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After.花図鑑
Aft3.胡蝶花
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「メルローのおばちゃん!」
イリスは自室の窓から慕うエルフの姿を認め、勢い良く階段を下りた。どたどたという足音が辺りに響く。イリスは家を訪ねてきた女のエルフ目掛け、勢い良く抱きついた。
「会いたかったよ、メルローのおばちゃん!」
「うぐうっ」
メルローはイリスの力強い抱擁に呻き声を上げながらも、彼女のふわふわとした紫色の髪を撫でた。
「おうおう、イリス。相変わらず元気だなあ……」
「えへへへ、窓からおばちゃんが見えたから急いで下りてきたんだ!」
イリスは愛嬌たっぷりの笑顔をメルローに見せた。
丸くふわふわとした綿花のような形の髪に、えくぼの浮かぶそばかす顔。大きな目と肉厚の唇は、母の面影をしっかりと残している。
(こいつの顔はリアちゃんにそっくりだな)
メルローは、親友のリアによく似て生まれてきたイリスの可愛らしさに顔を綻ばせ、彼女の低い鼻をちょんとつついた。
「おいイリス! 言っただろ? あたしのことは『お姉ちゃん』って呼べって! 百歳まではお姉ちゃんで通る!」
「似たようなことをオリヴァーのおじさんも言ってたよ。ねえ、百超えた後はどう呼べばいいの?」
「百超えた後も、もちろんお姉ちゃんって呼べよ!」
「ふうん」
イリスはいい加減な返事をした後、瞳を輝かせながらメルローの腕をくいくいと引っ張った。
「ねえ、メルローのお姉ちゃん! 今日はどこに行く? 森? 湖? 山? それとも最初からお墓に行っちゃう? 骨とか干物がありそうなところならどこでもいいよ!」
「そうだなあ」
メルローは刈り上げられた己の頭を掻いた後、にやりと笑ってイリスの頭を撫でた。
「よおし……今日はあたしと王都に行こうぜ! とっておきの干物を見せてやるよ!」
「王都!? とっておき!? もっ、もしかして……!」
きらきらとした紫色の目が向けられる。
メルローはイリスの視線を気持ちよく浴びた後、胸元から二枚の入場券を取り出した。
「百体のミイラがずらり……。エリテバラント国立博物館、大ミイラ展ペアチケットだ」
「いっ……いやったあああああああ!! 本当に? 本当に博物館に行けるの!? 嬉しいいいいい! お姉ちゃん大好きっ!」
イリスは歓喜に甲高い声を上げながら、また勢い良くメルローに抱きついた。イリスの腕がぎりぎりとメルローの身体を締めあげる。メルローはまた苦しげな呻き声を上げた。
「うぐっ……」
「早く行こう! 早く! ねえ早くぅ!」
「分かった、分かったってば! ほら、あたしの手をしっかり握りな! 王都に転移するよ!」
イリスはにこにことしながらメルローの手を握った。
期待に顔を輝かせる無垢な子供の笑顔を見つめながら、メルローは転移魔法を発動させた。
イリスは変わった子供だった。
好きなものは骨とミイラ。
好きな場所は墓地。
森や湖に遊びに出かけては、動物の骨や干涸らびた何かの死骸を持ち帰り、両親を大いに困らせてきた。
ダークエルフの父ゼルドリックと、ハーフドワーフの母リアの間に生まれた、五人の子の三番目。
イリスは冷静な姉と物静かな兄に全く似ることなく、明るく騒がしい子供に育った。
イリスは別に死体が好きな訳ではなかったが、骨や死骸というものは、彼女が「友」と会話する上で非常に重要なものであり、彼女は獣の頭蓋骨を部屋中に飾ったり、何かの骨片を好んで耳からぶら下げた。
骨好きのイリスとなった理由は、彼女の幼少期の経験が元となっている。
物心がつく頃、イリスはふと何かの「声」が聞こえることに気がついた。
自警団の事務所で遊んでいたイリスは、変わった声を聞いてきょろきょろと辺りを見渡した。
(……なんだろう?)
何か獣が鳴くような声がする。
イリスが声の聞こえる方に顔を向けると、そこには立派な熊や鹿の剥製があった。
熊の剥製から、威嚇するような怖ろしい唸り声がする。だがイリスはその唸り声を怖いと思うことなく、動かぬ剥製に近づき、首を傾げた。
(この子が鳴いているの?)
イリスは硝子のケースにぴったりと額をくっつけ、長時間、熊や鹿の剥製をじっと観察し続けた。
熊はイリスに向けて唸り声を上げ続けていたが、何もせず自分を見つめるだけのイリスに飽きたのか、やがて唸り声を出すのをやめた。熊の野太い声や鹿の鳴き声に耳を傾けながら、イリスはにこにこと笑った。
(ふふっ、うごかないけど、この子たちはまだ生きてるんだ! ふしぎだなあ)
声は自分以外の者には聞こえていないようだった。
イリスは不思議に思いつつ、夕暮れ時に迎えに来た母に連れられながら、剥製たちに手を振った。
またイリスは、村長が亡くなって葬儀に参加した際、何やら騒がしい声が辺りから聞こえることに気がついた。
村の端の方にある墓地。整然と並ぶ墓石のいくつかから声が聞こえる。
――おっ、アルの野郎とうとうおっ死んじまったか! こっちに魂が来たら盛大に祝ってやらねえとな!
――うふふ。八十までは生きるという予想が外れてしまったわね。でもアルが来るなら、こっちの世界はもっと楽しくなるわ。
――立派に村長を務めたんだ。こっちに来たら労ってやろう。
イリスは墓石にそっと近づき、風雨に削られた石の前で「声」に話しかけた。
「ねえ、どうして石の下から声が聞こえるの? あなたたちは一体どこにいるの? こっちって何? あなたたち、村長さんのことを知っているの?」
イリスの問いに「声」はぴたりと止んだ。
「村長さんはね、皺くちゃで腰が曲がってたけど、とっても優しいお爺ちゃんだったんだよ! 村長さんはあなたたちのところに遊びに行ったの? ねえ、またこっちに戻ってくる? それともそっちに行ったまま?」
そして暫しの沈黙の後、困惑の混じる男の声が聞こえた。
――お……おい。もしかして、俺らの声が聞こえるのか?
イリスがこくりと頷くと、それから声は聞こえなくなった。どうやらイリスに話を聞かせないように口を閉じているようだった。
(ちぇ、つまんないの。私を仲間外れにしなくてもいいのに!)
ぶつぶつと独り言を言ってどうしたんだと、ゼルドリックがイリスの元に歩いてきた。
イリスがお友達と話していたのと父に伝えると、ゼルドリックは変な顔をし、名残惜しそうに墓石を見つめるイリスを抱え上げた。
それから少しして、イリスはどうやら自分が死者の声を聞くことができるのだと気がついた。
墓石の下で眠っている遺体、あるいは森や山に転がっている獣の骨。
あの世とこの世を繋ぐもののように、遺体や骨の近くにいると死者の声がイリスに聞こえてくることがあった。
イリスは持って生まれた自分の力を、親や兄弟姉妹に話さなかった。「友」との会話について小言を言われたくなかったし、秘密の会話を誰からも邪魔されたくなかった。
(私は特別よ、私だけが死んだ人や動物の声を聞くことができるの!)
イリスは積極的に声を出す死者を探し回り、そして骨や墓石を撫で回しながら、しつこく死者に話しかけ続けた。
全ての死がイリスに応えてくれる訳ではなかったが、それでもいくつかの骨や墓石の下に眠る遺体は、好奇心旺盛なイリスと話をしてくれた。
イリスは頻繁に墓地に遊びに行き、普通であれば話すことが叶わないであろう、過去に生きた人々の話に耳を傾けた。
生まれ育った地であるはずれの村の成り立ちを、詳しく聞かせてくれるかつての村長たち。旅をした異国の話をしてくれる商人。かつての流行り病の怖ろしさを言い聞かせる村人。
それぞれの話が、イリスにとっては堪らなく刺激的だった。
イリスは姉や兄と異なり、全く本を読もうとしなかった。本を読んで見たこともない異国や過去の出来事に思いを馳せるよりも、その場所、その時を経験した「友」が自分に詳しい話を聞かせてくれる。イリスにとっては死者との会話の方が、遥かに素晴らしく、楽しく感じられた。
ゼルドリックとリアは、イリスに随分と手を焼かされた。
イリスは他の子が好むような遊びに全く興味を示すことなく、ひとり墓地に行っては墓石の前で独り言を言ったり、山や森に転がっている立派な獣の頭蓋骨をいくつもいくつも拾ってくる。
一体この娘は誰に似たのだろうかと、ゼルドリックは首を傾げた。
イリスの部屋は骨だらけだった。彼女の部屋の扉を開けると、骨片で出来たカーテンがじゃらじゃらと鳴り、壁や棚にぎっしりと飾られた獣の頭蓋骨が目に飛び込んでくる。怖ろしさすら感じさせるイリスの部屋に、リアは頭を抱え、まだ幼い妹のヴィオラや末っ子のセージは泣き叫んだ。
両親や兄弟姉妹から呆れられても、イリスは決して趣味の骨集めをやめることはなかった。放っておくと骨のコレクションは増え続ける一方だったので、リアは口を酸っぱくしながらそれ以上増やすのはやめなさいとイリスを叱った。
イリスの丸くふわふわとした紫色の髪の上にはいつも獣の頭蓋骨があって、彼女はお気に入りの骨を、まるで帽子のように被ってそこらを歩き回った。
ゼルドリックは必死に止めさせようとしたが、屋敷に顔を出したメルローがイリスを見て「まあいいんじゃね」と適当な返事をした際、イリスはメルローを友だと見做した。
それからイリスは何かとメルローの後をついて回った。イリスは両親や兄弟姉妹から何か小言を言われても全く気にしない性格だったが、それでも自分の在り方に口を出さないさっぱりとしたメルローの存在が嬉しかった。
メルローはイリスから「死んだものたちの声が聞こえる」と打ち明けられた際、珍しい能力もあるものだと思った。メルローにとって、自分を慕ってくる親友似の子供はとても可愛い存在であったので、休日の際は必ずイリスのもとに顔を出して、共に骨集めをしたり、多くの剥製が展示されている場所に行ったりした。
「ねえねえメルローのお姉ちゃん! 博物館にはミイラがたくさん展示されているんでしょう? お友達と話すのが楽しみだなあ! 一体どんな話を聞かせてくれるんだろう?」
王都の華やかな大通り。
イリスはメルローに手を引かれながら弾んだ声を出した。
「もしかしたら今までに見つかったことのねえ、いにしえのお宝の在り処とか話してくれるかもしれねえぞ? 数百年どころか、数千年前のエルフの王様も展示されてるみてーだからな」
「ほっ、本当!? 数千年前!? とっても楽しみ! もしお宝の在り処が聞けたなら一緒に宝探しに行こうね! それで私とメルローのお姉ちゃんと私の家族できっちり三等分するの! 私たちは大金持ちだよ!」
イリスはきゃあきゃあと楽しそうにはしゃぎながら、メルローと共に美しい大通りの景色を楽しんだ。
「ほらイリス! もうすぐ着くぜ。迷子になったら大変だから、あたしから離れんなよ!」
「わっ、わああああ……! すごいよメルローのお姉ちゃん! 王都にある博物館ってあんなに大きいんだね!」
イリスは前方に見える大きな建物を見て感嘆の声を上げた。美しい白壁の博物館は、陽光を受けてきらきらと輝いている。イリスは紫色の目を輝かせ、まるでお城みたいだと呟いた。
「いいか、イリス? 博物館ってのは静かに展示物を見るところなんだ。干物と会話するのはいいけどよ、こっそりと喋るようにな。あんまり大きな声を出すなよ!」
「分かったよ、お姉ちゃん!」
イリスは元気よく返事をした後、メルローの腕をぐいぐいと引っ張りながら博物館へ駆けていった。
薄暗い博物館の中で、イリスはうっとりと一体一体のミイラを見つめながら、自分と会話してくれそうな展示物を探そうとした。
(あっ、向こうの方から何か聞こえる!)
イリスは人混みを掻き分け、特別大きな硝子ケースに入れられたミイラの前に立った。
目の前にあるエルフのミイラは金の椅子に座り、身体中にごてごてとした装飾を着けている。イリスは干涸らびた顔から足の先まで、じっくりと観察をした。
(うわあ、けばけばしいミイラだなあ。金の輪っかをいっぱい着けてるし、爪を変な色に塗ってる。メルローのお姉ちゃん並に派手だ)
ミイラは落ち窪んだ目を前に向けていた。その顔はすっかり干涸らびていたが、寄せられた眉間と引き結ばれた口が、かつて高慢で気難しそうな表情を浮かべていたことをはっきりと示しているようだった。
展示物の前には、彼がいにしえの時代、王の座にあったことを示すプレートが付けられている。イリスは目を輝かせた。
(すごいすごい! 七千年前のエルフの王様かあ……! 病気で死んでいなければ、今も生きていたかもしれないんだね!)
イリスはミイラの乾いた長い耳をじっと見つめ、そして小声で話しかけた。
「ねえ、王様。私と話そうよ! 私はね、イリスっていうの」
――xxx、xxxxx。
「え? なあに? もう一度言って!」
―― xxx! xxxxxx……。
「もう! 何言ってるのか分からないよ! ねえ、私の言ってることは分かる!?」
―― xxx、xxxx!! xxxxxxxx!
干涸らびたエルフの王から紡がれる言葉を、イリスは全く理解することが出来なかった。
イリスは聞いたこともない言葉たちに首を傾げながら、何とか意思の疎通を図ろうとした。しかし王は訳の分からない言葉で怒鳴った後、声を出さなくなってしまった。
「……何よ、王様のばか!」
イリスは干涸らびたエルフを睨み付け、他のミイラの元に足を運んだ。
イリスはひたすら声の聞こえるミイラに話しかけ続けたが、ミイラたちから返ってくるのはいずれも訳の分からない言葉だった。
夕暮れ時。
メルローはぷっくりと頬を膨らませるイリスの眉間をつついた後、屋台で買った綿あめを彼女に差し出した。
「おい、イリス! いい加減機嫌直せって」
「だって……だってお姉ちゃん! ミイラたちは意地悪なのよ! 私が一生懸命話してるのに、まともに会話してくれなかったの! 訳の分からないことばっかり私に言って!」
綿あめを勢い良く口に運びながら、イリスは甲高い声でメルローに訴えた。
「訳の分からねえこと?」
「んぐっ……そうよ! 話しかけたら声は返してくれるけど、何を言ってるのか全然分からないの! きっと私を馬鹿にしてるんだわ! うぅ……お宝の在り処を聞き出したかったのにぃ……!」
メルローは少し考えた後、イリスの頭をぽんぽんと叩いた。
「あー……。ミイラどもは別にイリスを馬鹿にした訳じゃねえと思うぜ? 高慢ちきだったっていうエルフの王様だけは分からねえけどよ」
「へ?」
「あたしはあんたみたいに死人どもと話したことがねえから、ぱっと分からなかったけどさ。ミイラは何百年、何千年前に生きてた奴らだろ? 今生きてるあたしたちと使う言葉が違うんだ。そうだなあ、遠い昔に生きてたエルフの王様なんかは、古代妖精語を使ってたんじゃねえか?」
「あ……そっか」
イリスは納得したように俯いた。
「じゃあ、あの王様と話すには、私が古代妖精語を身に着けなくちゃいけないの……?」
「うーん、古代妖精語はとっくに失われた言語だ。まず言語研究から始めなくちゃいけねえ」
「……そんなぁ」
「おい、そんな落ち込むなって! まあエルフの王様と話せなくてもさ、白波の国とか、崖の国の奴らとは話せるんじゃねえか? あんたが異国の言葉を勉強して、またミイラどもに話しかけてみればいいんだ。古代妖精語だって、イリスがこの先一生懸命研究すれば、いつの日か復元できるかもしれねえぜ?」
「そっかあ……。メルローのお姉ちゃん、私すっごく勉強が苦手だけど、明日からリリーのお姉ちゃんを見習って本を読んでみるよ!」
「おう。応援してるぜ」
メルローは微笑みながら、イリスの頭をぽんぽんと叩いた。
そしてイリスは、次の日から語学の本を読み始めた。
本を数頁読むだけで頭が痛くなってしまったが、いつの日かミイラたちから古の時代の生活を聞き出すことを夢見て、イリスはのんびりと学習を進めた。
――――――――――
イリスは語学を学ぶうちに、異国の地に強く惹かれるようになった。
本に載っている人々の生活の様子や、自分が住む屋敷のあちこちに貼られた写真。
赤や青の色鮮やかな屋根、変わった服を纏う漁師、巨大な時計台、大海原、聳え立つ峰々。
イリスは異国の様子を鮮やかに映し出すそれらに魅了され、いつか自分もその地を旅してみたいと望むようになった。
この屋敷の壁に貼られた見事な写真は誰が撮ったのかと母に尋ねれば、リアは懐かしそうに目を細め、自分の弟の話をイリスにした。弟は外交官の護衛として諸国を巡っていて、数ヶ月に一度手紙と共に写真を届けてくれるのだと。
マルティン=ベアクロー。
心優しくも、銃の扱いに秀でた立派な男。血は繋がらないが、本当の家族のように過ごしてきた男。
リアは一枚の写真をイリスに見せた。写真には背の高いエルフの男と、ややぽっちゃりとした、ドワーフのような長い髭を持つ男が映っている。
リアは髭の男を指差しながら、この人がマルティンよとイリスに微笑んだ。
「へえ、この男の人が綺麗な写真をいっぱい撮ったんだね! すごいなあ! 私も叔父さんみたいに色々な国を旅してみたいよ! あ、でも……緑の国と関係が良くない国もあるでしょう? 叔父さんとこの外交官の人は大丈夫なの?」
イリスの問いに、リアは静かに目を瞑った。
「そうね。色々な国に行く上で……危険な目にも遭うと聞くわ。どうか、無事でいてくれたらいいのだけどね」
もうずっとマルティンに会っていないのだと、リアは唇を震わせて言った。
(お母さん、寂しそう。叔父さんに会いたいんだな……。私もいつか、叔父さんと会って話をしてみたいなあ)
マルティンへの心配が滲んだ母の寂しげな顔は、イリスの中にくっきりと刻まれた。
――――――――――
イリスは成人を迎えてから、妹のヴィオラ、弟のセージと共に王都へと向かった。
イリスとセージは語学を、ヴィオラは植物学を王都の大学で修めようとした。いつか何千年も前に生きたエルフの王と会話することを夢見て、イリスは王都の大学で古代妖精語に関する研究を進めた。
親切にも父の友人であるオリヴァーが部屋を貸してくれるということで、彼らはオリヴァーの広い家に住みながら、ひたすら学問に打ち込む生活を送った。
オリヴァーは真面目で面倒見の良い男だが、家事の腕が壊滅的だった。料理や掃除が全く出来ない男だったので、三人は家賃代わりにオリヴァーに料理を作ったり、彼の散らかった部屋を片付けたりした。
ある日、オリヴァーは日々の礼にとイリスを王都の博物館に連れて行った。
その時博物館ではまた大規模なミイラ展が開かれていて、イリスは目を輝かせながらオリヴァーの腰に抱きついた。
「うわぁぁぁ……。博物館に行くのなんて子供の頃以来だよ! 楽しみだなあ! どうもありがとう、オリヴァーのおじさん!」
「こら貴様ァ! 私のことはお兄さんと呼べと言っただろうに!」
「でもオリヴァーのおじさんは百過ぎてるじゃない」
「ええい、五百まではお兄さんで通るのだ!」
オリヴァーは若草色のおかっぱ頭を振り乱しながら大声を出した。
「ふうん……。ねえ、ところでお兄さんは中に入らないの?」
「私はいい! 私はミイラとか骨とか、そういうものがとにかく嫌いなのだ! 怖ろしくて堪らん!」
オリヴァーは肩を震わせながら、一人で入ってこいとイリスに言った。
イリスはかつてメルローと共にこの博物館を訪れたことを思い出しながら、薄暗い館内に足を踏み入れた。
あちこちから聞こえてくるミイラの声。
子供の頃はさっぱり分からなかったそれらが、確かな言葉となってイリスの耳に飛び込んできた。
(……理解できる。古代妖精語はまだ分からないけど、それでも……白波の国や崖の国の言葉は分かる)
今なら、子供の頃に話すことが叶わなかったいにしえの人々と話せるだろうか?
イリスは期待に目を潤ませ、特に大きな声を放つミイラの一体に近づいた。
そのミイラはオークだった。
口から突き出た牙が、博物館の薄暗い光を受けて淡く光っている。
かつて白波の国の軍人だったというオーク。彼は当時争っていた緑の国に捕らえられ、そして処刑された。
オークの太い首には斬首の痕がくっきりとついている。
イリスは痛ましさに眉を下げ、そして小声でオークに話しかけた。
「ねえ、オークさん。私の言ってることが分かる?」
――ん……? おい姉ちゃん、もしかして俺に話しかけてるのか?
「そうよ、首を斬られたオークさん。ああ、私の言葉が伝わっているみたいね……! 良かったわ」
――へええ。こいつは驚いた。まさか死んじまった俺と話すことのできる奴がいるとはね……。
イリスは干涸らびた友人に向けて、にっこりと笑った。
「オークさん、あなたも可哀想よね。斬られた首をまた繋げられて、挙げ句見世物にするためにミイラにされたんでしょ? 昔のエルフって本当に野蛮なことをするわよね」
――ああ、本当にな! 全く、エルフってのはろくなことをしやがらねえ!
「ねえ、オークさん。良ければあなたが生きていた頃の話を聞かせてくれない? 私ね、あなたのような人と話すために一生懸命外国の言葉を学んできたのよ!」
にこにこと笑うイリスを見て、オークは機嫌良さそうに自分が生きていた頃の話をし始めた。
およそ二百五十年前、白波の国の誇り高き軍人であったという彼は、手に汗握る海賊との戦いや、故郷である白波の国の美しさを朗々と語った。
――白波の国……俺の愛する故郷。青く澄んだ海に燦々と降り注ぐ陽の光。白い砂浜、そして美味い海の幸。街中には多くのレモンの樹が植わった、とても美しい国なんだ。
――俺の国はずっと海賊に苦しめられてきてな。俺が生まれた海沿いの村も、海賊にめちゃくちゃにされちまった。……ちくしょう。あの海賊たちを一匹残らず葬ってやるまで、絶対に死ねないと思ってたのよ……。
オークの言葉に震えが混じる。イリスは目を閉じ思考した。
(白波の国との関係は良くない。今も緑の国との国交は途絶えたまま。情報はあまり入ってこないけど、未だに海賊に苦しめられていると聞くわ。このオークさんも無念でしょうね……)
オークの堂々とした声で紡がれた異国の景色。
それは、イリスの心に色鮮やかな憧れを残した。
待ちかねたオリヴァーが呼びに来るまで、イリスはひたすら干涸らびた友人と会話をした。
――――――――――
ハーフドワーフの母、リアが亡くなってから一ヶ月。
イリスは故郷の村に滞在し、リアの墓石を撫で回しながら彼女に語りかける生活を送っていた。
「ねえお母さん。そっちでの生活はどう? ……ねえ、なんで? なんでいつまでも返事してくれないの? 私を無視してるの? 私が悪い子だったから返事をしてくれないの……?」
リアが埋葬された場所からは何の声も聞こえない。
イリスは墓石をひと睨みした後、家の中からスコップを持ち出しリアの墓の前に立った。
「ここから掘り起こしたら、お母さんは返事をしてくれるかな?」
イリスが土にスコップを突き刺したその時、転移してきたリリーがイリスの頭を思い切り叩いた。
「こら! 馬鹿イリス!」
「いっ!? いったぁい!! 何するのよお姉ちゃん!」
「何するのよはこっちの台詞だ、馬鹿イリス! 母さんを掘り起こそうとするな! 全く、お前は思いもよらない行動に出るんだから!」
リリーは啜り泣くイリスからスコップを取り上げ、大きな溜息を吐いた。
「はぁ……。おい、言っただろう? 母さんはそのうちこの世に戻ってくる気がするって」
「……うん」
イリスは唇を噛み締めながら、ゆっくりと頷いた。姉の勘がよく当たることはイリスも知っていた。
「イリス。母さんが戻ってきた時に立派な姿を見せられるように、お前はしっかりとやるべきことをやりなさい。大学で古代妖精語の研究をしているんだろ? いたずらばかりしていたお前が著名な言語学者になったら、母さんはとても喜ぶと思うよ」
「…………うん」
リリーは妹の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、もう馬鹿なことはするなよと声を掛けた。
(やるべきことをやりなさい、か。……そうだよね)
(いつお母さんが戻ってきてもいいように、私も姉さんみたいに立派にならなくちゃ……。小さい頃、お母さんにはたくさん迷惑かけちゃったし)
とうの昔に失われた言葉を復元することを夢見て。
母に立派な姿を見せることを目標として。
(エルフの王様からいつかお宝の在り処を聞き出せるように、これからも頑張らないと)
それからイリスは、各地を旅しながら古代妖精語に関する手がかりを探し続けた。複数の言語を自由に使いこなす秀才、また古代妖精語研究の権威として、イリスの名は各地の研究機関で知られるようになった。
――――――――――
長期休暇を取ったイリスは、ずっと憧れていた白波の国を訪れた。
オークから聞いていた通り、白波の国はとても美しい国だった。青く澄んだ海、燦々と降り注ぐ陽の光、白い砂浜、街中に植わった多くのレモンの樹。イリスは異国の空気を楽しむように、水平線を眺めながら深く息を吸った。
かつて緊張状態にあった緑の国と白波の国は、一人の外交官による熱心な努力によって和平の絆を結んだ。そしてその影には、叔父であるマルティン=ベアクローの存在があったのだとイリスは聞いている。
国交が回復してから数十年。両国に横たわる雰囲気はすっかり友好的なものとなっていた。
明るく華やかな地に住む人々の性格もまた明るく、緑の国からやってきたイリスは温かい歓迎を受けた。長きに渡って白波の国を苦しめ続けていた海賊の脅威も今はない。
干涸らびたオークの友人はこの平和な光景を見たら何と思うだろうかと、イリスは海沿いの道を歩きながら考えた。
イリスは白波の国でやりたいことがあった。
幼い頃に刻みつけられた寂しげな母の顔。
その記憶が、ある場所にイリスを向かわせた。
「……あった」
イリスは前方にある銅像を見て微笑んだ。
白波の国の英雄、マルティン=ベアクローの墓。
異国出身でありながらも、軍や漁師たちと共に海賊と戦った彼は、この地に骨を埋めた。
マルティンの銅像は大理石で出来た四角い墓石に腰掛け、美しい海を見つめている。銅像は長銃を抱えていて、その銃身にはマルティンを称える言葉が刻まれていた。全く髪のない彼の頭や印象的な長い髭は人々に何度も撫で回されてきたようで、そこだけやたらにぴかぴかと光っていた。
銅像の目は優しく細められている。
視線の先にある青く透き通る海を、白い砂浜を、沈む太陽を慈しむように。
会ったことがない自分の叔父。そして故郷の村を出て以来、一度も自分の母と会うことがなかった叔父。
イリスは寂しげな母の横顔を思い出し、目を潤ませた。
「……叔父さん」
眠る英雄に話しかけるように、イリスは銅像が座る大理石にそっと触れた。
「こんにちは、叔父さん。私はリア=リローランの娘、イリスだよ」
「私ね、叔父さんが送ってくれた写真に憧れて、色々な国を旅してみたいって思うようになったんだ。叔父さんが撮った写真は綺麗だね。叔父さんは……あんなに素晴らしい景色を見てきたんだね」
「私、白波の国にずっと来てみたいと思っていたの。この国との関係が良くなって本当に嬉しいよ。アンジェロさんと叔父さんが頑張ってくれたお陰だね」
「ねえ叔父さん、アンジェロさんの親友だったんだってね。私ね、アンジェロさんと王都の大学で話したことがあるんだよ。命は廻る、叔父さんが生まれ変わったら、また一緒に旅をするんだって……そう言ってたよ」
声は返ってこない。イリスは震えの混じる声で話しかけ続けた。
「……っ、叔父さん。お母さんね、叔父さんに会えなくてとても寂しそうだったよ。手紙でのやり取りだけじゃなくて、直接会いたかったんだと思う。ねえ、そっちの世界でお母さんと会えた?」
「私は死んだ人と話すことができるの。死んだ動物の声を聞けるの。……でもね、お母さんはずっと返事をしてくれないの。だからもしお母さんとそっちで会えたなら、様子を聞かせてほしいなって……」
声は返ってこない。全ての死が、自分に応えてくれる訳ではない。
イリスはだらりと腕を下ろした。
(……叔父さんと話してみたかったな)
イリスは涙を拭い、とぼとぼと宿場へ向かった。
その夜、イリスは夢を見た。
心地よい波の音が聞こえる。イリスは浜辺を歩きながら、夜の静かな海を見つめた。空には銀河や星雲、そしてオーロラが見え、天から降り注ぐ光が水面を明るく照らしている。
海が色鮮やかに輝く。イリスは現実離れした美しい光景に、ほうと息を吐いた。
(ここはどこだろう? 何だか……とってもいい香りがする)
辺りはほのかな薔薇の香気に満ちている。イリスはきょろきょろと辺りを見渡した。
すると浜辺の向こうから、一人の男がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「やあ、イリス」
太く、温かみのある声だった。イリスはその声に親愛の情が込められているのを感じ取った。
「君の顔はリアとよく似ているね。大きな目から可愛らしい鼻までそっくりだ」
イリスは目を潤ませ、前から歩いてくる老父をじっと見つめた。
「もしかして……」
ぽっちゃりとした体型の男は、目から雫を滴らせながらイリスに微笑んだ。彼の長い髭にぽたぽたと涙が落ちていく。片腕に抱えた長銃、ドワーフのような長い髭、月明かりを受けて滑らかに光る頭。イリスは確信を持って男へと駆け寄った。
「叔父さん!」
イリスの叔父――マルティンは穏やかに笑い、抱きついてきた姪をしっかりと抱きしめ返した。
垂れ下がった太い眉の奥から光る瞳が覗く。マルティンは感極まったように肩を震わせ、イリスのふわふわとした紫色の髪を何度も何度も撫でた。
「叔父さん……会いたかったよ、叔父さん!」
「僕もだよ、イリス。君に会えて本当に嬉しいよ……。イリス、君の髪はとても綺麗な紫色をしているね」
「ふふっ、本当?」
「ああ。赤と青を丁度良く混ぜたような髪の色……君の両親のことを思い出すよ」
マルティンはにっこりと笑った。
「ねえ叔父さん! 何で昼間は返事をしてくれなかったの? 私とっても寂しかったんだよ!」
「ああ、ごめんごめん。君が話しかけてくれたのは気がついてたんだけど、その時は取り込み中だったんだ。なあイリス。改めて、僕に君の話を聞かせてくれるかい?」
マルティンの皺んだ手を握り、イリスは笑顔で頷いた。
それからイリスは白い砂浜に座りながら、マルティンに色々な話を聞かせた。
自分が天から与えられた能力のこと。父と母のこと。兄弟姉妹のこと。自分と家族のことを見守ってくれるエルフたちのこと。
マルティンは優しい相槌を打ち、溢れる涙を拭いながら姪の話に耳を傾けた。
「叔父さん。私ね、お母さんのお墓に向かって一生懸命話しかけたのよ。でもずっと返事をしてくれないの。叔父さんは母さんと会えた?」
「いいや」
首をゆっくりと横に振るマルティンに、イリスは落胆の声を上げた。
「……そんなぁ。あのね、私は死んだ人と話せるって言ったでしょう? でも私に返事をしてくれない人もいるのよ。そういう人は、どんなに骨を撫でても絶対に声を出してくれないの。……どうしてだろう? お母さんもそうなのかな? 私はずっとお母さんと話せないのかな……?」
鼻を啜るイリスの頭を撫でながら、マルティンは静かに語り始めた。
「イリス。ここは俗に言う『天国』だ。君が話すことが出来るのは、多分第一天にいる魂だけだ」
「……第……いっ、てん?」
「ああそうだ。天国にはいくつかの階層がある。生前の心残り、執着、欲望、罪の重さ。それらが大きく強いほど下の階層で過ごす時間が長くなる。自分の欲や罪を洗い流せた魂から、少しずつ上の階層へと昇っていくんだ。そしてやがては神の御許に行き、永遠の安息を手に入れる……」
イリスは涙を流しながら、天に輝くオーロラを見つめた。
「それなら……それならお母さんは、もう上に行ってしまったのかな?」
「いいや。リアはここには来ていないよ」
「え? ……どういうこと?」
マルティンは困惑するイリスに、左手の小指を見せた。
彼の指に、白と橙が入り混じったような色の糸が巻き付いている。
「僕とリアに血の繋がりはないけど、僕たちは確かに家族だった。君が母さんを愛するように、僕もリアを愛している。僕たちは確かな絆で、今も繋がっているんだ……」
マルティンから伸びる糸は色鮮やかな海へと続いている。彼は目を細めて輝く海を見た。
「リアは生きているよ。イリス、君と同じ世界にいる。そうだなあ……きっと君の父さんが酷く寂しがるから、まだここには来れなかったんだろうね」
目を見開くイリスに、マルティンは温かく優しい声を掛けた。
「イリス。リアはそのうち君の前に姿を現すよ。だから笑って過ごしなさい。君の笑顔は母さんに似て、とても可愛いんだから」
イリスは涙を流しながらも、マルティンの言葉にゆっくりと頷いた。
「……僕は本当に嬉しいよ。まさか、君と……リアの子と話すことができるとは思わなかった。なあイリス、君は辛い目に遭わなかったかい? まだハーフエルフに対する目は厳しいものがあるだろう?」
眉を下げて尋ねるマルティンに、イリスは涙を拭った後笑顔を向けた。
「そうだね、もちろん辛いこともあるよ。でもね……お父さんとお母さんは、私たちを深く深く愛してくれた。だから私はハーフエルフの自分が嫌だって思ったことはないし、ふたりの子供に生まれて良かったと思ってる」
イリスはマルティンの手をしっかりと握った。
「私ね、アンジェロさんと話したことがあるんだよ。叔父さんは叔父さんなりに私たちを守ろうとしてくれたんだってね」
――全ての者、特に混ざり血がもう不当な差別を受けることがないように、他国の先進的価値観を自国に普及させる。私の親友、マルティンはこの考えに共感してくれたのだ。彼は言ったよ、『僕は僕なりのやり方でリアの家族を守り、緑の国に平和の盤石を築く』と。だから私の護衛を続けるのだと……。
「アンジェロさんからその話を聞いた時、とても立派で優しい人だと思った。だから、今まで叔父さんとは一度も会えなかったけど……私は叔父さんのことが大好きだったんだ。ありがとう、叔父さん」
「私たちは前を向いて生きているよ。辛い目に遭っても……お父さんとお母さんが、そして天から優しい叔父さんが見守ってくれていると考えれば、これからも頑張っていける」
「……そうか」
マルティンは泣きそうな声でそう溢した後、俯き大きく肩を震わせた。
「そうかっ……」
嗚咽するマルティンを抱きしめ、イリスも静かに涙を流した。
ふと、天から一条の光が射す。
綺羅びやかな外見のエルフの男が、ふたりの傍に音もなく立っていた。
「ああ、イリス。迎えが来たようだ。……もうすぐ朝が訪れるね。そろそろ君を帰してやらないと」
イリスはマルティンに手を引かれそっと立ち上がった。そして、目の前に現れたエルフの男をじっと見つめた。
身体中に着けられた金の輪の装飾。丁寧に塗られた爪紅。
寄せられた眉間と引き結ばれた口、高慢で気難しそうな表情。
(あれ……どこかで……?)
イリスは子供の頃目にした、干涸らびたエルフの王のことを思い出した。イリスがそっと古代妖精語で彼に挨拶をすると、男は気難しそうな表情を崩し明るく華やかな笑顔を浮かべた。
「ははっ、すごいやイリス! 彼が使っていた言葉を話せるんだね?」
「え、ええ……。叔父さん、このエルフの方は?」
「護衛対象さ。僕は、こっちでも似たようなことをやってるんでね」
マルティンは腕に抱えた長銃を見せた。
「命は廻ると聞く。天の向こうまでエルフの王様を護衛して、そして僕自身もすっかり魂の汚れを洗い流したら……また君のいる世界へ行こうと思うよ。アンジェロとリアに伝えておいてくれ、また会おうって」
マルティンは優しくも力強い笑みをイリスに向けた。
「さあイリス、お別れの時間だ。僕は天から君たちのことを見守っているよ」
マルティンが手を振る。
そして、イリスの視界は眩い光に包まれた。
――――――――――
諸国を巡るイリスのもとに、ある日一通の手紙が届けられた。
赤い小鳥の使い魔から届けられたその手紙に目を通し、イリスは朗らかに笑った。
手紙での挨拶になった謝罪。異国の地を旅する娘への心配と励ましの言葉。
エルフとして生まれ変わったこと。今は中央政府の役人として働いていること。
もうすぐ夫に会いに行くこと。近いうちにまた家族全員で集まろうということ。
そのような内容が丸みのある文字で記されている。
癖のある母の字に、イリスはくすりと笑った。
「叔父さんの言った通りだったな。母さんは私のいる世界で生きていたんだね」
イリスは青空を見上げ、優しい老父の姿を思い出した。
「さあてと、それじゃあ緑の国に戻ろうかな!」
(やることがたくさんあるわ。アンジェロさんに挨拶をして、博物館にいるオークさんにもう海賊はいないよって伝えて、エルフの王様から聞きそびれた宝の在り処を聞き出して、それから……お母さんとたくさん話をするんだ。今まで話せなかった分を埋めるように、たくさん、たくさん……)
マルティンの「また会おう」という言葉を伝えたら母はどんな顔をするのだろうかと、そしてその顔を見るのが楽しみだと、イリスは微笑みながら緑の国へと向かった。
イリスは自室の窓から慕うエルフの姿を認め、勢い良く階段を下りた。どたどたという足音が辺りに響く。イリスは家を訪ねてきた女のエルフ目掛け、勢い良く抱きついた。
「会いたかったよ、メルローのおばちゃん!」
「うぐうっ」
メルローはイリスの力強い抱擁に呻き声を上げながらも、彼女のふわふわとした紫色の髪を撫でた。
「おうおう、イリス。相変わらず元気だなあ……」
「えへへへ、窓からおばちゃんが見えたから急いで下りてきたんだ!」
イリスは愛嬌たっぷりの笑顔をメルローに見せた。
丸くふわふわとした綿花のような形の髪に、えくぼの浮かぶそばかす顔。大きな目と肉厚の唇は、母の面影をしっかりと残している。
(こいつの顔はリアちゃんにそっくりだな)
メルローは、親友のリアによく似て生まれてきたイリスの可愛らしさに顔を綻ばせ、彼女の低い鼻をちょんとつついた。
「おいイリス! 言っただろ? あたしのことは『お姉ちゃん』って呼べって! 百歳まではお姉ちゃんで通る!」
「似たようなことをオリヴァーのおじさんも言ってたよ。ねえ、百超えた後はどう呼べばいいの?」
「百超えた後も、もちろんお姉ちゃんって呼べよ!」
「ふうん」
イリスはいい加減な返事をした後、瞳を輝かせながらメルローの腕をくいくいと引っ張った。
「ねえ、メルローのお姉ちゃん! 今日はどこに行く? 森? 湖? 山? それとも最初からお墓に行っちゃう? 骨とか干物がありそうなところならどこでもいいよ!」
「そうだなあ」
メルローは刈り上げられた己の頭を掻いた後、にやりと笑ってイリスの頭を撫でた。
「よおし……今日はあたしと王都に行こうぜ! とっておきの干物を見せてやるよ!」
「王都!? とっておき!? もっ、もしかして……!」
きらきらとした紫色の目が向けられる。
メルローはイリスの視線を気持ちよく浴びた後、胸元から二枚の入場券を取り出した。
「百体のミイラがずらり……。エリテバラント国立博物館、大ミイラ展ペアチケットだ」
「いっ……いやったあああああああ!! 本当に? 本当に博物館に行けるの!? 嬉しいいいいい! お姉ちゃん大好きっ!」
イリスは歓喜に甲高い声を上げながら、また勢い良くメルローに抱きついた。イリスの腕がぎりぎりとメルローの身体を締めあげる。メルローはまた苦しげな呻き声を上げた。
「うぐっ……」
「早く行こう! 早く! ねえ早くぅ!」
「分かった、分かったってば! ほら、あたしの手をしっかり握りな! 王都に転移するよ!」
イリスはにこにことしながらメルローの手を握った。
期待に顔を輝かせる無垢な子供の笑顔を見つめながら、メルローは転移魔法を発動させた。
イリスは変わった子供だった。
好きなものは骨とミイラ。
好きな場所は墓地。
森や湖に遊びに出かけては、動物の骨や干涸らびた何かの死骸を持ち帰り、両親を大いに困らせてきた。
ダークエルフの父ゼルドリックと、ハーフドワーフの母リアの間に生まれた、五人の子の三番目。
イリスは冷静な姉と物静かな兄に全く似ることなく、明るく騒がしい子供に育った。
イリスは別に死体が好きな訳ではなかったが、骨や死骸というものは、彼女が「友」と会話する上で非常に重要なものであり、彼女は獣の頭蓋骨を部屋中に飾ったり、何かの骨片を好んで耳からぶら下げた。
骨好きのイリスとなった理由は、彼女の幼少期の経験が元となっている。
物心がつく頃、イリスはふと何かの「声」が聞こえることに気がついた。
自警団の事務所で遊んでいたイリスは、変わった声を聞いてきょろきょろと辺りを見渡した。
(……なんだろう?)
何か獣が鳴くような声がする。
イリスが声の聞こえる方に顔を向けると、そこには立派な熊や鹿の剥製があった。
熊の剥製から、威嚇するような怖ろしい唸り声がする。だがイリスはその唸り声を怖いと思うことなく、動かぬ剥製に近づき、首を傾げた。
(この子が鳴いているの?)
イリスは硝子のケースにぴったりと額をくっつけ、長時間、熊や鹿の剥製をじっと観察し続けた。
熊はイリスに向けて唸り声を上げ続けていたが、何もせず自分を見つめるだけのイリスに飽きたのか、やがて唸り声を出すのをやめた。熊の野太い声や鹿の鳴き声に耳を傾けながら、イリスはにこにこと笑った。
(ふふっ、うごかないけど、この子たちはまだ生きてるんだ! ふしぎだなあ)
声は自分以外の者には聞こえていないようだった。
イリスは不思議に思いつつ、夕暮れ時に迎えに来た母に連れられながら、剥製たちに手を振った。
またイリスは、村長が亡くなって葬儀に参加した際、何やら騒がしい声が辺りから聞こえることに気がついた。
村の端の方にある墓地。整然と並ぶ墓石のいくつかから声が聞こえる。
――おっ、アルの野郎とうとうおっ死んじまったか! こっちに魂が来たら盛大に祝ってやらねえとな!
――うふふ。八十までは生きるという予想が外れてしまったわね。でもアルが来るなら、こっちの世界はもっと楽しくなるわ。
――立派に村長を務めたんだ。こっちに来たら労ってやろう。
イリスは墓石にそっと近づき、風雨に削られた石の前で「声」に話しかけた。
「ねえ、どうして石の下から声が聞こえるの? あなたたちは一体どこにいるの? こっちって何? あなたたち、村長さんのことを知っているの?」
イリスの問いに「声」はぴたりと止んだ。
「村長さんはね、皺くちゃで腰が曲がってたけど、とっても優しいお爺ちゃんだったんだよ! 村長さんはあなたたちのところに遊びに行ったの? ねえ、またこっちに戻ってくる? それともそっちに行ったまま?」
そして暫しの沈黙の後、困惑の混じる男の声が聞こえた。
――お……おい。もしかして、俺らの声が聞こえるのか?
イリスがこくりと頷くと、それから声は聞こえなくなった。どうやらイリスに話を聞かせないように口を閉じているようだった。
(ちぇ、つまんないの。私を仲間外れにしなくてもいいのに!)
ぶつぶつと独り言を言ってどうしたんだと、ゼルドリックがイリスの元に歩いてきた。
イリスがお友達と話していたのと父に伝えると、ゼルドリックは変な顔をし、名残惜しそうに墓石を見つめるイリスを抱え上げた。
それから少しして、イリスはどうやら自分が死者の声を聞くことができるのだと気がついた。
墓石の下で眠っている遺体、あるいは森や山に転がっている獣の骨。
あの世とこの世を繋ぐもののように、遺体や骨の近くにいると死者の声がイリスに聞こえてくることがあった。
イリスは持って生まれた自分の力を、親や兄弟姉妹に話さなかった。「友」との会話について小言を言われたくなかったし、秘密の会話を誰からも邪魔されたくなかった。
(私は特別よ、私だけが死んだ人や動物の声を聞くことができるの!)
イリスは積極的に声を出す死者を探し回り、そして骨や墓石を撫で回しながら、しつこく死者に話しかけ続けた。
全ての死がイリスに応えてくれる訳ではなかったが、それでもいくつかの骨や墓石の下に眠る遺体は、好奇心旺盛なイリスと話をしてくれた。
イリスは頻繁に墓地に遊びに行き、普通であれば話すことが叶わないであろう、過去に生きた人々の話に耳を傾けた。
生まれ育った地であるはずれの村の成り立ちを、詳しく聞かせてくれるかつての村長たち。旅をした異国の話をしてくれる商人。かつての流行り病の怖ろしさを言い聞かせる村人。
それぞれの話が、イリスにとっては堪らなく刺激的だった。
イリスは姉や兄と異なり、全く本を読もうとしなかった。本を読んで見たこともない異国や過去の出来事に思いを馳せるよりも、その場所、その時を経験した「友」が自分に詳しい話を聞かせてくれる。イリスにとっては死者との会話の方が、遥かに素晴らしく、楽しく感じられた。
ゼルドリックとリアは、イリスに随分と手を焼かされた。
イリスは他の子が好むような遊びに全く興味を示すことなく、ひとり墓地に行っては墓石の前で独り言を言ったり、山や森に転がっている立派な獣の頭蓋骨をいくつもいくつも拾ってくる。
一体この娘は誰に似たのだろうかと、ゼルドリックは首を傾げた。
イリスの部屋は骨だらけだった。彼女の部屋の扉を開けると、骨片で出来たカーテンがじゃらじゃらと鳴り、壁や棚にぎっしりと飾られた獣の頭蓋骨が目に飛び込んでくる。怖ろしさすら感じさせるイリスの部屋に、リアは頭を抱え、まだ幼い妹のヴィオラや末っ子のセージは泣き叫んだ。
両親や兄弟姉妹から呆れられても、イリスは決して趣味の骨集めをやめることはなかった。放っておくと骨のコレクションは増え続ける一方だったので、リアは口を酸っぱくしながらそれ以上増やすのはやめなさいとイリスを叱った。
イリスの丸くふわふわとした紫色の髪の上にはいつも獣の頭蓋骨があって、彼女はお気に入りの骨を、まるで帽子のように被ってそこらを歩き回った。
ゼルドリックは必死に止めさせようとしたが、屋敷に顔を出したメルローがイリスを見て「まあいいんじゃね」と適当な返事をした際、イリスはメルローを友だと見做した。
それからイリスは何かとメルローの後をついて回った。イリスは両親や兄弟姉妹から何か小言を言われても全く気にしない性格だったが、それでも自分の在り方に口を出さないさっぱりとしたメルローの存在が嬉しかった。
メルローはイリスから「死んだものたちの声が聞こえる」と打ち明けられた際、珍しい能力もあるものだと思った。メルローにとって、自分を慕ってくる親友似の子供はとても可愛い存在であったので、休日の際は必ずイリスのもとに顔を出して、共に骨集めをしたり、多くの剥製が展示されている場所に行ったりした。
「ねえねえメルローのお姉ちゃん! 博物館にはミイラがたくさん展示されているんでしょう? お友達と話すのが楽しみだなあ! 一体どんな話を聞かせてくれるんだろう?」
王都の華やかな大通り。
イリスはメルローに手を引かれながら弾んだ声を出した。
「もしかしたら今までに見つかったことのねえ、いにしえのお宝の在り処とか話してくれるかもしれねえぞ? 数百年どころか、数千年前のエルフの王様も展示されてるみてーだからな」
「ほっ、本当!? 数千年前!? とっても楽しみ! もしお宝の在り処が聞けたなら一緒に宝探しに行こうね! それで私とメルローのお姉ちゃんと私の家族できっちり三等分するの! 私たちは大金持ちだよ!」
イリスはきゃあきゃあと楽しそうにはしゃぎながら、メルローと共に美しい大通りの景色を楽しんだ。
「ほらイリス! もうすぐ着くぜ。迷子になったら大変だから、あたしから離れんなよ!」
「わっ、わああああ……! すごいよメルローのお姉ちゃん! 王都にある博物館ってあんなに大きいんだね!」
イリスは前方に見える大きな建物を見て感嘆の声を上げた。美しい白壁の博物館は、陽光を受けてきらきらと輝いている。イリスは紫色の目を輝かせ、まるでお城みたいだと呟いた。
「いいか、イリス? 博物館ってのは静かに展示物を見るところなんだ。干物と会話するのはいいけどよ、こっそりと喋るようにな。あんまり大きな声を出すなよ!」
「分かったよ、お姉ちゃん!」
イリスは元気よく返事をした後、メルローの腕をぐいぐいと引っ張りながら博物館へ駆けていった。
薄暗い博物館の中で、イリスはうっとりと一体一体のミイラを見つめながら、自分と会話してくれそうな展示物を探そうとした。
(あっ、向こうの方から何か聞こえる!)
イリスは人混みを掻き分け、特別大きな硝子ケースに入れられたミイラの前に立った。
目の前にあるエルフのミイラは金の椅子に座り、身体中にごてごてとした装飾を着けている。イリスは干涸らびた顔から足の先まで、じっくりと観察をした。
(うわあ、けばけばしいミイラだなあ。金の輪っかをいっぱい着けてるし、爪を変な色に塗ってる。メルローのお姉ちゃん並に派手だ)
ミイラは落ち窪んだ目を前に向けていた。その顔はすっかり干涸らびていたが、寄せられた眉間と引き結ばれた口が、かつて高慢で気難しそうな表情を浮かべていたことをはっきりと示しているようだった。
展示物の前には、彼がいにしえの時代、王の座にあったことを示すプレートが付けられている。イリスは目を輝かせた。
(すごいすごい! 七千年前のエルフの王様かあ……! 病気で死んでいなければ、今も生きていたかもしれないんだね!)
イリスはミイラの乾いた長い耳をじっと見つめ、そして小声で話しかけた。
「ねえ、王様。私と話そうよ! 私はね、イリスっていうの」
――xxx、xxxxx。
「え? なあに? もう一度言って!」
―― xxx! xxxxxx……。
「もう! 何言ってるのか分からないよ! ねえ、私の言ってることは分かる!?」
―― xxx、xxxx!! xxxxxxxx!
干涸らびたエルフの王から紡がれる言葉を、イリスは全く理解することが出来なかった。
イリスは聞いたこともない言葉たちに首を傾げながら、何とか意思の疎通を図ろうとした。しかし王は訳の分からない言葉で怒鳴った後、声を出さなくなってしまった。
「……何よ、王様のばか!」
イリスは干涸らびたエルフを睨み付け、他のミイラの元に足を運んだ。
イリスはひたすら声の聞こえるミイラに話しかけ続けたが、ミイラたちから返ってくるのはいずれも訳の分からない言葉だった。
夕暮れ時。
メルローはぷっくりと頬を膨らませるイリスの眉間をつついた後、屋台で買った綿あめを彼女に差し出した。
「おい、イリス! いい加減機嫌直せって」
「だって……だってお姉ちゃん! ミイラたちは意地悪なのよ! 私が一生懸命話してるのに、まともに会話してくれなかったの! 訳の分からないことばっかり私に言って!」
綿あめを勢い良く口に運びながら、イリスは甲高い声でメルローに訴えた。
「訳の分からねえこと?」
「んぐっ……そうよ! 話しかけたら声は返してくれるけど、何を言ってるのか全然分からないの! きっと私を馬鹿にしてるんだわ! うぅ……お宝の在り処を聞き出したかったのにぃ……!」
メルローは少し考えた後、イリスの頭をぽんぽんと叩いた。
「あー……。ミイラどもは別にイリスを馬鹿にした訳じゃねえと思うぜ? 高慢ちきだったっていうエルフの王様だけは分からねえけどよ」
「へ?」
「あたしはあんたみたいに死人どもと話したことがねえから、ぱっと分からなかったけどさ。ミイラは何百年、何千年前に生きてた奴らだろ? 今生きてるあたしたちと使う言葉が違うんだ。そうだなあ、遠い昔に生きてたエルフの王様なんかは、古代妖精語を使ってたんじゃねえか?」
「あ……そっか」
イリスは納得したように俯いた。
「じゃあ、あの王様と話すには、私が古代妖精語を身に着けなくちゃいけないの……?」
「うーん、古代妖精語はとっくに失われた言語だ。まず言語研究から始めなくちゃいけねえ」
「……そんなぁ」
「おい、そんな落ち込むなって! まあエルフの王様と話せなくてもさ、白波の国とか、崖の国の奴らとは話せるんじゃねえか? あんたが異国の言葉を勉強して、またミイラどもに話しかけてみればいいんだ。古代妖精語だって、イリスがこの先一生懸命研究すれば、いつの日か復元できるかもしれねえぜ?」
「そっかあ……。メルローのお姉ちゃん、私すっごく勉強が苦手だけど、明日からリリーのお姉ちゃんを見習って本を読んでみるよ!」
「おう。応援してるぜ」
メルローは微笑みながら、イリスの頭をぽんぽんと叩いた。
そしてイリスは、次の日から語学の本を読み始めた。
本を数頁読むだけで頭が痛くなってしまったが、いつの日かミイラたちから古の時代の生活を聞き出すことを夢見て、イリスはのんびりと学習を進めた。
――――――――――
イリスは語学を学ぶうちに、異国の地に強く惹かれるようになった。
本に載っている人々の生活の様子や、自分が住む屋敷のあちこちに貼られた写真。
赤や青の色鮮やかな屋根、変わった服を纏う漁師、巨大な時計台、大海原、聳え立つ峰々。
イリスは異国の様子を鮮やかに映し出すそれらに魅了され、いつか自分もその地を旅してみたいと望むようになった。
この屋敷の壁に貼られた見事な写真は誰が撮ったのかと母に尋ねれば、リアは懐かしそうに目を細め、自分の弟の話をイリスにした。弟は外交官の護衛として諸国を巡っていて、数ヶ月に一度手紙と共に写真を届けてくれるのだと。
マルティン=ベアクロー。
心優しくも、銃の扱いに秀でた立派な男。血は繋がらないが、本当の家族のように過ごしてきた男。
リアは一枚の写真をイリスに見せた。写真には背の高いエルフの男と、ややぽっちゃりとした、ドワーフのような長い髭を持つ男が映っている。
リアは髭の男を指差しながら、この人がマルティンよとイリスに微笑んだ。
「へえ、この男の人が綺麗な写真をいっぱい撮ったんだね! すごいなあ! 私も叔父さんみたいに色々な国を旅してみたいよ! あ、でも……緑の国と関係が良くない国もあるでしょう? 叔父さんとこの外交官の人は大丈夫なの?」
イリスの問いに、リアは静かに目を瞑った。
「そうね。色々な国に行く上で……危険な目にも遭うと聞くわ。どうか、無事でいてくれたらいいのだけどね」
もうずっとマルティンに会っていないのだと、リアは唇を震わせて言った。
(お母さん、寂しそう。叔父さんに会いたいんだな……。私もいつか、叔父さんと会って話をしてみたいなあ)
マルティンへの心配が滲んだ母の寂しげな顔は、イリスの中にくっきりと刻まれた。
――――――――――
イリスは成人を迎えてから、妹のヴィオラ、弟のセージと共に王都へと向かった。
イリスとセージは語学を、ヴィオラは植物学を王都の大学で修めようとした。いつか何千年も前に生きたエルフの王と会話することを夢見て、イリスは王都の大学で古代妖精語に関する研究を進めた。
親切にも父の友人であるオリヴァーが部屋を貸してくれるということで、彼らはオリヴァーの広い家に住みながら、ひたすら学問に打ち込む生活を送った。
オリヴァーは真面目で面倒見の良い男だが、家事の腕が壊滅的だった。料理や掃除が全く出来ない男だったので、三人は家賃代わりにオリヴァーに料理を作ったり、彼の散らかった部屋を片付けたりした。
ある日、オリヴァーは日々の礼にとイリスを王都の博物館に連れて行った。
その時博物館ではまた大規模なミイラ展が開かれていて、イリスは目を輝かせながらオリヴァーの腰に抱きついた。
「うわぁぁぁ……。博物館に行くのなんて子供の頃以来だよ! 楽しみだなあ! どうもありがとう、オリヴァーのおじさん!」
「こら貴様ァ! 私のことはお兄さんと呼べと言っただろうに!」
「でもオリヴァーのおじさんは百過ぎてるじゃない」
「ええい、五百まではお兄さんで通るのだ!」
オリヴァーは若草色のおかっぱ頭を振り乱しながら大声を出した。
「ふうん……。ねえ、ところでお兄さんは中に入らないの?」
「私はいい! 私はミイラとか骨とか、そういうものがとにかく嫌いなのだ! 怖ろしくて堪らん!」
オリヴァーは肩を震わせながら、一人で入ってこいとイリスに言った。
イリスはかつてメルローと共にこの博物館を訪れたことを思い出しながら、薄暗い館内に足を踏み入れた。
あちこちから聞こえてくるミイラの声。
子供の頃はさっぱり分からなかったそれらが、確かな言葉となってイリスの耳に飛び込んできた。
(……理解できる。古代妖精語はまだ分からないけど、それでも……白波の国や崖の国の言葉は分かる)
今なら、子供の頃に話すことが叶わなかったいにしえの人々と話せるだろうか?
イリスは期待に目を潤ませ、特に大きな声を放つミイラの一体に近づいた。
そのミイラはオークだった。
口から突き出た牙が、博物館の薄暗い光を受けて淡く光っている。
かつて白波の国の軍人だったというオーク。彼は当時争っていた緑の国に捕らえられ、そして処刑された。
オークの太い首には斬首の痕がくっきりとついている。
イリスは痛ましさに眉を下げ、そして小声でオークに話しかけた。
「ねえ、オークさん。私の言ってることが分かる?」
――ん……? おい姉ちゃん、もしかして俺に話しかけてるのか?
「そうよ、首を斬られたオークさん。ああ、私の言葉が伝わっているみたいね……! 良かったわ」
――へええ。こいつは驚いた。まさか死んじまった俺と話すことのできる奴がいるとはね……。
イリスは干涸らびた友人に向けて、にっこりと笑った。
「オークさん、あなたも可哀想よね。斬られた首をまた繋げられて、挙げ句見世物にするためにミイラにされたんでしょ? 昔のエルフって本当に野蛮なことをするわよね」
――ああ、本当にな! 全く、エルフってのはろくなことをしやがらねえ!
「ねえ、オークさん。良ければあなたが生きていた頃の話を聞かせてくれない? 私ね、あなたのような人と話すために一生懸命外国の言葉を学んできたのよ!」
にこにこと笑うイリスを見て、オークは機嫌良さそうに自分が生きていた頃の話をし始めた。
およそ二百五十年前、白波の国の誇り高き軍人であったという彼は、手に汗握る海賊との戦いや、故郷である白波の国の美しさを朗々と語った。
――白波の国……俺の愛する故郷。青く澄んだ海に燦々と降り注ぐ陽の光。白い砂浜、そして美味い海の幸。街中には多くのレモンの樹が植わった、とても美しい国なんだ。
――俺の国はずっと海賊に苦しめられてきてな。俺が生まれた海沿いの村も、海賊にめちゃくちゃにされちまった。……ちくしょう。あの海賊たちを一匹残らず葬ってやるまで、絶対に死ねないと思ってたのよ……。
オークの言葉に震えが混じる。イリスは目を閉じ思考した。
(白波の国との関係は良くない。今も緑の国との国交は途絶えたまま。情報はあまり入ってこないけど、未だに海賊に苦しめられていると聞くわ。このオークさんも無念でしょうね……)
オークの堂々とした声で紡がれた異国の景色。
それは、イリスの心に色鮮やかな憧れを残した。
待ちかねたオリヴァーが呼びに来るまで、イリスはひたすら干涸らびた友人と会話をした。
――――――――――
ハーフドワーフの母、リアが亡くなってから一ヶ月。
イリスは故郷の村に滞在し、リアの墓石を撫で回しながら彼女に語りかける生活を送っていた。
「ねえお母さん。そっちでの生活はどう? ……ねえ、なんで? なんでいつまでも返事してくれないの? 私を無視してるの? 私が悪い子だったから返事をしてくれないの……?」
リアが埋葬された場所からは何の声も聞こえない。
イリスは墓石をひと睨みした後、家の中からスコップを持ち出しリアの墓の前に立った。
「ここから掘り起こしたら、お母さんは返事をしてくれるかな?」
イリスが土にスコップを突き刺したその時、転移してきたリリーがイリスの頭を思い切り叩いた。
「こら! 馬鹿イリス!」
「いっ!? いったぁい!! 何するのよお姉ちゃん!」
「何するのよはこっちの台詞だ、馬鹿イリス! 母さんを掘り起こそうとするな! 全く、お前は思いもよらない行動に出るんだから!」
リリーは啜り泣くイリスからスコップを取り上げ、大きな溜息を吐いた。
「はぁ……。おい、言っただろう? 母さんはそのうちこの世に戻ってくる気がするって」
「……うん」
イリスは唇を噛み締めながら、ゆっくりと頷いた。姉の勘がよく当たることはイリスも知っていた。
「イリス。母さんが戻ってきた時に立派な姿を見せられるように、お前はしっかりとやるべきことをやりなさい。大学で古代妖精語の研究をしているんだろ? いたずらばかりしていたお前が著名な言語学者になったら、母さんはとても喜ぶと思うよ」
「…………うん」
リリーは妹の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、もう馬鹿なことはするなよと声を掛けた。
(やるべきことをやりなさい、か。……そうだよね)
(いつお母さんが戻ってきてもいいように、私も姉さんみたいに立派にならなくちゃ……。小さい頃、お母さんにはたくさん迷惑かけちゃったし)
とうの昔に失われた言葉を復元することを夢見て。
母に立派な姿を見せることを目標として。
(エルフの王様からいつかお宝の在り処を聞き出せるように、これからも頑張らないと)
それからイリスは、各地を旅しながら古代妖精語に関する手がかりを探し続けた。複数の言語を自由に使いこなす秀才、また古代妖精語研究の権威として、イリスの名は各地の研究機関で知られるようになった。
――――――――――
長期休暇を取ったイリスは、ずっと憧れていた白波の国を訪れた。
オークから聞いていた通り、白波の国はとても美しい国だった。青く澄んだ海、燦々と降り注ぐ陽の光、白い砂浜、街中に植わった多くのレモンの樹。イリスは異国の空気を楽しむように、水平線を眺めながら深く息を吸った。
かつて緊張状態にあった緑の国と白波の国は、一人の外交官による熱心な努力によって和平の絆を結んだ。そしてその影には、叔父であるマルティン=ベアクローの存在があったのだとイリスは聞いている。
国交が回復してから数十年。両国に横たわる雰囲気はすっかり友好的なものとなっていた。
明るく華やかな地に住む人々の性格もまた明るく、緑の国からやってきたイリスは温かい歓迎を受けた。長きに渡って白波の国を苦しめ続けていた海賊の脅威も今はない。
干涸らびたオークの友人はこの平和な光景を見たら何と思うだろうかと、イリスは海沿いの道を歩きながら考えた。
イリスは白波の国でやりたいことがあった。
幼い頃に刻みつけられた寂しげな母の顔。
その記憶が、ある場所にイリスを向かわせた。
「……あった」
イリスは前方にある銅像を見て微笑んだ。
白波の国の英雄、マルティン=ベアクローの墓。
異国出身でありながらも、軍や漁師たちと共に海賊と戦った彼は、この地に骨を埋めた。
マルティンの銅像は大理石で出来た四角い墓石に腰掛け、美しい海を見つめている。銅像は長銃を抱えていて、その銃身にはマルティンを称える言葉が刻まれていた。全く髪のない彼の頭や印象的な長い髭は人々に何度も撫で回されてきたようで、そこだけやたらにぴかぴかと光っていた。
銅像の目は優しく細められている。
視線の先にある青く透き通る海を、白い砂浜を、沈む太陽を慈しむように。
会ったことがない自分の叔父。そして故郷の村を出て以来、一度も自分の母と会うことがなかった叔父。
イリスは寂しげな母の横顔を思い出し、目を潤ませた。
「……叔父さん」
眠る英雄に話しかけるように、イリスは銅像が座る大理石にそっと触れた。
「こんにちは、叔父さん。私はリア=リローランの娘、イリスだよ」
「私ね、叔父さんが送ってくれた写真に憧れて、色々な国を旅してみたいって思うようになったんだ。叔父さんが撮った写真は綺麗だね。叔父さんは……あんなに素晴らしい景色を見てきたんだね」
「私、白波の国にずっと来てみたいと思っていたの。この国との関係が良くなって本当に嬉しいよ。アンジェロさんと叔父さんが頑張ってくれたお陰だね」
「ねえ叔父さん、アンジェロさんの親友だったんだってね。私ね、アンジェロさんと王都の大学で話したことがあるんだよ。命は廻る、叔父さんが生まれ変わったら、また一緒に旅をするんだって……そう言ってたよ」
声は返ってこない。イリスは震えの混じる声で話しかけ続けた。
「……っ、叔父さん。お母さんね、叔父さんに会えなくてとても寂しそうだったよ。手紙でのやり取りだけじゃなくて、直接会いたかったんだと思う。ねえ、そっちの世界でお母さんと会えた?」
「私は死んだ人と話すことができるの。死んだ動物の声を聞けるの。……でもね、お母さんはずっと返事をしてくれないの。だからもしお母さんとそっちで会えたなら、様子を聞かせてほしいなって……」
声は返ってこない。全ての死が、自分に応えてくれる訳ではない。
イリスはだらりと腕を下ろした。
(……叔父さんと話してみたかったな)
イリスは涙を拭い、とぼとぼと宿場へ向かった。
その夜、イリスは夢を見た。
心地よい波の音が聞こえる。イリスは浜辺を歩きながら、夜の静かな海を見つめた。空には銀河や星雲、そしてオーロラが見え、天から降り注ぐ光が水面を明るく照らしている。
海が色鮮やかに輝く。イリスは現実離れした美しい光景に、ほうと息を吐いた。
(ここはどこだろう? 何だか……とってもいい香りがする)
辺りはほのかな薔薇の香気に満ちている。イリスはきょろきょろと辺りを見渡した。
すると浜辺の向こうから、一人の男がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「やあ、イリス」
太く、温かみのある声だった。イリスはその声に親愛の情が込められているのを感じ取った。
「君の顔はリアとよく似ているね。大きな目から可愛らしい鼻までそっくりだ」
イリスは目を潤ませ、前から歩いてくる老父をじっと見つめた。
「もしかして……」
ぽっちゃりとした体型の男は、目から雫を滴らせながらイリスに微笑んだ。彼の長い髭にぽたぽたと涙が落ちていく。片腕に抱えた長銃、ドワーフのような長い髭、月明かりを受けて滑らかに光る頭。イリスは確信を持って男へと駆け寄った。
「叔父さん!」
イリスの叔父――マルティンは穏やかに笑い、抱きついてきた姪をしっかりと抱きしめ返した。
垂れ下がった太い眉の奥から光る瞳が覗く。マルティンは感極まったように肩を震わせ、イリスのふわふわとした紫色の髪を何度も何度も撫でた。
「叔父さん……会いたかったよ、叔父さん!」
「僕もだよ、イリス。君に会えて本当に嬉しいよ……。イリス、君の髪はとても綺麗な紫色をしているね」
「ふふっ、本当?」
「ああ。赤と青を丁度良く混ぜたような髪の色……君の両親のことを思い出すよ」
マルティンはにっこりと笑った。
「ねえ叔父さん! 何で昼間は返事をしてくれなかったの? 私とっても寂しかったんだよ!」
「ああ、ごめんごめん。君が話しかけてくれたのは気がついてたんだけど、その時は取り込み中だったんだ。なあイリス。改めて、僕に君の話を聞かせてくれるかい?」
マルティンの皺んだ手を握り、イリスは笑顔で頷いた。
それからイリスは白い砂浜に座りながら、マルティンに色々な話を聞かせた。
自分が天から与えられた能力のこと。父と母のこと。兄弟姉妹のこと。自分と家族のことを見守ってくれるエルフたちのこと。
マルティンは優しい相槌を打ち、溢れる涙を拭いながら姪の話に耳を傾けた。
「叔父さん。私ね、お母さんのお墓に向かって一生懸命話しかけたのよ。でもずっと返事をしてくれないの。叔父さんは母さんと会えた?」
「いいや」
首をゆっくりと横に振るマルティンに、イリスは落胆の声を上げた。
「……そんなぁ。あのね、私は死んだ人と話せるって言ったでしょう? でも私に返事をしてくれない人もいるのよ。そういう人は、どんなに骨を撫でても絶対に声を出してくれないの。……どうしてだろう? お母さんもそうなのかな? 私はずっとお母さんと話せないのかな……?」
鼻を啜るイリスの頭を撫でながら、マルティンは静かに語り始めた。
「イリス。ここは俗に言う『天国』だ。君が話すことが出来るのは、多分第一天にいる魂だけだ」
「……第……いっ、てん?」
「ああそうだ。天国にはいくつかの階層がある。生前の心残り、執着、欲望、罪の重さ。それらが大きく強いほど下の階層で過ごす時間が長くなる。自分の欲や罪を洗い流せた魂から、少しずつ上の階層へと昇っていくんだ。そしてやがては神の御許に行き、永遠の安息を手に入れる……」
イリスは涙を流しながら、天に輝くオーロラを見つめた。
「それなら……それならお母さんは、もう上に行ってしまったのかな?」
「いいや。リアはここには来ていないよ」
「え? ……どういうこと?」
マルティンは困惑するイリスに、左手の小指を見せた。
彼の指に、白と橙が入り混じったような色の糸が巻き付いている。
「僕とリアに血の繋がりはないけど、僕たちは確かに家族だった。君が母さんを愛するように、僕もリアを愛している。僕たちは確かな絆で、今も繋がっているんだ……」
マルティンから伸びる糸は色鮮やかな海へと続いている。彼は目を細めて輝く海を見た。
「リアは生きているよ。イリス、君と同じ世界にいる。そうだなあ……きっと君の父さんが酷く寂しがるから、まだここには来れなかったんだろうね」
目を見開くイリスに、マルティンは温かく優しい声を掛けた。
「イリス。リアはそのうち君の前に姿を現すよ。だから笑って過ごしなさい。君の笑顔は母さんに似て、とても可愛いんだから」
イリスは涙を流しながらも、マルティンの言葉にゆっくりと頷いた。
「……僕は本当に嬉しいよ。まさか、君と……リアの子と話すことができるとは思わなかった。なあイリス、君は辛い目に遭わなかったかい? まだハーフエルフに対する目は厳しいものがあるだろう?」
眉を下げて尋ねるマルティンに、イリスは涙を拭った後笑顔を向けた。
「そうだね、もちろん辛いこともあるよ。でもね……お父さんとお母さんは、私たちを深く深く愛してくれた。だから私はハーフエルフの自分が嫌だって思ったことはないし、ふたりの子供に生まれて良かったと思ってる」
イリスはマルティンの手をしっかりと握った。
「私ね、アンジェロさんと話したことがあるんだよ。叔父さんは叔父さんなりに私たちを守ろうとしてくれたんだってね」
――全ての者、特に混ざり血がもう不当な差別を受けることがないように、他国の先進的価値観を自国に普及させる。私の親友、マルティンはこの考えに共感してくれたのだ。彼は言ったよ、『僕は僕なりのやり方でリアの家族を守り、緑の国に平和の盤石を築く』と。だから私の護衛を続けるのだと……。
「アンジェロさんからその話を聞いた時、とても立派で優しい人だと思った。だから、今まで叔父さんとは一度も会えなかったけど……私は叔父さんのことが大好きだったんだ。ありがとう、叔父さん」
「私たちは前を向いて生きているよ。辛い目に遭っても……お父さんとお母さんが、そして天から優しい叔父さんが見守ってくれていると考えれば、これからも頑張っていける」
「……そうか」
マルティンは泣きそうな声でそう溢した後、俯き大きく肩を震わせた。
「そうかっ……」
嗚咽するマルティンを抱きしめ、イリスも静かに涙を流した。
ふと、天から一条の光が射す。
綺羅びやかな外見のエルフの男が、ふたりの傍に音もなく立っていた。
「ああ、イリス。迎えが来たようだ。……もうすぐ朝が訪れるね。そろそろ君を帰してやらないと」
イリスはマルティンに手を引かれそっと立ち上がった。そして、目の前に現れたエルフの男をじっと見つめた。
身体中に着けられた金の輪の装飾。丁寧に塗られた爪紅。
寄せられた眉間と引き結ばれた口、高慢で気難しそうな表情。
(あれ……どこかで……?)
イリスは子供の頃目にした、干涸らびたエルフの王のことを思い出した。イリスがそっと古代妖精語で彼に挨拶をすると、男は気難しそうな表情を崩し明るく華やかな笑顔を浮かべた。
「ははっ、すごいやイリス! 彼が使っていた言葉を話せるんだね?」
「え、ええ……。叔父さん、このエルフの方は?」
「護衛対象さ。僕は、こっちでも似たようなことをやってるんでね」
マルティンは腕に抱えた長銃を見せた。
「命は廻ると聞く。天の向こうまでエルフの王様を護衛して、そして僕自身もすっかり魂の汚れを洗い流したら……また君のいる世界へ行こうと思うよ。アンジェロとリアに伝えておいてくれ、また会おうって」
マルティンは優しくも力強い笑みをイリスに向けた。
「さあイリス、お別れの時間だ。僕は天から君たちのことを見守っているよ」
マルティンが手を振る。
そして、イリスの視界は眩い光に包まれた。
――――――――――
諸国を巡るイリスのもとに、ある日一通の手紙が届けられた。
赤い小鳥の使い魔から届けられたその手紙に目を通し、イリスは朗らかに笑った。
手紙での挨拶になった謝罪。異国の地を旅する娘への心配と励ましの言葉。
エルフとして生まれ変わったこと。今は中央政府の役人として働いていること。
もうすぐ夫に会いに行くこと。近いうちにまた家族全員で集まろうということ。
そのような内容が丸みのある文字で記されている。
癖のある母の字に、イリスはくすりと笑った。
「叔父さんの言った通りだったな。母さんは私のいる世界で生きていたんだね」
イリスは青空を見上げ、優しい老父の姿を思い出した。
「さあてと、それじゃあ緑の国に戻ろうかな!」
(やることがたくさんあるわ。アンジェロさんに挨拶をして、博物館にいるオークさんにもう海賊はいないよって伝えて、エルフの王様から聞きそびれた宝の在り処を聞き出して、それから……お母さんとたくさん話をするんだ。今まで話せなかった分を埋めるように、たくさん、たくさん……)
マルティンの「また会おう」という言葉を伝えたら母はどんな顔をするのだろうかと、そしてその顔を見るのが楽しみだと、イリスは微笑みながら緑の国へと向かった。
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