水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~

楪 彩郁

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もう一人の『碧』

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「なんだ? 俺の顔をじろじろ見て。まずは、俺になにか言うことがあるだろう」
「あっ……あの、助けてくださって、ありがとうございます」
「……ふん。偶然、俺がここに来たからいいものの、もう少し遅かったら命はなかったかもしれない」
「す、すみませんでした。でも、偶然って……えっ?」

 波音は、そこで違和感に気付いた。男の声と潮騒しおさい以外、何も聞こえないのだ。海水浴に来ていた客は数え切れないほどいたはずなのに、その喧噪けんそうもない。ジムの生徒たちや、大和や、他の職員たちはどこに行ったのか。

 周囲を確かめるために、波音は起き上がろうとした。しかし、腕にも腰にも、力が上手く入らない。溺れた直後だから、当然と言えば当然なのだが。

 男はそれを見かねたのか、溜め息をつきながらも波音の背中と膝下に腕を入れ、抱き起こして立ち上がる。波音は小さな悲鳴を上げて、男の腕の中で縮こまった。

(お、お姫様抱っこ!)

 波音がまだ小学生の頃、運動会の徒競走で転けて怪我をしたのだが、応援に来ていた碧に、こうして助けてもらったことを思い出した。あの時も胸を高鳴らせたものだが、こうして大人になってみると、恥ずかしさが勝っている。

 視界が随分と開け、波音は男から視線を逸らすようにして、辺りを見渡した。

「え……なんで?」

 先程から静かだった理由が、遂に判明した。波音と男以外、海岸には誰もいないのだ。違う浜に連れて来られたのかと疑ったが、それでもまだ日中だ。人気ひとけが全く無いなど、あり得るのか。

 驚き言葉を失う波音をよそに、男は歩き出した。大人一人運ぶのにはそれなりの力が要るはずだが、その動きは軽々としている。相当な筋力の持ち主のようだ。

「海岸は遊泳禁止のはずだ。お前、どうやって入った?」
「ゆ、遊泳禁止!? そんなはずないです! 私はジムのみんなと一緒で、他のお客さんだってたくさんいましたし……」
「じむ? 客? 何を言っている……? 溺れて頭がおかしくなったか?」

 波音は男の顔をまじまじと見つめた。相変わらずぶっきらぼうな口調だが、冗談を言っているわけではなさそうだ。なにより、周りの状況を見れば、男の言葉には説得力があった。

 波音は再度周囲を見回したが、砂浜にあったはずの海の家も、管理棟も、シャワー・トイレ用の建物も見当たらない。

「え、ここ……どこですか?」
水明すいめい海岸。お前がいたのは?」
「確か、あさひ浜っていうところです。じゃあ、私が溺れている間に移動して……?」
「んなわけあるか。長距離を移動するほど溺れていたら、人工呼吸程度じゃ助からない」
「……そっか。そうですよね」

 では、この状況をどう解釈したらいいのか。大和たちに連絡を取りたくても、波音は携帯電話やトランシーバーの類いを持っていない。ただし、もし身につけていたとしても、水に濡れて使えなくなっているだろう。
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