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第一章
5.ひねくれの理由
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高台から林の中の小道を通って数分。木々と野の花に囲まれた穏やかな場所に、リアの愛しの家がある。リア自らが建てたログハウスは、質素ながらも工夫が施されていて、温かみを感じさせるような家だった。鍛冶場と、こんこんと湧き出る小さな泉と、様々なベリーや野菜が植えられた、それなりに立派な畑。
この林に囲まれた家では、騒がしい鍛冶仕事を存分に行っても誰かに迷惑をかけることはない。人気は全くないけれど、リアはこの立地がとても気に入っていた。
ランプを灯し、花瓶の水を換え、簡単な野菜と干し肉のスープを作る。いつもの家事をしながら、リアは頭の中でゼルドリックのことを考え続けていた。
心が浮き上がるような、ふわふわ、そわそわとした感覚がずっと続いている。自分の手を握り込み、執拗に掌をなぞられた時の身体の奥底が切なく疼くような感覚。彼の手は自分と比べて温かく、大きく、しっとりとしていた。けれど指は自分よりずっと長く、ずっと骨ばっていた。その彼の黒く美しい指が、顔の線を確かめるように、唇の柔らかさを確かめるように、ゆっくりと自分に触れた。
リアはゼルドリックからの接触を思い出し、顔を赤らめた。
(彼はなぜ、あんなことをするのだろう)
髪を毒草に例えるほどに嫌う女に対し、あんな過剰な接触をするだろうか。唇に手を添えて、そのまま口付けられる位に顔を近づけて。マルティンが来るのがもう少し遅かったら、どうなっていたのだろう。
――もしかして自分は、そのまま口付けられていたのだろうか?
(あっ……)
とぷり、と自分の奥から何かが溢れるのを感じた。リアは思わずその先を想像してしまった。
ゼルドリックの硬い腕に抱き込まれ、抵抗を許さないほど強く抱き締められ、甘く苛む言葉を耳に落とされた後に、彼の唇が自分の唇に優しく落とされる。あの美しい青い目が自分を捉え、何度も何度も角度を変えて口付けをされる。息も絶え絶えになった頃、やがて彼の手が自分の身体に伸びて――
リアははっと目を見開いた。この想像はいけない。まるで、いつも「黒の王子様」としている逢瀬のようではないか?
(……いけない……! なんてことを、なんてことを想像してしまったんだろう……)
リアは思わず家事の手を止めて顔を覆った。実在の人物で淫らな想像を巡らせるのは初めてで、そして、それはリアにとって非常に罪悪感のあるものだった。自分から溢れたものが何なのか確かめなくても分かる。自分はゼルドリックからの接触を思い出して濡れてしまったのだ。
リアは自分の異性に対する免疫の無さと、いやらしさにうんざりしてしまった。異性から色めいた声を掛けられたことのないリアにとって、ゼルドリックからの接触は毒以外の何者でもなかった。
会う度に嫌味を言ってくるような高慢なダークエルフの役人。確かに苦手意識を持っているはずだ。なのに、なぜ自分の身体は彼を思い出して悦んだのだろう? なぜ「黒の王子様」と重ね合わせるような真似をしたのだろう?
リアはうんざりしてそれ以上考えることをやめた。せっかく作ったスープもそのままに、軽く身体を拭ってベッドにもぐり込む。ゼルドリックの温度を振り払うように、心の内に住む黒の王子様のことを考えた。なるべくゼルドリックと重ならないような姿を想像する。だが、そうすればそうするほど、黒の王子様はゼルドリックの姿をとっていく。
リアはゼルドリックを頭の中から追い出そうとした。しかしそれは上手く行かず、ゼルドリックの姿はむしろ鮮明になっていく。彼から与えられた熱を思い出し、リアはとうとう集中できなくなってしまった。
結局その夜、リアは寝付くことができなかった。目を閉じれば、ゼルドリックの青い瞳や温もりを思い出してしまう。燻った熱を冷ますこともできず、何度も寝返りを打って、悶々としながら明け方まで過ごすことになった。
――――――――――
はずれの村から湖を渡り、馬車を一時間程走らせれば、小さくもそれなりに栄えた街がある。そこには酒場があり、いくつかの店があり、そして労働者向けの宿場があった。
栄えているとはいえ、この街は華やかさも細やかさもない。自らの出身地である王都に比べれば、何もかもが劣る。それでも、自然と農地ばかりが広がる、何の娯楽もないはずれの村に比べれば、気は進まないが宿場があるこの街で過ごした方がましだと、ゼルドリックの部下であるアンジェロは思った。
古びた煉瓦造りの宿に入り、腰の曲がった主人に話しかければ、部屋は一つしか空いていないと言った。それでも良いから我々を泊めるようにと、二人分の宿泊料金にしては多い金銭を主人の手に握らせると、主人は黄ばんだ歯を見せて、いそいそと部屋の用意をし始めた。
アンジェロは小さく溜息を吐いた。
貴族出身でありながら、ところどころに蜘蛛の巣が張った宿場に泊まる羽目になるのは、もしかしたら自分だけではないだろうか。アンジェロは、王都の手入れが行き届いた宿が恋しいと思った。
大きな魔力と長命を以て、この国を古くから支え続けているエルフの王族。その血統に連なる高貴な出身であるアンジェロは、兄と姉が多いために、特別厳しく育てられることもなく充分に甘やかされて育った。成人を迎えた後は、親の力で何の苦労もなく中央政府に入庁した。大して仕事らしい仕事はせず、暇つぶしに用意された席の上で、専ら美味しい紅茶の淹れ方を学んでいるくらいだった。
アンジェロは、自分が面倒くさがりなのはよく分かっていた。特別上昇志向もなく、流されるままに生きてきて、これからもそうでありたいと願っていた。
入庁後、数年は気ままに過ごしていたが、中央政府が汚職に蝕まれていることが発覚すると、人員不足のためにアンジェロもとうとう働かなくてはいけなくなった。ただアンジェロ一人で仕事をさせることに対して不安を覚えた母が、最初は誰かの付き人として社会勉強をすることを勧めた。
そういった経緯でアンジェロは、ダークエルフのゼルドリック=ブラッドスターの元で仕事のやり方を学んでいる。
ゼルドリックは厳格で不正を許さず、成績優秀で信用ができる男だと評されていた。仕事に対する熱意と周囲からの評価の高さ故に、貴族出身のアンジェロを任せるに足る男だと考えられたらしい。事実、ゼルドリックは仕事熱心な男であった。高貴な身分のアンジェロに対しても一切臆することなく、一人の部下として扱い、多くのことを教えた。
アンジェロも最初は、評判通りの厳格なダークエルフだと感じた。
しかし、その評判は果たして正だったのかと、アンジェロははずれの村の視察が始まってより、常々思い続けている。
ゼルドリックと共に用意の終わった部屋に入ると、急ごしらえではあるがしっかりと二人分のベッドと食事が用意されていた。椅子に腰掛け食事を摂ろうと提案するも、ゼルドリックは天井を仰ぎ見て、目の前の食事に手を付けることはしなかった。
「ゼルドリック様。早く食べないと、せっかくの食事が冷めてしまいますよ」
そう言いつつ、アンジェロは優雅な姿勢でスープを飲み始めた。上司より先に食事を始めることはマナー違反であるというのにも拘らず、ゼルドリックはアンジェロを叱らなかった。相変わらず天井を仰いだままで、何やら考え事をしている。
アンジェロはゼルドリックから叱られることなく、しばらくそのまま自分の食事を続けた。あっという間にスープを飲み終わり、パンにジャムを付け、添えられたサラダを半分ほど食べ終わった。
ゼルドリックは、独り言のようにぼそりと言葉を溢した。
「リアは、俺が贈った軟膏を使ってくれるだろうか……」
それが本当に心配なのだと言う様に、ゼルドリックは眉を下げ深刻な声音で言った。アンジェロは食事の手を止めないまま平坦な声で答えた。
「問題ないでしょう。あの軟膏は王家御用達、最高級品のものです。少しのささくれなどすぐに治せます。きっと彼女も、その使い心地に感動するのではないかと」
「しかし、先週贈った口紅は唇に差していなかった。せっかく何時間もかけ、俺自ら似合う色を選んだのに」
「それは仕事が忙しく、化粧を施す時間も取れなかったからでしょう。ゼルドリック様が気になさる必要はありません。今回贈った軟膏は貝殻の細工も美しいですし香りも良い。女性ならば、誰もが喜ぶでしょう」
「……そうか、そうだな……。女には何を贈ればいいのかいつも悩むが、お前が相談に乗ってくれるから助かっている。これからも宜しく頼むぞ!」
一転して酒を呷ったような上機嫌で、ゼルドリックは嬉しそうに言った。そこに厳格な役人としての姿は一切感じられない。
「今日も、リアは可愛かった」
目を閉じ、うっとりとした様子でゼルドリックは呟いた。
「リアの手は荒れてこそいるが、掌の中心は実に柔らかいのだ。なるべく時間をかけて軟膏を塗ったが、許されることならもっと触っていたかった……。あの柔らかい掌に俺の手が包まれたなら、どれほどの幸福が得られることだろう! 次はリアと手を繋いでみたい」
アンジェロは食事をしつつ、思考を巡らせた。
――今週も始まった。己の上司は、はずれの村に住むあのハーフドワーフの女に強く懸想している。
どうも目の前のダークエルフは、辺鄙な田舎村で出逢った人間とドワーフの混ざり血である女に一目惚れをしたらしかった。本人は平静を装っているようだったが、視線は絶えずリアに向けられ、リアと共に応対をするマルティンに対しては敵意を抱いている。
初めてはずれの村の視察を終えた夜、己の上司はずっと頬を上気させ、嬉しそうに微笑んでいた。リアに対する強い好意は丸わかりであったが、それを指摘するとゼルドリックは驚いたように目を見開いた。どうやら彼女に対する好意を完璧に隠し通しているつもりであったらしい。
それからというもの、ゼルドリックは自分に頻繁にリアに関する話をしてきた。彼女の魅力や美しさ。毎週何を贈ればいいかという相談。そして視察に赴けば、何かと理由を付けてリアの身体に触れようとする。ゼルドリックに対する厳格な役人という評価は、リアの出現によって脆く崩れ去った。
アンジェロは熱の入った言葉を半分聞き流し、そのまま目の前の食事に集中することにした。
「髪も目も赤いことなど、とうに分かりきっている。それなのに、毎週会う度に、こんなに鮮やかで美しい色があるのかと、心の底から強く感動するのだ。リアと会えた日は、世界が美しく感じる! あのパルシファーの綿毛の如き髪、どんな芸術家でも描くことのできぬ究極の美の色であると思わないか?」
「はい。仰る通りです」
アンジェロは短く、口先だけで同意を示した。サラダもパンも食べ終わってしまい、後はデザートのプラムと、少しの茶しか残っていない。まだ食べられそうな気がするので、宿の主人に何か追加のものを頼もうかとアンジェロは考えていた。
パルシファー。
ゼルドリックがそう呼ぶものが何なのか、アンジェロはよく知っている。
エルフの祖と云われる女神がこの世界に解き放ったという伝説がある聖なる植物。全草に強い魔力を帯び、一度根付けば辺り一帯の邪悪な魔力を浄化し、肥沃な土地に変える。魔力を持たぬ種には微量の毒となるが、エルフにとっては薬や茶の材料、魔術の媒体に使うことのできる、この上なく有用な植物。春先に飛ぶ真っ赤な綿毛は非常に柔らかく、最高級品の枕や衣服に使われる。
エルフであれば、パルシファーを嫌うものなどいない。
パルシファーの赤い綿毛は昔から親しまれ、様々な芸術作品に登場してきた。
ゼルドリックはエルフの男として、真っ直ぐな賛辞をリアの髪に贈っている。あなたが好きだと告白している様なものではないかと、アンジェロはぼんやりと思った。
「今日は誠に良い日だった。彼女の唇、頬、腰、背中まで……少しの時間ではあるが、全て堪能することができた。何処もふわふわとして、実に柔らかかった。そして何よりも甘やかで瑞々しい、何とも良い香りがするのだ。桃のような、あるいは薔薇のような香りで……とにかく堪らぬ。お前がもう少し遅く来ていたら、俺は彼女に口付けてしまっていただろう」
アンジェロは思わずぴたりと手を止めた。含みのある目線を向ければ、ゼルドリックは困った様に笑った。
「そんな目で見るな。ただ彼女が余りにも可愛らしいから、少し抱き寄せて匂いを嗅いだだけだ。それ以上は何もしていない」
ゼルドリックはリアに触れた時の興奮を思い出したのか、上気した頬を隠そうともしない。黒く尖った耳が、興奮を伝える様にひくひくと上下に動いている。
どうやらあの混ざり血の女性は、今週も自分の上司にべたべたと身体を触られてしまったらしい。それにも拘らず、毎週態度を変えずに微笑みを浮かべて応対をしてくれる。きっと彼女には多大な忍耐を強いてしまっているのだろうと、アンジェロは反省をした。
「髪をパルシファーの綿毛に例えると、彼女は瞳を潤ませるのだ。もしかして、俺の気持ちが伝わってしまったのだろうか? ああ……今日会ったばかりだというのに、また会いたい。毎日でも会いたい。なあアンジェロ、この街にしばらく滞在して、はずれの村にすぐ向かえるようにしないか? この街には転移門もあることだし、急用の場合はすぐに王都へ戻れるだろう?」
「賛同できかねます。特段の理由もないのに頻繁に村を訪ねては、あの村の住民の感情を損ねるでしょう」
「そうだろうな。これは俺の願望であり、ただの冗談だ……。ああ、視察以外にリアに会える理由が欲しい!」
冗談だというが、九割方本気なのだろうとアンジェロは呆れの色を目に宿した。ゼルドリックは焦がれるように、切なく息を吐いた。
「来週は何を贈ればよいだろうか……マホガニーの机と椅子はどうだ? あの自警団の椅子は余りにも酷い。あんな朽ちた椅子に座り続けていては、いつか彼女が腰を痛めてしまう」
「お勧めしません。運ぶのが大変です。大体リローラン殿なら、素晴らしい出来の机と椅子を自らの手で作れるでしょう」
「ああ、そうだな……彼女は手先が器用だから、何だって作れてしまうだろう。だがリアに、あの自警団の物など作って欲しくない気持ちがあるのだ。あれは彼女をこき使う村の備品だからな。これ以上働いたら、あの女は体調を崩してしまう……」
「それならば、香り高い紅茶はどうでしょうか。紅茶なら嫌がられることもないでしょう」
「茶葉か、茶葉……。良いぞ、俺手ずからリアに茶を淹れることもできるからな。お前は本当に良い案をくれる」
ゼルドリックは何を思ったのか、口の片端を曲げた。アンジェロはその笑みを見て嫌な予感がした。上司がこの笑みを浮かべる時は、大抵何かを企んでいる時だった。
「ゼルドリック様。勘違いでしたら申し訳ありませんが、リローラン殿に何か仕込もうとしているのではありませんか」
「聡いな」
ゼルドリックは感心したように手を叩いた。
「今までの贈り物には全て俺の魔力を染み込ませている。もちろん今回贈った軟膏にもだ。……微量ではあるが、使い続けていれば、確かに俺の魔力がリアに蓄積されていくだろう。茶葉にも仕込むつもりだ。肌に塗るのではなく、実際に身体に取り入れてもらった方が、遥かに早く俺の魔力が染み込むからな」
事もなげにゼルドリックは言ったが、アンジェロには理解が出来なかった。
「なぜそんな真似をするのです」
「あの女を守るためだ」
ゼルドリックはきっぱりと言い切った。そしてアンジェロが理解の及ばない言葉を更に続けた。
「蓄積された魔力を辿れば、彼女が何処にいるのか把握できる。村の人間どもにこき使われていないか? リアに近づく男はいないか? ……弱い立場にある混ざり血の女だ。リアを放っておいては、きっと誰かの毒牙にかかってしまう。だから魔力でしっかりと囲っておく必要があるのだ。分かったか? アンジェロ」
ゼルドリックは熱の入った様子でアンジェロに対し高説を垂れた。アンジェロは不快を無表情な顔の内に隠した。
(信じられない。何と不純な動機で魔術を使うのだろうか?)
任務外で他種族に魔法を使うことは禁じられている。エルフの操る魔法は強力で、他種族に害を及ぼしかねないものだからだ。だが、ゼルドリックはリアに会ってからどんどんとおかしくなってしまった。法律など気にしないというように、平気で魔法を使ってリアに近づこうとしている。公私混同もいいところで、清廉潔白、厳格さを求められる中央政府の役人がする行動とは思えない。アンジェロは小さく息を吐いた。
「そんな回りくどいことをしなくとも。想いを伝えたいのならばその熱の入った言葉を、彼女にそのまま伝えればよろしいでしょう」
アンジェロは平坦な声で問いかけた。それが近道で、なにより正論のように思えた。己の上司がリスクを犯してまで、なぜそのような行動に出るのか分からなかった。
「それが出来たら苦労はせぬ。リアを目の前にすると、頭の中が熱くなり……とても冷静ではいられなくなるのだ。好きだなどと、恥ずかしいことは……言えぬ」
ゼルドリックは一転、眉を下げて深刻な声音で言った。
「どうしても、他の人間共を相手にするような態度を、あの女に対しても取ってしまうのだ……。中央政府に勤めるエルフとして斯くあれと厳しく育てられてきたゆえに。こちら側で常に主導権を握るような、誇り高き振る舞いを心掛けるゆえに……」
悔恨に塗れた静かな声が響く。ゼルドリックはリアへの態度を反省している様だった。
「お前も、身に染み付いた教育、あるいは習慣というものは中々消えんだろう。俺もどうにかしないといけないことは分かっている。しかしエルフとして、この態度を百年余り貫いてきた。直ぐの矯正は難しい……」
ゼルドリックは深い溜息を吐いた。そして、堰を切ったように一気に言葉を溢し始めた。
「そして……。俺はあの女が好きなのに。心の内で、実に複雑な感情がせめぎ合うのだ。彼女に会えて嬉しいという感情。俺の言葉に顔を赤くしたり、目を潤ませる彼女をもっと苛んでやりたいという感情。反対にたっぷりと甘やかしてやりたいという感情……。俺の気持ちも知らずに目の前であの髭面に打ち解けたように笑う……それに対する恨みのような感情。要らぬ言葉をかけてでも彼女と話したいという子供のような感情。嬉しさ、焦り、独占欲、嫉妬、嗜虐心……それらが俺の心を苦しめ、リアに対する態度をひねくれたものにさせる」
ゼルドリックは早口で喋った後、息を大きく吸い込み、そして長い息を吐いた。
「リアに好きだと想いを伝えたとて、素気無くされてしまったら。俺の重い感情が呆気なく捨てられてしまったら。それを考えると堪らなく怖い。本当に……怖い。情けないことにな、その恐怖が強すぎて想いを伝えることが出来ぬ。だから卑怯にも……魔法に頼ろうとしている。女を愛おしく思ったのは、リアが初めてなのだ。だが口下手で、ひねくれ者の俺ではどう距離を縮めていけば良いか分からぬ。だから、毎週あの女に会う度に何かしらの品を渡しているのだ。言葉なくとも、距離を縮めていけるようにな」
「ゼルドリック様、あなたのしていることは常軌を逸している。あなたは何をしているか分かっているのですか? 仕事に私情を挟むなと、私はあなた自身から教わったのですがね」
「そんなことは分かっている。だがもう止められぬのだ」
「任務外でエルフが他種族に対しての魔法を使ってはいけないのは、あなたの方がよくご存知でしょう。ゼルドリック様のしていることは、多種族差別解消法に抵触しています」
「ふん……。今日はやけに食いつくじゃないか。俺を告発でもしてみるか? まあ、度を越して面倒くさがりのお前が、そんなことをするとは到底思えんがな」
ゼルドリックは愉快そうに言った。アンジェロはティーカップを優雅に持ちながらこくりと頷いた。
告発などする気はない。ゼルドリックの陰に隠れて、何を贈るか提案したり、はずれの村の視察に付き合っていれば、ある程度は気楽に過ごせるからだ。他の仕事熱心なエルフの様にあくせく働くつもりは一切無かった。上司が法律に抵触していたとしても、告発するまでの責任感は無かったし、力の強い己の上司ならばそれを隠し通せるだろうという予想がアンジェロにはあった。
「それにしてもゼルドリック様。あなたはなぜ、私にここまで心の内を話して下さるのですか?」
「お前が俺の恋情を見抜いたからだ。リアに対する好意を完璧に隠し通せているだろうと思っていたのでな、お前に指摘された時は実に驚いた。だが、どうせ見抜かれたのなら味方にしてしまえば良いと思ったのだ。俺とリアの恋路を応援する奴が、ひとりはいた方が良い」
随分と分かりやすかったのだがとアンジェロは言いかけたが、ゼルドリックを動揺させるだけだと分かっていたので、何も言わずに茶を飲んだ。
「もうひとつはお前のその性格だ。面倒くさがりであまり他者と話すこともないゆえ、俺の個人的な相談をべらべらと周囲に話すこともしないだろう? それがお前にリアの話をする理由だ」
「なるほど。ありがとうございます」
ゼルドリックはある程度自分を信頼しているらしい。リアに対する歪んだ行動や感情を聞く限り、大してこの上司から信頼を寄せられても嬉しくはなかったが、アンジェロは上司との関係が良好であれば、その分自分の仕事が楽になるのではないかと目論んだ。
「もうひとつ。彼女に惹かれた理由を伺っても?」
アンジェロは単刀直入に尋ねた。
豊かな赤毛は確かに目立つが、手先の器用さも、背の低さも、ドワーフの血を引いているのであればそれほど特筆するべきものではない。この上司の前では決して言わないが、彼女の見目が特別優れているとも思わない。胸や臀部の肉付きはかなり良いがそれだけだ。あの混ざり血の女性と出会うまでは厳格であった上司が、仕事に私情を持ち込むまでに変わってしまった理由にアンジェロは興味が湧いた。
アンジェロの問いかけの後、ゼルドリックはほう、と熱の入った息を逃した。そして、何かを考えるようにゆっくりと話し始めた。その頬は興奮したように赤らんでいる。
「リアはなんというか……俺の、理想の中の理想というか、運命の女性なのだ。ずっと彼女に会えることを待ち望み続けていたのだ。心の内に住む姫に瓜二つでな――」
「そうですか、もう結構です」
アンジェロは自分から尋ねたにもかかわらず素っ気なく言葉を返し、ゼルドリックの話を打ち切った。「心の内に住む姫」というのは初めて聞いた言葉だが、きっとそれについて聞けばまた話が長くなると思った。ゼルドリックは話を打ち切られたことに対して不満げにアンジェロを見た。そして、そこで初めて彼が食事を済ませていることに気が付いた。
「ところでだ……。アンジェロ、なぜお前は先に食事を済ませているのだ? 立場が上の者が食事を始めるまでは、手をつけてはならないと教えただろう!」
「食事は作り立てが一番美味しいものですから。冷めてから食事に手をつけては、宿の主人に対し礼を欠くと思いましたので」
アンジェロの皿はとうに空だった。アンジェロは優雅に手を合わせ、宿の主人と食事に感謝を示した。ゼルドリックはその鋭い眉を跳ね上げたが、すぐにやれやれという風に首を振り、冷めきった自分の食事に手をつけ始めた。
口先だけで謝るとアンジェロはさっさと席を立った。
(まだ腹が減っている。主人に追加の食事を頼まなければ)
次に頼む料理を何にするかで、アンジェロの頭はいっぱいだった。
この林に囲まれた家では、騒がしい鍛冶仕事を存分に行っても誰かに迷惑をかけることはない。人気は全くないけれど、リアはこの立地がとても気に入っていた。
ランプを灯し、花瓶の水を換え、簡単な野菜と干し肉のスープを作る。いつもの家事をしながら、リアは頭の中でゼルドリックのことを考え続けていた。
心が浮き上がるような、ふわふわ、そわそわとした感覚がずっと続いている。自分の手を握り込み、執拗に掌をなぞられた時の身体の奥底が切なく疼くような感覚。彼の手は自分と比べて温かく、大きく、しっとりとしていた。けれど指は自分よりずっと長く、ずっと骨ばっていた。その彼の黒く美しい指が、顔の線を確かめるように、唇の柔らかさを確かめるように、ゆっくりと自分に触れた。
リアはゼルドリックからの接触を思い出し、顔を赤らめた。
(彼はなぜ、あんなことをするのだろう)
髪を毒草に例えるほどに嫌う女に対し、あんな過剰な接触をするだろうか。唇に手を添えて、そのまま口付けられる位に顔を近づけて。マルティンが来るのがもう少し遅かったら、どうなっていたのだろう。
――もしかして自分は、そのまま口付けられていたのだろうか?
(あっ……)
とぷり、と自分の奥から何かが溢れるのを感じた。リアは思わずその先を想像してしまった。
ゼルドリックの硬い腕に抱き込まれ、抵抗を許さないほど強く抱き締められ、甘く苛む言葉を耳に落とされた後に、彼の唇が自分の唇に優しく落とされる。あの美しい青い目が自分を捉え、何度も何度も角度を変えて口付けをされる。息も絶え絶えになった頃、やがて彼の手が自分の身体に伸びて――
リアははっと目を見開いた。この想像はいけない。まるで、いつも「黒の王子様」としている逢瀬のようではないか?
(……いけない……! なんてことを、なんてことを想像してしまったんだろう……)
リアは思わず家事の手を止めて顔を覆った。実在の人物で淫らな想像を巡らせるのは初めてで、そして、それはリアにとって非常に罪悪感のあるものだった。自分から溢れたものが何なのか確かめなくても分かる。自分はゼルドリックからの接触を思い出して濡れてしまったのだ。
リアは自分の異性に対する免疫の無さと、いやらしさにうんざりしてしまった。異性から色めいた声を掛けられたことのないリアにとって、ゼルドリックからの接触は毒以外の何者でもなかった。
会う度に嫌味を言ってくるような高慢なダークエルフの役人。確かに苦手意識を持っているはずだ。なのに、なぜ自分の身体は彼を思い出して悦んだのだろう? なぜ「黒の王子様」と重ね合わせるような真似をしたのだろう?
リアはうんざりしてそれ以上考えることをやめた。せっかく作ったスープもそのままに、軽く身体を拭ってベッドにもぐり込む。ゼルドリックの温度を振り払うように、心の内に住む黒の王子様のことを考えた。なるべくゼルドリックと重ならないような姿を想像する。だが、そうすればそうするほど、黒の王子様はゼルドリックの姿をとっていく。
リアはゼルドリックを頭の中から追い出そうとした。しかしそれは上手く行かず、ゼルドリックの姿はむしろ鮮明になっていく。彼から与えられた熱を思い出し、リアはとうとう集中できなくなってしまった。
結局その夜、リアは寝付くことができなかった。目を閉じれば、ゼルドリックの青い瞳や温もりを思い出してしまう。燻った熱を冷ますこともできず、何度も寝返りを打って、悶々としながら明け方まで過ごすことになった。
――――――――――
はずれの村から湖を渡り、馬車を一時間程走らせれば、小さくもそれなりに栄えた街がある。そこには酒場があり、いくつかの店があり、そして労働者向けの宿場があった。
栄えているとはいえ、この街は華やかさも細やかさもない。自らの出身地である王都に比べれば、何もかもが劣る。それでも、自然と農地ばかりが広がる、何の娯楽もないはずれの村に比べれば、気は進まないが宿場があるこの街で過ごした方がましだと、ゼルドリックの部下であるアンジェロは思った。
古びた煉瓦造りの宿に入り、腰の曲がった主人に話しかければ、部屋は一つしか空いていないと言った。それでも良いから我々を泊めるようにと、二人分の宿泊料金にしては多い金銭を主人の手に握らせると、主人は黄ばんだ歯を見せて、いそいそと部屋の用意をし始めた。
アンジェロは小さく溜息を吐いた。
貴族出身でありながら、ところどころに蜘蛛の巣が張った宿場に泊まる羽目になるのは、もしかしたら自分だけではないだろうか。アンジェロは、王都の手入れが行き届いた宿が恋しいと思った。
大きな魔力と長命を以て、この国を古くから支え続けているエルフの王族。その血統に連なる高貴な出身であるアンジェロは、兄と姉が多いために、特別厳しく育てられることもなく充分に甘やかされて育った。成人を迎えた後は、親の力で何の苦労もなく中央政府に入庁した。大して仕事らしい仕事はせず、暇つぶしに用意された席の上で、専ら美味しい紅茶の淹れ方を学んでいるくらいだった。
アンジェロは、自分が面倒くさがりなのはよく分かっていた。特別上昇志向もなく、流されるままに生きてきて、これからもそうでありたいと願っていた。
入庁後、数年は気ままに過ごしていたが、中央政府が汚職に蝕まれていることが発覚すると、人員不足のためにアンジェロもとうとう働かなくてはいけなくなった。ただアンジェロ一人で仕事をさせることに対して不安を覚えた母が、最初は誰かの付き人として社会勉強をすることを勧めた。
そういった経緯でアンジェロは、ダークエルフのゼルドリック=ブラッドスターの元で仕事のやり方を学んでいる。
ゼルドリックは厳格で不正を許さず、成績優秀で信用ができる男だと評されていた。仕事に対する熱意と周囲からの評価の高さ故に、貴族出身のアンジェロを任せるに足る男だと考えられたらしい。事実、ゼルドリックは仕事熱心な男であった。高貴な身分のアンジェロに対しても一切臆することなく、一人の部下として扱い、多くのことを教えた。
アンジェロも最初は、評判通りの厳格なダークエルフだと感じた。
しかし、その評判は果たして正だったのかと、アンジェロははずれの村の視察が始まってより、常々思い続けている。
ゼルドリックと共に用意の終わった部屋に入ると、急ごしらえではあるがしっかりと二人分のベッドと食事が用意されていた。椅子に腰掛け食事を摂ろうと提案するも、ゼルドリックは天井を仰ぎ見て、目の前の食事に手を付けることはしなかった。
「ゼルドリック様。早く食べないと、せっかくの食事が冷めてしまいますよ」
そう言いつつ、アンジェロは優雅な姿勢でスープを飲み始めた。上司より先に食事を始めることはマナー違反であるというのにも拘らず、ゼルドリックはアンジェロを叱らなかった。相変わらず天井を仰いだままで、何やら考え事をしている。
アンジェロはゼルドリックから叱られることなく、しばらくそのまま自分の食事を続けた。あっという間にスープを飲み終わり、パンにジャムを付け、添えられたサラダを半分ほど食べ終わった。
ゼルドリックは、独り言のようにぼそりと言葉を溢した。
「リアは、俺が贈った軟膏を使ってくれるだろうか……」
それが本当に心配なのだと言う様に、ゼルドリックは眉を下げ深刻な声音で言った。アンジェロは食事の手を止めないまま平坦な声で答えた。
「問題ないでしょう。あの軟膏は王家御用達、最高級品のものです。少しのささくれなどすぐに治せます。きっと彼女も、その使い心地に感動するのではないかと」
「しかし、先週贈った口紅は唇に差していなかった。せっかく何時間もかけ、俺自ら似合う色を選んだのに」
「それは仕事が忙しく、化粧を施す時間も取れなかったからでしょう。ゼルドリック様が気になさる必要はありません。今回贈った軟膏は貝殻の細工も美しいですし香りも良い。女性ならば、誰もが喜ぶでしょう」
「……そうか、そうだな……。女には何を贈ればいいのかいつも悩むが、お前が相談に乗ってくれるから助かっている。これからも宜しく頼むぞ!」
一転して酒を呷ったような上機嫌で、ゼルドリックは嬉しそうに言った。そこに厳格な役人としての姿は一切感じられない。
「今日も、リアは可愛かった」
目を閉じ、うっとりとした様子でゼルドリックは呟いた。
「リアの手は荒れてこそいるが、掌の中心は実に柔らかいのだ。なるべく時間をかけて軟膏を塗ったが、許されることならもっと触っていたかった……。あの柔らかい掌に俺の手が包まれたなら、どれほどの幸福が得られることだろう! 次はリアと手を繋いでみたい」
アンジェロは食事をしつつ、思考を巡らせた。
――今週も始まった。己の上司は、はずれの村に住むあのハーフドワーフの女に強く懸想している。
どうも目の前のダークエルフは、辺鄙な田舎村で出逢った人間とドワーフの混ざり血である女に一目惚れをしたらしかった。本人は平静を装っているようだったが、視線は絶えずリアに向けられ、リアと共に応対をするマルティンに対しては敵意を抱いている。
初めてはずれの村の視察を終えた夜、己の上司はずっと頬を上気させ、嬉しそうに微笑んでいた。リアに対する強い好意は丸わかりであったが、それを指摘するとゼルドリックは驚いたように目を見開いた。どうやら彼女に対する好意を完璧に隠し通しているつもりであったらしい。
それからというもの、ゼルドリックは自分に頻繁にリアに関する話をしてきた。彼女の魅力や美しさ。毎週何を贈ればいいかという相談。そして視察に赴けば、何かと理由を付けてリアの身体に触れようとする。ゼルドリックに対する厳格な役人という評価は、リアの出現によって脆く崩れ去った。
アンジェロは熱の入った言葉を半分聞き流し、そのまま目の前の食事に集中することにした。
「髪も目も赤いことなど、とうに分かりきっている。それなのに、毎週会う度に、こんなに鮮やかで美しい色があるのかと、心の底から強く感動するのだ。リアと会えた日は、世界が美しく感じる! あのパルシファーの綿毛の如き髪、どんな芸術家でも描くことのできぬ究極の美の色であると思わないか?」
「はい。仰る通りです」
アンジェロは短く、口先だけで同意を示した。サラダもパンも食べ終わってしまい、後はデザートのプラムと、少しの茶しか残っていない。まだ食べられそうな気がするので、宿の主人に何か追加のものを頼もうかとアンジェロは考えていた。
パルシファー。
ゼルドリックがそう呼ぶものが何なのか、アンジェロはよく知っている。
エルフの祖と云われる女神がこの世界に解き放ったという伝説がある聖なる植物。全草に強い魔力を帯び、一度根付けば辺り一帯の邪悪な魔力を浄化し、肥沃な土地に変える。魔力を持たぬ種には微量の毒となるが、エルフにとっては薬や茶の材料、魔術の媒体に使うことのできる、この上なく有用な植物。春先に飛ぶ真っ赤な綿毛は非常に柔らかく、最高級品の枕や衣服に使われる。
エルフであれば、パルシファーを嫌うものなどいない。
パルシファーの赤い綿毛は昔から親しまれ、様々な芸術作品に登場してきた。
ゼルドリックはエルフの男として、真っ直ぐな賛辞をリアの髪に贈っている。あなたが好きだと告白している様なものではないかと、アンジェロはぼんやりと思った。
「今日は誠に良い日だった。彼女の唇、頬、腰、背中まで……少しの時間ではあるが、全て堪能することができた。何処もふわふわとして、実に柔らかかった。そして何よりも甘やかで瑞々しい、何とも良い香りがするのだ。桃のような、あるいは薔薇のような香りで……とにかく堪らぬ。お前がもう少し遅く来ていたら、俺は彼女に口付けてしまっていただろう」
アンジェロは思わずぴたりと手を止めた。含みのある目線を向ければ、ゼルドリックは困った様に笑った。
「そんな目で見るな。ただ彼女が余りにも可愛らしいから、少し抱き寄せて匂いを嗅いだだけだ。それ以上は何もしていない」
ゼルドリックはリアに触れた時の興奮を思い出したのか、上気した頬を隠そうともしない。黒く尖った耳が、興奮を伝える様にひくひくと上下に動いている。
どうやらあの混ざり血の女性は、今週も自分の上司にべたべたと身体を触られてしまったらしい。それにも拘らず、毎週態度を変えずに微笑みを浮かべて応対をしてくれる。きっと彼女には多大な忍耐を強いてしまっているのだろうと、アンジェロは反省をした。
「髪をパルシファーの綿毛に例えると、彼女は瞳を潤ませるのだ。もしかして、俺の気持ちが伝わってしまったのだろうか? ああ……今日会ったばかりだというのに、また会いたい。毎日でも会いたい。なあアンジェロ、この街にしばらく滞在して、はずれの村にすぐ向かえるようにしないか? この街には転移門もあることだし、急用の場合はすぐに王都へ戻れるだろう?」
「賛同できかねます。特段の理由もないのに頻繁に村を訪ねては、あの村の住民の感情を損ねるでしょう」
「そうだろうな。これは俺の願望であり、ただの冗談だ……。ああ、視察以外にリアに会える理由が欲しい!」
冗談だというが、九割方本気なのだろうとアンジェロは呆れの色を目に宿した。ゼルドリックは焦がれるように、切なく息を吐いた。
「来週は何を贈ればよいだろうか……マホガニーの机と椅子はどうだ? あの自警団の椅子は余りにも酷い。あんな朽ちた椅子に座り続けていては、いつか彼女が腰を痛めてしまう」
「お勧めしません。運ぶのが大変です。大体リローラン殿なら、素晴らしい出来の机と椅子を自らの手で作れるでしょう」
「ああ、そうだな……彼女は手先が器用だから、何だって作れてしまうだろう。だがリアに、あの自警団の物など作って欲しくない気持ちがあるのだ。あれは彼女をこき使う村の備品だからな。これ以上働いたら、あの女は体調を崩してしまう……」
「それならば、香り高い紅茶はどうでしょうか。紅茶なら嫌がられることもないでしょう」
「茶葉か、茶葉……。良いぞ、俺手ずからリアに茶を淹れることもできるからな。お前は本当に良い案をくれる」
ゼルドリックは何を思ったのか、口の片端を曲げた。アンジェロはその笑みを見て嫌な予感がした。上司がこの笑みを浮かべる時は、大抵何かを企んでいる時だった。
「ゼルドリック様。勘違いでしたら申し訳ありませんが、リローラン殿に何か仕込もうとしているのではありませんか」
「聡いな」
ゼルドリックは感心したように手を叩いた。
「今までの贈り物には全て俺の魔力を染み込ませている。もちろん今回贈った軟膏にもだ。……微量ではあるが、使い続けていれば、確かに俺の魔力がリアに蓄積されていくだろう。茶葉にも仕込むつもりだ。肌に塗るのではなく、実際に身体に取り入れてもらった方が、遥かに早く俺の魔力が染み込むからな」
事もなげにゼルドリックは言ったが、アンジェロには理解が出来なかった。
「なぜそんな真似をするのです」
「あの女を守るためだ」
ゼルドリックはきっぱりと言い切った。そしてアンジェロが理解の及ばない言葉を更に続けた。
「蓄積された魔力を辿れば、彼女が何処にいるのか把握できる。村の人間どもにこき使われていないか? リアに近づく男はいないか? ……弱い立場にある混ざり血の女だ。リアを放っておいては、きっと誰かの毒牙にかかってしまう。だから魔力でしっかりと囲っておく必要があるのだ。分かったか? アンジェロ」
ゼルドリックは熱の入った様子でアンジェロに対し高説を垂れた。アンジェロは不快を無表情な顔の内に隠した。
(信じられない。何と不純な動機で魔術を使うのだろうか?)
任務外で他種族に魔法を使うことは禁じられている。エルフの操る魔法は強力で、他種族に害を及ぼしかねないものだからだ。だが、ゼルドリックはリアに会ってからどんどんとおかしくなってしまった。法律など気にしないというように、平気で魔法を使ってリアに近づこうとしている。公私混同もいいところで、清廉潔白、厳格さを求められる中央政府の役人がする行動とは思えない。アンジェロは小さく息を吐いた。
「そんな回りくどいことをしなくとも。想いを伝えたいのならばその熱の入った言葉を、彼女にそのまま伝えればよろしいでしょう」
アンジェロは平坦な声で問いかけた。それが近道で、なにより正論のように思えた。己の上司がリスクを犯してまで、なぜそのような行動に出るのか分からなかった。
「それが出来たら苦労はせぬ。リアを目の前にすると、頭の中が熱くなり……とても冷静ではいられなくなるのだ。好きだなどと、恥ずかしいことは……言えぬ」
ゼルドリックは一転、眉を下げて深刻な声音で言った。
「どうしても、他の人間共を相手にするような態度を、あの女に対しても取ってしまうのだ……。中央政府に勤めるエルフとして斯くあれと厳しく育てられてきたゆえに。こちら側で常に主導権を握るような、誇り高き振る舞いを心掛けるゆえに……」
悔恨に塗れた静かな声が響く。ゼルドリックはリアへの態度を反省している様だった。
「お前も、身に染み付いた教育、あるいは習慣というものは中々消えんだろう。俺もどうにかしないといけないことは分かっている。しかしエルフとして、この態度を百年余り貫いてきた。直ぐの矯正は難しい……」
ゼルドリックは深い溜息を吐いた。そして、堰を切ったように一気に言葉を溢し始めた。
「そして……。俺はあの女が好きなのに。心の内で、実に複雑な感情がせめぎ合うのだ。彼女に会えて嬉しいという感情。俺の言葉に顔を赤くしたり、目を潤ませる彼女をもっと苛んでやりたいという感情。反対にたっぷりと甘やかしてやりたいという感情……。俺の気持ちも知らずに目の前であの髭面に打ち解けたように笑う……それに対する恨みのような感情。要らぬ言葉をかけてでも彼女と話したいという子供のような感情。嬉しさ、焦り、独占欲、嫉妬、嗜虐心……それらが俺の心を苦しめ、リアに対する態度をひねくれたものにさせる」
ゼルドリックは早口で喋った後、息を大きく吸い込み、そして長い息を吐いた。
「リアに好きだと想いを伝えたとて、素気無くされてしまったら。俺の重い感情が呆気なく捨てられてしまったら。それを考えると堪らなく怖い。本当に……怖い。情けないことにな、その恐怖が強すぎて想いを伝えることが出来ぬ。だから卑怯にも……魔法に頼ろうとしている。女を愛おしく思ったのは、リアが初めてなのだ。だが口下手で、ひねくれ者の俺ではどう距離を縮めていけば良いか分からぬ。だから、毎週あの女に会う度に何かしらの品を渡しているのだ。言葉なくとも、距離を縮めていけるようにな」
「ゼルドリック様、あなたのしていることは常軌を逸している。あなたは何をしているか分かっているのですか? 仕事に私情を挟むなと、私はあなた自身から教わったのですがね」
「そんなことは分かっている。だがもう止められぬのだ」
「任務外でエルフが他種族に対しての魔法を使ってはいけないのは、あなたの方がよくご存知でしょう。ゼルドリック様のしていることは、多種族差別解消法に抵触しています」
「ふん……。今日はやけに食いつくじゃないか。俺を告発でもしてみるか? まあ、度を越して面倒くさがりのお前が、そんなことをするとは到底思えんがな」
ゼルドリックは愉快そうに言った。アンジェロはティーカップを優雅に持ちながらこくりと頷いた。
告発などする気はない。ゼルドリックの陰に隠れて、何を贈るか提案したり、はずれの村の視察に付き合っていれば、ある程度は気楽に過ごせるからだ。他の仕事熱心なエルフの様にあくせく働くつもりは一切無かった。上司が法律に抵触していたとしても、告発するまでの責任感は無かったし、力の強い己の上司ならばそれを隠し通せるだろうという予想がアンジェロにはあった。
「それにしてもゼルドリック様。あなたはなぜ、私にここまで心の内を話して下さるのですか?」
「お前が俺の恋情を見抜いたからだ。リアに対する好意を完璧に隠し通せているだろうと思っていたのでな、お前に指摘された時は実に驚いた。だが、どうせ見抜かれたのなら味方にしてしまえば良いと思ったのだ。俺とリアの恋路を応援する奴が、ひとりはいた方が良い」
随分と分かりやすかったのだがとアンジェロは言いかけたが、ゼルドリックを動揺させるだけだと分かっていたので、何も言わずに茶を飲んだ。
「もうひとつはお前のその性格だ。面倒くさがりであまり他者と話すこともないゆえ、俺の個人的な相談をべらべらと周囲に話すこともしないだろう? それがお前にリアの話をする理由だ」
「なるほど。ありがとうございます」
ゼルドリックはある程度自分を信頼しているらしい。リアに対する歪んだ行動や感情を聞く限り、大してこの上司から信頼を寄せられても嬉しくはなかったが、アンジェロは上司との関係が良好であれば、その分自分の仕事が楽になるのではないかと目論んだ。
「もうひとつ。彼女に惹かれた理由を伺っても?」
アンジェロは単刀直入に尋ねた。
豊かな赤毛は確かに目立つが、手先の器用さも、背の低さも、ドワーフの血を引いているのであればそれほど特筆するべきものではない。この上司の前では決して言わないが、彼女の見目が特別優れているとも思わない。胸や臀部の肉付きはかなり良いがそれだけだ。あの混ざり血の女性と出会うまでは厳格であった上司が、仕事に私情を持ち込むまでに変わってしまった理由にアンジェロは興味が湧いた。
アンジェロの問いかけの後、ゼルドリックはほう、と熱の入った息を逃した。そして、何かを考えるようにゆっくりと話し始めた。その頬は興奮したように赤らんでいる。
「リアはなんというか……俺の、理想の中の理想というか、運命の女性なのだ。ずっと彼女に会えることを待ち望み続けていたのだ。心の内に住む姫に瓜二つでな――」
「そうですか、もう結構です」
アンジェロは自分から尋ねたにもかかわらず素っ気なく言葉を返し、ゼルドリックの話を打ち切った。「心の内に住む姫」というのは初めて聞いた言葉だが、きっとそれについて聞けばまた話が長くなると思った。ゼルドリックは話を打ち切られたことに対して不満げにアンジェロを見た。そして、そこで初めて彼が食事を済ませていることに気が付いた。
「ところでだ……。アンジェロ、なぜお前は先に食事を済ませているのだ? 立場が上の者が食事を始めるまでは、手をつけてはならないと教えただろう!」
「食事は作り立てが一番美味しいものですから。冷めてから食事に手をつけては、宿の主人に対し礼を欠くと思いましたので」
アンジェロの皿はとうに空だった。アンジェロは優雅に手を合わせ、宿の主人と食事に感謝を示した。ゼルドリックはその鋭い眉を跳ね上げたが、すぐにやれやれという風に首を振り、冷めきった自分の食事に手をつけ始めた。
口先だけで謝るとアンジェロはさっさと席を立った。
(まだ腹が減っている。主人に追加の食事を頼まなければ)
次に頼む料理を何にするかで、アンジェロの頭はいっぱいだった。
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