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もう一人の『碧』

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 じりじりと、太陽の光が肌を焼くように照りつけている。波音が身じろぐと、はだけた背中とふくはぎに、さらさらとした砂のようなものが擦れ合った。

 あごを高く持ち上げられ、鼻をつままれ、口からゆっくりと息を吹き込まれる。温かく薄い唇が波音のそれをぴったりと覆い、空気を逃げさせまいとしているようだ。

 その唇が離れた後、波音は咳き込んで少量の水を吐き出し、意識を浮上させた。

(助かった……?)

 誰かが人工呼吸を施してくれたのだと、まだぼんやりとした頭でどうにか理解する。全身がなまりのように重く、動くことができない。

「おい……生きているなら反応しろ」

 聞き覚えのない、男性の声。心なしか、言葉に高圧的な含みがある。大和でないことは確実だ。

 ならば、海岸に常駐しているライフガードだろうか。肩と頬を若干強く叩かれ、波音はおもむろに両目を開けた。

 しかし、あまりの眩しさに顔をしかめ、男性の姿を認めることなくすぐに目を閉じた。砂浜に戻って来ているようだ。一瞬見えた空の青さと、肌に触れる砂の感触で、そう分かる。

 溺れた波音を、男性が助けてくれたのだ。

「おい」
「……う……は、い……」

 今度は、耳の近くではっきりと声が聞こえた。やはり、どこか不遜ふそんな態度だ。

 初対面の人間に対し、敬語すら使えないライフガードが存在するのか。その顔を拝んでやろうと、波音は再び目を開けた。

 顔の数センチ先で、アクアマリンのように透き通った青色の瞳が二つ、波音の目を覗き込んでいた。波音がその近さに声も出さずに驚いていると、双眸そうぼうが細められ、離れていく。ようやく、男の顔の輪郭が判明した。

 切れ長の目に柔らかそうな睫毛まつげ。顎はほっそりとしており、中央には筋の通った鼻梁びりょうがある。薄い唇は真一文字に閉じられており、適度に短く整えられた漆黒の髪は、水に濡れて額や耳に張りついている。水も滴る美男子――そのものだ。

 彼が泳いで、溺れた波音を助けたのだろう。人魚姫が陸に上がり、憧れの王子様に発見してもらった時、どんな気持ちだったのか。波音は、それが少しだけ分かる。

 もっとも、波音は人魚姫ではないし、彼も恐らく王子様ではないだろう。その上、二人は初対面だ。そこに恋心はない。

(でも……なんだかドキドキする)

 波音の心臓が、中でドラムでも叩いているかのように鳴り始める。しばらく、二人は見つめ合っていた。それは数秒か、数十秒か。時が止まったように感じていた波音だったが、男が沈黙を破ったことで我に返った。
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