたしが把握しているのと同じ金額が、そこにはあった。
「いつか、要らねぇと言おうと思いながら、そう言ってしまったら、お前に見向きもされなくなってしまう気がして。だから言えずにいたんだ。半年も」
「でも、現実にあなたから借金を……っ」
「お前を手に入れるために投資した金だ。なにも惜しくねぇ」
「だけどっ」
「いいんだよ、お前が傍にいてくれるのなら、それだけで」
優しく言うと、須王はあたしを抱きしめ、耳元に囁いた。
「俺の傍に、ずっと……居てくれるだろう?」
懇願するような頼りなげな声に胸が絞られる。
彼はきっと不安なんだ。
あたしを傷つけたという後悔や罪悪感があれば余計に。
……あたしですら、あたしの無意識レベルでは彼を許せていないかもしれないんじゃないかという不安はある。彼を好きだと自覚すればこそ、それだけですべてを許せるほど、あたしは出来た人間ではないということがわかっているゆえに。
許したいと思える前向きな気持ちだけが、今のあたしのすべてだ。
これからの時間がきっと、それを解消していくのだろう。
だけどこのまま、今の状況が続いていくという保証はない。
きっと、そこを彼は憂えているのだろう。
ああ、どうして恋愛って。
今が好きで幸せだからと満たされずに、未来に不安にもなってしまうのだろう。
彼は王様なのに。
……王様だからこそ、未来に続く環境は不安定だと見越しているとか?
あたしには未来を見通す力はないけれど、あたしは今の心を信じることしか出来ないけれど。
それでも、彼のために出来ること――。
「うん、傍にいるよ」
頷きながら、あたしは言った。
「でも……お願い。お金は返させて」
「要らねぇって」
「返済の間は、あたしはあなたに抱かれるために、あなたの傍を離れられない。……そういう契約でしょう? だからあたしは、責務を果たすために契約履行をしたいの」
「………」
「返済が終わってないのだから、消えていなくならない。あたしは借金を放置したまま、あなたの前からいなくならない。これは、そういう契約でもあるの」
わかってくれるかな。
契約はあたし達を結びつける縛めになる。
あたしが泣いて呪った関係は、未来への確実な束縛となる。
今度は、あたしが望んだ形で――。
「返済が終わったら?」
ぼそりと尋ねた須王に、あたしは笑った。
「また契約すればいいでしょう?」
自由すぎる未来に怯える須王は、この確約が安心になって欲しい。
きっと彼は、制約されてがんじがらめになりすぎた環境で慣れてしまっているのだ。だから、仕事も平気でこなせて苦に思わない。
だったら、あたしが彼の未来を縛ればいいと、思ったんだ。
「あたしはまたお金で、あなたの無償の愛を買うから」
おかしな愛の形――。
だけどわかりやすいそれこそが、あたしの無償の愛だとわかって欲しい。
「金を払うのに、無償の愛?」
「そこはいいのよ、ニュアンスを取ってよ。あたしが言いたいのは……」
「……ありがとう。そうやって、俺を縛ってくれて」
須王はわかっている。
あたしの言葉に潜む真意を。
「じゃあ俺、お前から金貰ってお前の愛も貰うわ。両得だな、この契約」
だから、わざと揶揄するように言ったんだろう。
「あら、あたしだって契約中は、ちゃんと守って貰いながら、あなたの愛を貰うのよ。そこ、惜しんだら契約終了だから」
……不器用だな、あたしも彼も。
だけど恋愛初心者なんだから、仕方がないか。
恋愛のいろはがわからないから、押し通すしかない。
一緒に、少しずつ進んでいくしかない。
「……別に金、いらなくね?」
「いるの! 契約なんだから」
「俺、貰っても金使わねぇぞ? エリュシオンからふんだくったもの以外にも、色々と入ってくる自分のがあるし」
「本当に、売れっ子プロデューサーは言うことが違うわね。あなたは金遣いが派手なんだから、老後に備えればいいじゃない」
「老後は……」
須王は身体を離すと、切ないくらいに直線的な目を寄越して言った。
「お前がいれば、それだけでいい」
「あはははは。契約が切れていなければ、あなたの傍にいますよ?」
「……きっとお前の人生を縛る契約は、この他にすると思うけど」
「え?」
まるでプロポーズみたいで、思わずどきりとしてしまった。
「……今は俺の願望だ。ちゃんとしたら、契約させるよ」
「な、なんで上から目線?」
ドキドキしすぎて、声がひっくり返れば、須王はそれを見抜いたように呵々と笑うが、そこには触れなかった。
「お前には、俺はこうなの!」
「誰にでもそうじゃない」
「お前にだけだよ。お前は特別なんだよ」
「真顔でストレートに言わないでよ」
「はは、真っ赤」
「誰のせいよ!」
ふたりでひとしきり笑った後は、自然に無言となり、濃厚なキスを繰り返して身体が火照り、また須王に抱かれた。
夜はまだ明けない――。
ねぇ、他の契約って……なにを想定したの?
そのためになにをしようとしているの?
あたしは、そこまではあなたに求めない。
あなたは、世界に羽ばたける自由なひとだから。
あたしは、あなたの安らぎになれるのなら、形式なんてこだわらない。
だけど、今まで交わらないと思っていた彼の未来に、あたしも入れてくれているんだと思ったら、なにか嬉しくて……、須王に気づかれないように涙を零した。
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