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第一章
4.夕焼けの中で
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視察の最終地点である村の高台に着いた時は、もう、辺り一面が夕日で赤くなっていた。
村の高台からは、広大な農地から美しい湖までを一望できる。リアはこの景色が好きだった。夕日に沈む村の景色は、何度見ても飽きなかった。息の詰まるような一日であったが、綺麗な赤い景色を見て少しだけ心が癒えていくような感じを覚えた。
「アンジェロ、私は少々疲れた。残りの確認は頼む」
ゼルドリックは短く言い放ち、マルティンに高台にある警鐘のもとへアンジェロを連れて行くよう指示をした。
二人の後をリアが付いていこうとすると、ゼルドリックに手を引かれた。
「君はここにいろ」
草の上に座り込んでしまったゼルドリックにつられて、リアも恐る恐る彼の隣に腰を下ろした。
リアの手を握ったまま、ゼルドリックは何を言う訳でもなく、ただ夕陽に赤く染まった景色を見つめていた。風に揺られて草がそよぎ、さらさらとした音だけが聞こえる。
いつまでそうしていただろうか。リアは動かないゼルドリックを横目で見た。
彼の黒い肌に強い夕日が当たり、美しく煌めいている。眩しさに眇められた目から高い鷲鼻、引き結ばれた唇、尖った耳にまで、空から光の粒が降り注ぎ、彼を黄金色に彩っていく。
(……綺麗)
リアは素直にそう思った。野性的な顔で、美しさよりは威圧感を強く感じるようなゼルドリックだが、強い光を受けて肌を黄金色に輝かせる彼は、リアにとって高貴で力強く、とても美しいものに見えた。
(この男性のことは苦手だ)
リアを憂鬱にさせる張本人でもあるし、断りもなく身体を触る。高慢で嫌味たらしい。マルティンと共に、嫌われていると思うとあまり会いたくない気持ちもある。ただ、光の中で輝く彼の横顔を見ていると心が切なく締め付けられるような感じがした。とくりと胸が高鳴る。この黒く美しい横顔を、もっと見ていたいと思った。
(こんな美しい男性から嫌われていることが……悲しい)
リアは下を向いた。自分の手をすっかり握り込むゼルドリックの手が目に入る。軟膏を塗り込まれた時の、熱くしっとりとした彼の手の肌触りを思い出す。あの手は柔らかかった。柔らかくも骨の硬さが伝わって、大きくて、自分とは全く違う男の手だった。リアは顔を赤くした。
(ブラッドスター様はなぜ、私に触るのだろう? 私が……もし、彼に好かれていたら。こうやって手を握られても、素直に喜ぶことが出来たのに)
ふと、ゼルドリックから嫌われているという事実にリアは悲しみが込み上げてくるのを感じた。リアは切なさから顔を上げ、視線を前に戻した。
さらさらと穏やかな風がそよぐ音、握られた手から伝わる温かな彼の温度に、リアは村を歩き回った疲労を思い出した。眠気がこみ上げて、少しだけ休ませてもらおうかと思い目を閉じる。すると、握られた手に力が込められた。
ゼルドリックの方を見ると、青く美しい目がリアを捉えていた。その目の強さにリアは思わず息を呑んだ。彼は非常に目力が強い。猛禽類のような青い瞳に、くっきりと自分の姿が映り込んでいる。自分が青い瞳の中にここまではっきりと映っている理由は、ゼルドリックが自分に近づいているからだとリアは気が付いた。
リアが呆けている僅かの間に、ゼルドリックは片手をリアの腰に、もう片方の手をリアの頬に伸ばし顔を近づけた。近すぎる距離に、彼から離れなければいけないと思うのに、腰に手を回されているために身体を動かせない。やがてリアの身体は、ゼルドリックにすっぽりと覆い隠されてしまった。
息がかかってしまいそうな程に、ゼルドリックの顔が近づいてくる。光沢のある艶やかな黒い肌から長い睫毛、美しい青い瞳がリアの目の前を覆い尽くした。
恥ずかしさのあまり顔を逸らそうとするが、頬に添えられた大きな手がそれを許してくれなかった。ゼルドリックの指が、そっとリアの唇をなぞる。擽ったさから思わず吐息を漏らすと、ゼルドリックの口元が歪められた気がした。
「……今日は、化粧はしていないのか」
ゼルドリックがリアの唇に視線を落とし、ぽつりと呟いた。唇に置かれた指が、感触を確かめるようにゆっくりと唇をなぞる。頬と腰に伝わる確かな温度に、リアは一気に顔に熱が集まるのを感じた。
「あ、朝早くから畑仕事がありましたので。不快でしたら……申し訳ありません」
リアは身体を捩って逃げようとするものの、それは叶わなかった。腰に添えられた手にぐっと力が込められ、ゼルドリックとリアの距離は尚更縮まった。
「化粧をしていない君を初めて見た」
リアの顔を覗き込み、ゼルドリックが言った。リアの顔を検分するように青い瞳が細かく動く。
「ここまで近づくと君の顔の細部がよく見える。そばかすの多い肌も、低い鼻も、やたらに大きな赤い目も、厚みのある唇まで……。ああ、パルシファーの綿毛の様な髪と同じく、君は眉毛も、睫毛も赤いのだな。ここも触ったら髪のように柔らかいのか?」
パルシファー。
その言葉を聞いた時、リアの胸が強く軋んだ。彼が自分にぶつける嫌味の内、冷静に受け流せないのは自分の髪をパルシファーの綿毛に例えられることだった。
パルシファーとゼルドリックが呼ぶものが何なのか、リアはよく知っている。
アカドクジシソウ。どこでもよく育ち、春先に真っ赤な綿毛を飛ばす、姿形はたんぽぽに似た雑草のこと。赤く毒々しい綿毛は服に付いたら中々取れず、動物の毛に種を付着させてよく繁茂する。僅かとはいえ全草に毒があり、抜いても抜いても生えてくる厄介な雑草で、農民たちからの嫌われ者。
ゼルドリックと初めて出会った時、彼はリアを見るやいなや、まるでパルシファーの綿毛の様な髪だと評した。パルシファーとは何かと尋ねれば、彼はあの口の端を歪める意地悪い笑みを浮かべ、アカドクジシソウのことを指した。植物に親しむリアは、アカドクジシソウがどれほどの嫌われ者であるかよく知っていた。
そしてすぐに悟った。このダークエルフは自分を見下し、一目で嫌ったのだと。
ゼルドリックのせいで、母が可愛いと言ってくれたまとまりのない真っ赤な自分の髪が嫌いになってしまいそうだった。髪を揶揄われたその日の夜は、ベッドの中で涙を流した。
リアがゼルドリックに会いたくない一番の理由は、この髪をパルシファーの綿毛のようだと揶揄われることだった。
厄介なことに今、腰と頬に手を回され、身体を離すことも、顔を背けることもできない状況で言われている。リアが思わず目を潤ませると、ゼルドリックが小さく息を吐いた気がした。リアが強く身を捩ると、まるで逃さないとでもいうように力を込めて抱き寄せられた。
「逃げるな」
ゼルドリックの手がリアの後頭部に回された。リアの顔は、彼の広い胸板に埋められる。かつて、これほどまでに男性に対して接触を許したことはなく、リアは己の心臓が早鐘を打つのを自覚した。
「リローラン。パルシファーの名を出すと君はいつも良い反応をしてくれるな」
リアは、くつくつと自分の頭の上でゼルドリックが笑うのを感じた。このダークエルフはパルシファーの名前を出せば、自分が傷つくと解っていてやっている。リアは彼の胸の中で、なお目を潤ませた。ゼルドリックはリアの髪から肩へ、高い鷲鼻をくっつけるようにして顔を埋め息を吸い込んだ。
(え……? 私の匂いを嗅がれている……!?)
ここまで近づけばお互いの体臭が分かってしまう。ゼルドリックからは清涼感のある、ミントのような良い香りがした。それに比べて自分はどうだろうか? 真夏日の中、村を歩き回ったのだ。絶対に汗の臭いがするだろうし、それを異性に嗅がれるのはとても恥ずかしい。そう思い、リアは泣きたくなった。
「ふむ、この真っ赤な髪はやはり綿毛のように柔らかい。それにしても君からは随分と甘ったるい匂いがする。砂糖を溶かした紅茶のような、雨水に濡れた花のような……」
「やっ……! やだ、いやっ……! やめてください!」
リアはとうとう羞恥でおかしくなってしまいそうだった。奥底で燻っているものが決壊してしまいそうなのを感じる。彼の行為を冷静に受け流すことなど、もうリアにはできなかった。泣きそうな声を上げ必死に身を捩る。
(おかしいわ。どうして私にここまで近づくの? どうしてこんなに身体に触るの? お願い、嫌いなら近づかないで……。勘違いさせるようなこと、しないで……!)
言いたいことはたくさんあるのに上手く言葉が出てこない。自分の鼓動が、ただどくどくと響いているのを感じる。もう限界だ、彼を突き飛ばしてしまおう。そう思って腕に力を入れた時、リアは自分の身体がおかしいことに気が付いた。
(あれ……? 力が入らない……?)
ゼルドリックと目を合わせてから、どうも腕の力がうまく入らない。込めた力はどこに行ったのか、すぐに抜けてしまう。力の強い自分であれば、この腕からとっくに抜け出せるはずなのに。リアは混乱の中、ゼルドリックの大きな腕からいつまでも抜け出すことができなかった。結局リアは、しばらくゼルドリックに抱きしめられたままでいた。
異なる体温に包まれる時間はそれほど長くなかったはずだが、リアにとっては随分と長く感じられた。目の前は黒一色で、外の景色なんて何も見えない。彼の胸は温かく、ミントの良い香りがする。こうして抱きしめられていると、堪らなく恥ずかしくはあるが身を寄りかけてしまいそうだとリアは思った。それほどに、安心感のある胸だった。
ただ、自分はゼルドリックに嫌われているという一点の事実が、リアの芯に食い込み、痛みを与えてくる。リアは彼から伝わる温度が自分の心の柔らかい部分にまで侵食してこないように、あえて他のことを考え続けた。
「……時間のようだな」
終わりは突然訪れた。リアはぱっとゼルドリックの腕から解放された。強く、赤い夕日が、リアの目を眇めさせた。マルティンとアンジェロが、遠くからこちらへ歩いてくるのが見えた。
リアは呆けていたが、何もなかったかのように平然と立ち上がるゼルドリックにつられ、急いで立ち上がった。ゼルドリックは合流したアンジェロから簡単な報告を受けると、今日の視察はこれで止めにすると言った。マルティンは船のある湖まで見送ることを申し出たが、ゼルドリックはその申し出を断った。
「せっかくの視察日だ。リローラン、湖畔までの道の間にもっと君と話をしたいところだが……。今日の君は随分と疲れているようだからな? 見送りは結構。もう帰ることだ。君の顔は随分と赤いし鼓動も速い。真っ赤な髪と肌の境目が分からなくなるくらいに顔が赤い。風邪でも引いたのではないか? 全く、無茶はいかんぞ……」
そうさせた理由は自分にあるというのに、ゼルドリックはリアをまた揶揄った。
「それではな。また来る」
いつもの別れ際の挨拶に、リアは羞恥からぼそぼそとした返事を返してしまった。火が出そうなほどに顔が熱い。ゼルドリックの顔が見れず、背の高い彼の胸や腹を見てしまう。リアは居た堪れず、胸の前で手をきゅっと握った。ゼルドリックはリアがそうなる理由が分かっているからか、口元を歪めながらリアを見た。
「さらばだ、リローラン。赤い綿毛の君」
リアは何も言えなかった。抱き締められた時のゼルドリックの温度が身体に蘇り、思わず目を逸らし、身体をすり合わせた。ゼルドリックはリアが答えを返さないことをそれほど気にしていないようで、軟膏をしっかり塗っておけと言った後、高台から去っていった。
二人のエルフの姿が離れていく。別れの挨拶を交わした後も、リアは呆けたまましばらくそれを見ていた。
「…………ねえ、リア! ……リアったら!」
マルティンに腕を揺さぶられ、リアははっとした。
「ごめん、呆けてた。どうしたの?」
「こっちが聞きたいよ。……どうしたのさ、そんなにぼんやりして」
マルティンは気遣わしげに言った。リアがゼルドリックから何かされたのかと不安に感じているのだ。
「いつも通り嫌味を言われたけれど……今日は少し、接触が過剰だったかな」
「え、またリアの身体を触ってきたの?」
「うん、あと……いつも通り、私の髪をアカドクジシソウみたいって言った」
リアは自分の口からその言葉を出して、余計に悲しくなってしまった。眉を下げたリアを慰めるように、マルティンが背中を優しく摩った。
「リア。辛い思いをさせて本当にごめんね。あのお役人さんとリアを一緒にするべきではなかった」
マルティンは悲しそうにリアに謝った。
「人の外見をどうのこうの言うなんて最低だ。リアの髪がどんな風だろうが、手にささくれができてようが関係ないじゃないか。そのくせにリアの手やら肩やら髪やらを触るだろ。何を考えてんだろう? あのお役人さんは!」
マルティンは憤慨した。心優しいマルティンが、ここまで自分のために怒ってくれることがリアには嬉しく、少し救われたような気持ちになった。触られたのは手や肩だけでは済まなかったが、マルティンをこれ以上怒らせても仕方がないので、リアは具体的にどこを触られたのかは言わなかった。
「ありがとね、マル……。もう、大丈夫だよ。それよりも、今日はマルが攻撃されなくて安心したわ」
リアは柔らかく微笑んでマルティンの肩を叩いた。マルティンは柔らかな眉を下げ礼を言った。
「次は僕がリアを守るからね。あのダークエルフの役人さんは怖いけど立ち向かってみる」
健気な子だとリアは思った。自分ひとりではあの役人たちの応対はしきれなかっただろうが、心優しいマルティンがいればこれからも我慢できる気がした。
リアは、もう日も暮れてきたし帰ろうかとマルティンに切り出した。マルティンと別れの挨拶を交わした後、夕日が降り注ぐ高台をそのまま登り、リアは帰路に就いた。
村の高台からは、広大な農地から美しい湖までを一望できる。リアはこの景色が好きだった。夕日に沈む村の景色は、何度見ても飽きなかった。息の詰まるような一日であったが、綺麗な赤い景色を見て少しだけ心が癒えていくような感じを覚えた。
「アンジェロ、私は少々疲れた。残りの確認は頼む」
ゼルドリックは短く言い放ち、マルティンに高台にある警鐘のもとへアンジェロを連れて行くよう指示をした。
二人の後をリアが付いていこうとすると、ゼルドリックに手を引かれた。
「君はここにいろ」
草の上に座り込んでしまったゼルドリックにつられて、リアも恐る恐る彼の隣に腰を下ろした。
リアの手を握ったまま、ゼルドリックは何を言う訳でもなく、ただ夕陽に赤く染まった景色を見つめていた。風に揺られて草がそよぎ、さらさらとした音だけが聞こえる。
いつまでそうしていただろうか。リアは動かないゼルドリックを横目で見た。
彼の黒い肌に強い夕日が当たり、美しく煌めいている。眩しさに眇められた目から高い鷲鼻、引き結ばれた唇、尖った耳にまで、空から光の粒が降り注ぎ、彼を黄金色に彩っていく。
(……綺麗)
リアは素直にそう思った。野性的な顔で、美しさよりは威圧感を強く感じるようなゼルドリックだが、強い光を受けて肌を黄金色に輝かせる彼は、リアにとって高貴で力強く、とても美しいものに見えた。
(この男性のことは苦手だ)
リアを憂鬱にさせる張本人でもあるし、断りもなく身体を触る。高慢で嫌味たらしい。マルティンと共に、嫌われていると思うとあまり会いたくない気持ちもある。ただ、光の中で輝く彼の横顔を見ていると心が切なく締め付けられるような感じがした。とくりと胸が高鳴る。この黒く美しい横顔を、もっと見ていたいと思った。
(こんな美しい男性から嫌われていることが……悲しい)
リアは下を向いた。自分の手をすっかり握り込むゼルドリックの手が目に入る。軟膏を塗り込まれた時の、熱くしっとりとした彼の手の肌触りを思い出す。あの手は柔らかかった。柔らかくも骨の硬さが伝わって、大きくて、自分とは全く違う男の手だった。リアは顔を赤くした。
(ブラッドスター様はなぜ、私に触るのだろう? 私が……もし、彼に好かれていたら。こうやって手を握られても、素直に喜ぶことが出来たのに)
ふと、ゼルドリックから嫌われているという事実にリアは悲しみが込み上げてくるのを感じた。リアは切なさから顔を上げ、視線を前に戻した。
さらさらと穏やかな風がそよぐ音、握られた手から伝わる温かな彼の温度に、リアは村を歩き回った疲労を思い出した。眠気がこみ上げて、少しだけ休ませてもらおうかと思い目を閉じる。すると、握られた手に力が込められた。
ゼルドリックの方を見ると、青く美しい目がリアを捉えていた。その目の強さにリアは思わず息を呑んだ。彼は非常に目力が強い。猛禽類のような青い瞳に、くっきりと自分の姿が映り込んでいる。自分が青い瞳の中にここまではっきりと映っている理由は、ゼルドリックが自分に近づいているからだとリアは気が付いた。
リアが呆けている僅かの間に、ゼルドリックは片手をリアの腰に、もう片方の手をリアの頬に伸ばし顔を近づけた。近すぎる距離に、彼から離れなければいけないと思うのに、腰に手を回されているために身体を動かせない。やがてリアの身体は、ゼルドリックにすっぽりと覆い隠されてしまった。
息がかかってしまいそうな程に、ゼルドリックの顔が近づいてくる。光沢のある艶やかな黒い肌から長い睫毛、美しい青い瞳がリアの目の前を覆い尽くした。
恥ずかしさのあまり顔を逸らそうとするが、頬に添えられた大きな手がそれを許してくれなかった。ゼルドリックの指が、そっとリアの唇をなぞる。擽ったさから思わず吐息を漏らすと、ゼルドリックの口元が歪められた気がした。
「……今日は、化粧はしていないのか」
ゼルドリックがリアの唇に視線を落とし、ぽつりと呟いた。唇に置かれた指が、感触を確かめるようにゆっくりと唇をなぞる。頬と腰に伝わる確かな温度に、リアは一気に顔に熱が集まるのを感じた。
「あ、朝早くから畑仕事がありましたので。不快でしたら……申し訳ありません」
リアは身体を捩って逃げようとするものの、それは叶わなかった。腰に添えられた手にぐっと力が込められ、ゼルドリックとリアの距離は尚更縮まった。
「化粧をしていない君を初めて見た」
リアの顔を覗き込み、ゼルドリックが言った。リアの顔を検分するように青い瞳が細かく動く。
「ここまで近づくと君の顔の細部がよく見える。そばかすの多い肌も、低い鼻も、やたらに大きな赤い目も、厚みのある唇まで……。ああ、パルシファーの綿毛の様な髪と同じく、君は眉毛も、睫毛も赤いのだな。ここも触ったら髪のように柔らかいのか?」
パルシファー。
その言葉を聞いた時、リアの胸が強く軋んだ。彼が自分にぶつける嫌味の内、冷静に受け流せないのは自分の髪をパルシファーの綿毛に例えられることだった。
パルシファーとゼルドリックが呼ぶものが何なのか、リアはよく知っている。
アカドクジシソウ。どこでもよく育ち、春先に真っ赤な綿毛を飛ばす、姿形はたんぽぽに似た雑草のこと。赤く毒々しい綿毛は服に付いたら中々取れず、動物の毛に種を付着させてよく繁茂する。僅かとはいえ全草に毒があり、抜いても抜いても生えてくる厄介な雑草で、農民たちからの嫌われ者。
ゼルドリックと初めて出会った時、彼はリアを見るやいなや、まるでパルシファーの綿毛の様な髪だと評した。パルシファーとは何かと尋ねれば、彼はあの口の端を歪める意地悪い笑みを浮かべ、アカドクジシソウのことを指した。植物に親しむリアは、アカドクジシソウがどれほどの嫌われ者であるかよく知っていた。
そしてすぐに悟った。このダークエルフは自分を見下し、一目で嫌ったのだと。
ゼルドリックのせいで、母が可愛いと言ってくれたまとまりのない真っ赤な自分の髪が嫌いになってしまいそうだった。髪を揶揄われたその日の夜は、ベッドの中で涙を流した。
リアがゼルドリックに会いたくない一番の理由は、この髪をパルシファーの綿毛のようだと揶揄われることだった。
厄介なことに今、腰と頬に手を回され、身体を離すことも、顔を背けることもできない状況で言われている。リアが思わず目を潤ませると、ゼルドリックが小さく息を吐いた気がした。リアが強く身を捩ると、まるで逃さないとでもいうように力を込めて抱き寄せられた。
「逃げるな」
ゼルドリックの手がリアの後頭部に回された。リアの顔は、彼の広い胸板に埋められる。かつて、これほどまでに男性に対して接触を許したことはなく、リアは己の心臓が早鐘を打つのを自覚した。
「リローラン。パルシファーの名を出すと君はいつも良い反応をしてくれるな」
リアは、くつくつと自分の頭の上でゼルドリックが笑うのを感じた。このダークエルフはパルシファーの名前を出せば、自分が傷つくと解っていてやっている。リアは彼の胸の中で、なお目を潤ませた。ゼルドリックはリアの髪から肩へ、高い鷲鼻をくっつけるようにして顔を埋め息を吸い込んだ。
(え……? 私の匂いを嗅がれている……!?)
ここまで近づけばお互いの体臭が分かってしまう。ゼルドリックからは清涼感のある、ミントのような良い香りがした。それに比べて自分はどうだろうか? 真夏日の中、村を歩き回ったのだ。絶対に汗の臭いがするだろうし、それを異性に嗅がれるのはとても恥ずかしい。そう思い、リアは泣きたくなった。
「ふむ、この真っ赤な髪はやはり綿毛のように柔らかい。それにしても君からは随分と甘ったるい匂いがする。砂糖を溶かした紅茶のような、雨水に濡れた花のような……」
「やっ……! やだ、いやっ……! やめてください!」
リアはとうとう羞恥でおかしくなってしまいそうだった。奥底で燻っているものが決壊してしまいそうなのを感じる。彼の行為を冷静に受け流すことなど、もうリアにはできなかった。泣きそうな声を上げ必死に身を捩る。
(おかしいわ。どうして私にここまで近づくの? どうしてこんなに身体に触るの? お願い、嫌いなら近づかないで……。勘違いさせるようなこと、しないで……!)
言いたいことはたくさんあるのに上手く言葉が出てこない。自分の鼓動が、ただどくどくと響いているのを感じる。もう限界だ、彼を突き飛ばしてしまおう。そう思って腕に力を入れた時、リアは自分の身体がおかしいことに気が付いた。
(あれ……? 力が入らない……?)
ゼルドリックと目を合わせてから、どうも腕の力がうまく入らない。込めた力はどこに行ったのか、すぐに抜けてしまう。力の強い自分であれば、この腕からとっくに抜け出せるはずなのに。リアは混乱の中、ゼルドリックの大きな腕からいつまでも抜け出すことができなかった。結局リアは、しばらくゼルドリックに抱きしめられたままでいた。
異なる体温に包まれる時間はそれほど長くなかったはずだが、リアにとっては随分と長く感じられた。目の前は黒一色で、外の景色なんて何も見えない。彼の胸は温かく、ミントの良い香りがする。こうして抱きしめられていると、堪らなく恥ずかしくはあるが身を寄りかけてしまいそうだとリアは思った。それほどに、安心感のある胸だった。
ただ、自分はゼルドリックに嫌われているという一点の事実が、リアの芯に食い込み、痛みを与えてくる。リアは彼から伝わる温度が自分の心の柔らかい部分にまで侵食してこないように、あえて他のことを考え続けた。
「……時間のようだな」
終わりは突然訪れた。リアはぱっとゼルドリックの腕から解放された。強く、赤い夕日が、リアの目を眇めさせた。マルティンとアンジェロが、遠くからこちらへ歩いてくるのが見えた。
リアは呆けていたが、何もなかったかのように平然と立ち上がるゼルドリックにつられ、急いで立ち上がった。ゼルドリックは合流したアンジェロから簡単な報告を受けると、今日の視察はこれで止めにすると言った。マルティンは船のある湖まで見送ることを申し出たが、ゼルドリックはその申し出を断った。
「せっかくの視察日だ。リローラン、湖畔までの道の間にもっと君と話をしたいところだが……。今日の君は随分と疲れているようだからな? 見送りは結構。もう帰ることだ。君の顔は随分と赤いし鼓動も速い。真っ赤な髪と肌の境目が分からなくなるくらいに顔が赤い。風邪でも引いたのではないか? 全く、無茶はいかんぞ……」
そうさせた理由は自分にあるというのに、ゼルドリックはリアをまた揶揄った。
「それではな。また来る」
いつもの別れ際の挨拶に、リアは羞恥からぼそぼそとした返事を返してしまった。火が出そうなほどに顔が熱い。ゼルドリックの顔が見れず、背の高い彼の胸や腹を見てしまう。リアは居た堪れず、胸の前で手をきゅっと握った。ゼルドリックはリアがそうなる理由が分かっているからか、口元を歪めながらリアを見た。
「さらばだ、リローラン。赤い綿毛の君」
リアは何も言えなかった。抱き締められた時のゼルドリックの温度が身体に蘇り、思わず目を逸らし、身体をすり合わせた。ゼルドリックはリアが答えを返さないことをそれほど気にしていないようで、軟膏をしっかり塗っておけと言った後、高台から去っていった。
二人のエルフの姿が離れていく。別れの挨拶を交わした後も、リアは呆けたまましばらくそれを見ていた。
「…………ねえ、リア! ……リアったら!」
マルティンに腕を揺さぶられ、リアははっとした。
「ごめん、呆けてた。どうしたの?」
「こっちが聞きたいよ。……どうしたのさ、そんなにぼんやりして」
マルティンは気遣わしげに言った。リアがゼルドリックから何かされたのかと不安に感じているのだ。
「いつも通り嫌味を言われたけれど……今日は少し、接触が過剰だったかな」
「え、またリアの身体を触ってきたの?」
「うん、あと……いつも通り、私の髪をアカドクジシソウみたいって言った」
リアは自分の口からその言葉を出して、余計に悲しくなってしまった。眉を下げたリアを慰めるように、マルティンが背中を優しく摩った。
「リア。辛い思いをさせて本当にごめんね。あのお役人さんとリアを一緒にするべきではなかった」
マルティンは悲しそうにリアに謝った。
「人の外見をどうのこうの言うなんて最低だ。リアの髪がどんな風だろうが、手にささくれができてようが関係ないじゃないか。そのくせにリアの手やら肩やら髪やらを触るだろ。何を考えてんだろう? あのお役人さんは!」
マルティンは憤慨した。心優しいマルティンが、ここまで自分のために怒ってくれることがリアには嬉しく、少し救われたような気持ちになった。触られたのは手や肩だけでは済まなかったが、マルティンをこれ以上怒らせても仕方がないので、リアは具体的にどこを触られたのかは言わなかった。
「ありがとね、マル……。もう、大丈夫だよ。それよりも、今日はマルが攻撃されなくて安心したわ」
リアは柔らかく微笑んでマルティンの肩を叩いた。マルティンは柔らかな眉を下げ礼を言った。
「次は僕がリアを守るからね。あのダークエルフの役人さんは怖いけど立ち向かってみる」
健気な子だとリアは思った。自分ひとりではあの役人たちの応対はしきれなかっただろうが、心優しいマルティンがいればこれからも我慢できる気がした。
リアは、もう日も暮れてきたし帰ろうかとマルティンに切り出した。マルティンと別れの挨拶を交わした後、夕日が降り注ぐ高台をそのまま登り、リアは帰路に就いた。
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あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
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来栖れいな
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