エリュシオンでささやいて

奏多

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第10章 Darkness Voice

 9.

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 最初、なにを言われたのかわからなかった。
 だけどようやく記憶を辿り、内調の棗くんが追っているという、世界規模で記憶を失わせる柘榴の香り……その匂いだと言っているのだと思い至った。

 やがて棗くんは歩き出し、女帝の肩を叩いて訊く。

「あの部屋の匂い、襲撃受けた次の日の木場の喫茶店に漂っていたのと同じ香り?」

 すると女帝は怪訝な顔をしていたが、急に手を叩いた。

「そうか、それか。なにかどこかで嗅いだことがあると思った」

「AOPだとしたら、なぜ……」

「待って棗くん。AOPの匂いを知っている棗くんや、さっき部屋の中の匂いを皆で嗅いだのに、どうして記憶が奪われていないの?」

「私が嗅いだことがあるのは、なんの害もないただのサンプルのような匂いよ。それと皆で嗅いでも記憶に影響がないのは、あんな程度の空気に溶けたような香りでは無害だということかしらね。事件が起きて漂う匂いはかなりのもので、嗅覚がいいひとは倒れるほどのレベルだと聞いているし、前にも言ったけど、記憶が失った後の記憶の合成方法もよくわかっていない」

 確かによくわかっていたら、棗くんが秘密裏には動かないよね。

「ちょっと待ってよ。遥の担当はなんでここのナースじゃないのさ!」

 先に行った裕貴くんの怒鳴り声が聞こえる。

「容態が急変してから担当ナースと医師が数名つくことになったのよ。とても腕のいい医者達だから……」

「さっき、血しぶきが透明なカーテンにかかってたぞ!? あれのどこが腕がいいんだよ、治療でなんであんなに血が飛ぶんだよ!!」

「血しぶき? え……採血でも失敗したのかしら」

「ありえないだろう、採血に失敗してどうしてあんなに血が飛ぶんだよ!」

 地団駄を踏む裕貴くんに、さすがの看護師さんもなにかあったのではないかと不安になってきたようだ。

「ちょっと見てみるわ」

 そう、ナースステーションから赴くと、自動ドアが開いた。
 あたし達を追い出したいけすかない白衣の男性だけではなく、他の医師や看護師もいて、合計で五名だ。


「遥をどうしたんだよ!」

 裕貴くんが胸ぐらを掴むから、あたしと女帝は慌てて引き剥がす。

「治療です。見てわかりませんでしたか?」

 大して若くもない医師が、すーちゃんと口にして足を踏み入れてきた棗くんと女帝を見て、剣呑に目を細めた。

「治療に、なんであんなに血が飛び散るんだよ!!」

「あれは、切開治療です。良性腫瘍に膿が溜まっていましたから。よくあることです」

「あんなに血が出て平気なわけねぇだろ!?」

 須王がすっと足を進めて言った。

「見せて貰えないでしょうか。万が一の医療ミスもありえますので」

「時間の無駄です」

「医者は患者の家族の質問に答える義務があります」

 するとその医師は大仰なため息をつくと、他の者達を先に行かせた。
 誰もが仮面を被っているように無表情で、不気味だ。

「そこまでお疑いになられるのなら、どうぞ。きみも来い」

 医師は白衣を翻して、狼狽する看護師さんにも同席を許可して、遥くんの病室に戻っていく。

「――っ!?」

 ドアを開けた部屋には、カーテンも機械もなにもなかった。
 あの物々しい風景は、夢でも見ていたかのようにどこかへと消え去り、ベッドには点滴をつけた少年と思われる若者が眠っていた。

 これは――。

「遥、大丈夫か!?」

「こら、きみっ」

 裕貴くんは病室に飛び込んで、目を瞑っている少年を揺さぶると、少年はうっすらと目を開いた。
 まるで眠りの美女のような美しい目覚め方は、どう見ても天使がその場にいるようで泣きたくなってくる。
 天使と同じ顔が、目の前にある――。


「裕貴……。夢かな、きみとまた会えるなんて……」

 その声は、声変わりをした……上野公園でのあの少年と同じもので、美少女だった女の子の天使が持ち得ない声色だ。

 ベッドから出したその手は病衣が捲れて、縫われたのか、紫色に変色している引き攣れた傷が無数に見えた。

「夢じゃないよ、現実だよ!」

「もういいだろう。出て行きなさい」

「もう少し! 遥、具合はどう?」

「ん……ぼちぼちだよ」

 そう笑う顔は痛々しいくらいに具合悪そうで。

 ……違う。
 HARUKAじゃない。
 HARUKAは元気そうだったもの。
 だけど顔は同じだ。
 ただそこにある溌剌とした生気があるかないかだけの違いで。

「ほら、出なさいっ」

 医師に無理矢理裕貴くんは引き摺られた。
 顔を捻るようにして遥くんの名前を呼んでいたけど、あたし達も含めてまた追い出されてしまった。今度はナースステーションの看護師さんも、追い出す側に回られてしまった。

 天使は置いておいて、少なくとも遥くんがHARUKAだというのなら、抜け出るだけの体力が必要だ。

 HARUKAと瓜二つの顔だけれど、あんな状態なら外を出歩けない。
 大体抜け出したことを、病院側が知らないはずはないだろう。
 ……だから遥くんは、天使でもあの子でもない。
 あたしの思考がそう結論づけた。
 あの顔は天使でもHARUKAでもないと言えるだけの違いは、あたしには見いだせなかったのだ。他人の客観的な判断を重んじれば、寝たきりの美少年がこの病院に囚われていると思う方が、よほど現実的だ。

 それにほら、あたしと目が合っても遥くんはなにも言わない。
 わからないから、言わないんだ――。

 だが、ドアがしまる直前に、鼻歌が聞こえた。

 それは、上野公園でギミックの頭が歌っていたのと同じ旋律。

「瞋恚」

 須王の目がぎんと細められる。


 そして続けて、こう聞こえたんだ。

「……またね、お姉サン。次は思い出してね」
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