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『睡蓮』と幸せのピエロ

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「きゃっ!」
「おい!」

 衝撃に備えようとして目を瞑ると、波音の手が強く引かれ、その後すぐに腰を抱き寄せられた。碧が、あいていた腕を咄嗟に回して助けてくれたのだ。片方のサンダルだけが脱げて、小さな音を立てながら階段下に転げ落ちていった。

「はー……だから、手を握ってて正解だっただろ?」
「すみませんっ!」
「ったく、気を付けろ。このドジ」

 平らな面に足の裏をつけて、波音はしっかりと立ち上がる。碧は波音から離れて、落ちたサンダルを拾いに行った。腰を抱かれた感覚にドキドキしていると、戻ってきた碧が波音の足元にしゃがみ込み、サンダルを履かせようとする。

「あ、自分で……」
「いい。しっかり親指に掛けろ」
「はい……。ありがとうございます」

 有無を言わせず、碧はそのまま波音の足をとって履かせてしまった。ガラスの靴のようにおしゃれなものでもないのに、男性にそうされると、大切に扱われているような錯覚に陥る。触れられた足が熱を持つが、波音は気にしないようにと必死に堪えて、碧に礼を言った。

 やっとのことで大通りへと出て、波音は碧の隣に並び、ひょこひょことついていった。朝の市場はすっかり活気に溢れていて、新鮮な野菜や果物、獲れたての魚類が売られている。碧はあちこちの店主から声を掛けられ、知名度の高さを窺わせた。

「お、碧じゃないかい。おはよう!」
「おはよう、おばさん」
「今日も仕事?」
「ああ。その前に、ちょっと野暮用だ」

 碧が波音を指差すと、野菜を手にしていた女性の店主が、波音を見て意味深長な笑みを浮かべた。波音は両手を左右に振って、そういう関係ではないことを主張したが、誤解が解けたかどうかは分からない。それほど親密な仲に見えるのだろうか。

「碧さんって、有名人なんですね」

 市場の通りを抜け終えるところで、波音は碧にそう聞いた。碧は困ったように笑う。でも少し鼻が高いのか、どこか嬉しそうだ。

「これでも、曲芸団の花形だからな。それに、特別待遇で皇族にもしてもらっているんだ。俺を知らない人間の方が少ないだろう」
「そっか、それもそうですね。碧さんは、どういう演目の担当なんですか?」
「道化師。クラウンじゃなくて、ピエロの方だ」
「……ピエロとクラウンって、どう違うんですか?」
「お前、そんなことも知らないのか?」

 サーカスの花形、といえば、波音の想像ではもっとアクロバティックなものだった。空中ブランコだったり、トランポリン芸だったり、火を噴いたり、猛獣使いだったり。そういうものを思い浮かべていたのだが、碧の担当はピエロなのだという。クラウンとの違いを知らず、呆れられてしまったが。

 碧によると、顔のメイクに涙の印しが描かれるのがピエロで、そうではないのがクラウン。どちらもおどけた演技をして観客を和ませるのだが、ピエロは本来、『笑いものにされて悲しい』という感情が込められているのだそうだ。
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