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第五話 悪い人だったらどうするの?
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昨日と同じように制服姿のまま、学校近くの停留所から一ノ瀬の家の方向へ向かうバスに乗った。
僕の他に乗客はなかったので、ずんずんと奥に進み、最後尾から二列目の、窓際の席に座った。
さっき新川に言われたことが頭から離れなかった。
僕にしかできないこと。そんなもの、ないような気がした。
じゃあ、それならなんで、僕は今日も一ノ瀬のところに向かってるんだろう。
導き出される答えは簡単だった。
僕はただ、一ノ瀬と会いたくて仕方がなかったのだ。
スマホを開くと、リアスカからの通知がきていた。嘘だろ? 二日続けてこの時間に? なんなら今日の方が早いくらいだ。
急いで配信画面を開くと、既に常連のリスナーでコメントが埋められていた。完全に負けた。三虎の件といい、今日は負けの星が輝いている日らしい。
まだ間に合わなかったよりはよしとしよう。沈みそうな心をなんとか補強して、コメントを打つ。
『遅れてごめん! 今日も早いんだね、ちょっと驚いた』
僕のコメントを見つめたノアはいつも同じ顔をする。両目を少し見開いたあと、微かに笑うのだ。こういう、繊細な表情の反映ができるのがリアスカ最大の売りだと聞いたことがあるが、実際、僕がノアの配信にここまでのめり込んでいるのは、この技術によるところが大きい。
彼女は表情を偽るのが苦手だ。だからこそ、この笑顔にだけは裏切られない。
そういう安心感に、僕は溺れている。
「世紀末さんいらっしゃい! よかった……。変な時間に開いちゃったから、世紀末さん来れないのかと思ってたんだ。ほら、いっつも最初に来てくれるでしょ?」
配信時間が多少ズレたくらい、もう全然気にしてなかった。箱舟ノアが僕というリスナーのことを考えてくれていた、その事実で胸がいっぱいだからだ。
『確かにノアちゃん、最近早いよね』
『そうそう、生活習慣変わった?』
僕のコメントに次ぐ形で、他のリスナーたちも疑問の声を投げた。
ノアは少し考えるような沈黙を挟んでから、それらの質問に返答をした。
「……ちょっとリアルの方で、夕方からすることができてね。ちゃんとその予定に集中したいから、早めにしようかなって」
思わず声を上げそうになってしまった。なんだこれ、現実か? 僕と話す予定が入ってるから、僕との会話に集中したいから配信時間を早めた?
ちょっと待ってくれ、脳の処理が追いつかない。
「あ、でもね! ちゃんと毎日、夜の定期配信はやるよ!」
フリーズする僕の思考回路を置いて、ノアの配信は円滑に進んでいった。
結局、バスが停留所に到着するまでの間、僕は一つもコメントを打てなかった。ノアの配信は僕がバスを降りるほんの少し前に終わった。
未だ放心状態のまま、僕は連絡アプリを開く。そろそろ着くというメッセージを一ノ瀬に送るためだ。
一応、一ノ瀬には今日も昨日と同じくらいの時間に行くとは伝えていた。
本来ならバスが出た頃にでも一度連絡を入れておけばよかったのだが、端的に言えばそう、緊張して送れなかった。加えて、配信での衝撃があったことも大きな原因ではあるのだけれど。
今から本人の家に行こうとしているのに、こんな調子で大丈夫なのか。
大丈夫、という返答は聞こえなかった。
『そろそろつく。あと五分くらい』
初めて送るメッセージの文面がこれか。しかし、これ以上何かを言う必要があるのかと言われたら、いや別にないが? という答えに辿り着くので、僕はもう一思いに送ってしまうことにした。
返信はすぐにきた。
『わかった、待ってるね』
にやけそうになる表情筋になんとか言うことを聞かせる。深呼吸をして、平常心、と右手に書いてから飲み込んだ。変に気が大きくなるとろくなことにならない。
そうこうしているうちに、一ノ瀬の家の前まで着いてしまった。無意識に足音を殺しながら玄関の前に立ち、インターフォンを押す。
『透坂くん?』
機械音が混じった一ノ瀬の声が、僕の名前を呼んだ。やはりこの音質では、彼女が箱舟ノアであることは判別がつかない。
「うん、おはよ」
僕はあくまで教室で朝の挨拶をするように自然に言った。一ノ瀬が外の世界と触れるのは今が初めてなのだから、妥当だろう。
『そっか。うん、おはよ』
少し笑いながら、一ノ瀬も返す。
「ちょっと早かったかな」
『ううん、待ってた。透坂くんと話すの、楽しみにしてたから』
彼女の言葉を受け、僕は思わず仰け反る。社交辞令とはわかっていても、素直に嬉しいと思う気持ちは本心だった。
「……入っていい?」
『いいよ。……でも、十秒数えてからね』
一ノ瀬がそう言ってすぐ、スピーカーが切れる音がして、次に扉の鍵が開けられた。それから、彼女が自室へと走ってもどる足音が聞こえてくる。
心の中で、できるだけゆっくりと数を数える。まるでかくれんぼの鬼になった気分だな、と思う。僕はかくれんぼどころか、集団で遊ぶこと自体、昔から好きじゃなかったけれど。
十、と念じ終わった後、静かにドアノブに手をかける。相変わらず重厚な扉は、昨日よりもいくらか軽く感じた。
相変わらず玄関に人間の気配はない。また、彼女以外の家族は不在のようだった。
「一ノ瀬さん、来たよ」
「一日ぶり、ってなんか変な感じ」
「ははっ、確かに」
あくまで推測に過ぎないけれど、一ノ瀬は一日中、いや、下手したらもう何ヶ月もこの家から出ていない。そんな彼女に、毎日会話を交わすような相手をつくるのは難しいだろう。もっともノアの配信を観ているこちらとしては、昨日よりもずっと前から、彼女とは毎日言葉を交わし合っているつもりだけれど。
「今日も一人なんだね」
「うん、毎日一人だよ。もう二週間くらい、どっちとも帰ってきてないんじゃないかな」
どっちとも、とは一ノ瀬の父親と母親のことを指しているのだろうか。
そもそも彼女に兄妹がいるのかどうかも不明だったが、少なくとも僕の記憶の中では、配信で兄弟の話題が出てきたとき、いつもノアは一人っ子だと発言していたと思う。もちろん配信で話す内容が全て真実とは限らないが、今の言葉から察するに、一ノ瀬の家族構成は両親と一ノ瀬の三人でほとんど間違いないだろう。
「食べるものはネットで頼めばいいし、誰にも何も言われないし、楽だよ。むしろ気をつかってもらってるんじゃないかな」
これだけ立派な家を建てるくらいだ。一ノ瀬の両親はそれなりに稼ぎのある職業なのだろう。けれど、この扉の向こうにいる、平然とした顔の一ノ瀬を想像すると、何か消化しきれない気持ちの悪さがあった。
正しさなんてありはしない。でも、少なくとも今の一ノ瀬が置かれている状況がそう呼ばれることには、はっきりとした違和感がある。
「確かに、少しだけ羨ましいかも」
「……透坂くんは正直だね。声のトーンに思ってることが出ちゃってるよ」
「いや、違うんだ。違うってのはその……一ノ瀬さんが本当のことを言ってないって気がして」
「正解」
一ノ瀬は微かに笑う。
「困った。透坂くんには、嘘つけないな」
輪郭が曖昧で、泣き声と混同してしまいそうな声だった。
「ねえねえ」
「何?」
「透坂くんはさ、人に見られるの、平気?」
抽象的な質問だった。
その言葉の裏を想像しながら、僕は慎重に質問を返す。
「見られるのって、その、自分が他人の目にどう映ってるか、みたいなこと?」
「うん、そうかな。この人は今こう喋ってるけど、実際はこう思ってるかもしれない、とか。他人の目に込められた気持ちが気になって仕方ない、みたいな」
これは多分、一ノ瀬自身のことなのだろうと察しがついた。
彼女が今、扉越しにしか他人と会話できない理由こそ、そういう他人の視線に対する恐怖なのかもしれない。であるならば、ここで彼女の不安が晴れるような言葉をかけることが、僕という人間に課せられた役割なのだろう。
でも、僕には気の利いたことなんてきっと言えない。さっき一ノ瀬も言っていた通りだ。言ったところで嘘だとバレてしまう。他人に偽りの自分を見せることをやめてしまった僕は、嘘がつけなくなってしまったのだ。
「……気になるよ。それで、毎日少しずつ死にたくなりながら、なんとか生きてる」
気づけば、僕はそんなことを口走っていた。
少し、空気が冷えた気がした。
後ろ向きすぎる発言だっただろうか。でも僕としては、そんなにネガティブな意味合いで言ったつもりはなかった。
「よかった」
「え?」
「透坂くんも、そう思いながら生きてるんだね」
その声から読み取れた感情は、安堵や安らぎに近いものだった。なんなら、どこか嬉しそうでもあった。
「……案外、こういうこと考えてるやつは多いと思うけど」
「そうかもしれない、というか、そうなんだろうけど。私は、透坂くんがそうだったのが嬉しいの」
一ノ瀬の言っていることの意味は、なんとなく理解できた。できたからこそ、その感情の矛先に自分がいるということが信じきれない。
だって、それじゃまるで。
「そういえば、今日の朝、ちょっとだけ外に出たの。本当に、玄関から半径二メートルくらいの範囲だったけど、やっぱり太陽って眩しいんだね」
彼女の行動力に、少し驚いた。きっかけさえあれば、一ノ瀬が学校に来れるようになるのもわりと近い未来の話なのかもしれない。そんな期待感すら覚えた。
「すごい」
「ううん、すごくないよ」
「すごいよ、本当に」
「透坂くんは私のこと、ずいぶん甘やかしてくれるんだね」
「そういうのじゃなくて、本心だ。僕は試しに外に出てみるなんてできなかっ……」
途中で口を閉じたが、もう手遅れだった。
「……もしかして、透坂くんも? 透坂くんも、引きこもってたことがあるの?」
もう呆れるしかない。僕はこんなに馬鹿だったのか。
撤回する気も起きなかった。どうせここで誤魔化せたとしても、いつか知られてしまうことだったのだと思い込むことにした。
そうしてなんとか切り替えた頭で、端的な説明文を練り上げる。
「……一年のとき、夏休みの一週間前くらいから、秋の終わり頃まで」
次に一ノ瀬が口を開くまでの数秒が、僕には何時間にも引き伸ばされて感じた。死刑執行を待つ気分、とでも言うべきだろうか。
「どうしよう」
目の前の扉が軽く小突かれるような音がした。
「私、今すぐ透坂くんに会いたい」
僕も同じ気持ちだった。本当は、今すぐこの扉を開けてやりたい。でも、僕にそんな決断力も思い切りもない。怖がっているのは、僕の方だ。
一ノ瀬にとって僕が元引きこもりだったことは、マイナスでもなんでもない。会いたいと言ってくれる彼女の声が、そのことを証明してくれている。
扉越しの一ノ瀬の嘆きは、僕にとって受け取り方がわからなくなるほど嬉しかった。けれど同時に、お互いがお互いに依存しているようなこの現状が、一ノ瀬にとってよくない傾向のようにも思えた。
一ノ瀬がもしこの部屋の外に出られたとき、そこにいるのが僕だけでいいはずがない。彼女にはもう少しだけ、広い世界が待っていてほしい。強欲で、身勝手な願いだ。
「あのさ、一ノ瀬さん」
返事はなかった。
「実は、一ノ瀬さんに会いたがってる友達がいるんだ。人に慣れるって意味で、明日連れて来てみてもいいかな」
「……透坂くんが、それがいいって思うなら」
なんだか、ほんの少しだけ冷えた言い方だった。
「ほら、僕だけと話してるのもつまんないだろうし。もし、少しでも嫌だったら二度と連れてこないよ」
「わかった」
僕の補足に対し、一ノ瀬は極めて淡白な返事を返した。
さすがの僕にもわかった。どうやら一ノ瀬は、完全に機嫌を損ねている。
人を連れてくるのはやりすぎというか、事態を急ぎすぎか。
「いや、やっぱりやめよう。僕らだってまだ二回しか話してないんだし」
「嫌だ、やめない」
一ノ瀬はきっぱりと言った。まるで子供が意地を張っているみたいだった。
「悪かったって」
「別に怒ってないよ。透坂くんが私のために考えたことを、やってみたいだけ」
芯の通った声だった。曲げる意思がないことだけははっきりと伝わった。
「……じゃあ、明日連れて来るよ。三虎かのって子なんだけど、一ノ瀬さん、知ってるかな?」
「名前、だけ。……というか、女の子なんだね」
「そっちの方が話しやすいかと思って。まあ、そこまで女子らしい女子かと言われたら悩ましいところなんだけど」
「ふうん……透坂くんはその子と仲良いんだ?」
からかいと疑問符が混じったような口調で、一ノ瀬はそう訊ねる。
どこか尋問されているような気分になって、焦りを隠しながら僕は答えた。
「いや、まあ、たまに話すくらい」
「でも、私のことを話すってことは、それなりに親密なんだよね? それとも透坂くんは、私が思ってるよりもお喋りな人、なのかな」
扉越しでもありありと感じる一ノ瀬の圧に、僕はたじろぐ。ここは波風を立てないように上手く流さなければいけないと、本能が言っていた。
「確かに、一ノ瀬のことはその子にしか言ってない。……今日、勘づかれたんだ。僕の様子が普段と違うって」
「それで、透坂くんは嘘がつけない人だからバレちゃったんだね」
「……別に悪いことをしてるわけじゃないし」
「三虎さんが悪い人だったらどうするの?」
一ノ瀬が危惧していることは、何となくわかる。引きこもりである自分と関わっていることが下手な噂になると、僕の立ち位置が危ぶまれるかもしれないから。
本当は、こんな問いかけを口に出したくなんかないはずだ。
でも、元より僕はそんなに大した立ち位置にいるわけでもない。それに、むしろ僕としては一ノ瀬のイメージダウンにならないか心配なくらいだ。
第一、三虎かのはそんな無駄なことに時間を割くような人間じゃない。
「それは、ないよ。少なくとも僕はそう思ってる。じゃなきゃ、いくら疑われても話さないよ」
言いながら、僕は先ほどの三虎とのやり取りを想起していた。
僕の他に乗客はなかったので、ずんずんと奥に進み、最後尾から二列目の、窓際の席に座った。
さっき新川に言われたことが頭から離れなかった。
僕にしかできないこと。そんなもの、ないような気がした。
じゃあ、それならなんで、僕は今日も一ノ瀬のところに向かってるんだろう。
導き出される答えは簡単だった。
僕はただ、一ノ瀬と会いたくて仕方がなかったのだ。
スマホを開くと、リアスカからの通知がきていた。嘘だろ? 二日続けてこの時間に? なんなら今日の方が早いくらいだ。
急いで配信画面を開くと、既に常連のリスナーでコメントが埋められていた。完全に負けた。三虎の件といい、今日は負けの星が輝いている日らしい。
まだ間に合わなかったよりはよしとしよう。沈みそうな心をなんとか補強して、コメントを打つ。
『遅れてごめん! 今日も早いんだね、ちょっと驚いた』
僕のコメントを見つめたノアはいつも同じ顔をする。両目を少し見開いたあと、微かに笑うのだ。こういう、繊細な表情の反映ができるのがリアスカ最大の売りだと聞いたことがあるが、実際、僕がノアの配信にここまでのめり込んでいるのは、この技術によるところが大きい。
彼女は表情を偽るのが苦手だ。だからこそ、この笑顔にだけは裏切られない。
そういう安心感に、僕は溺れている。
「世紀末さんいらっしゃい! よかった……。変な時間に開いちゃったから、世紀末さん来れないのかと思ってたんだ。ほら、いっつも最初に来てくれるでしょ?」
配信時間が多少ズレたくらい、もう全然気にしてなかった。箱舟ノアが僕というリスナーのことを考えてくれていた、その事実で胸がいっぱいだからだ。
『確かにノアちゃん、最近早いよね』
『そうそう、生活習慣変わった?』
僕のコメントに次ぐ形で、他のリスナーたちも疑問の声を投げた。
ノアは少し考えるような沈黙を挟んでから、それらの質問に返答をした。
「……ちょっとリアルの方で、夕方からすることができてね。ちゃんとその予定に集中したいから、早めにしようかなって」
思わず声を上げそうになってしまった。なんだこれ、現実か? 僕と話す予定が入ってるから、僕との会話に集中したいから配信時間を早めた?
ちょっと待ってくれ、脳の処理が追いつかない。
「あ、でもね! ちゃんと毎日、夜の定期配信はやるよ!」
フリーズする僕の思考回路を置いて、ノアの配信は円滑に進んでいった。
結局、バスが停留所に到着するまでの間、僕は一つもコメントを打てなかった。ノアの配信は僕がバスを降りるほんの少し前に終わった。
未だ放心状態のまま、僕は連絡アプリを開く。そろそろ着くというメッセージを一ノ瀬に送るためだ。
一応、一ノ瀬には今日も昨日と同じくらいの時間に行くとは伝えていた。
本来ならバスが出た頃にでも一度連絡を入れておけばよかったのだが、端的に言えばそう、緊張して送れなかった。加えて、配信での衝撃があったことも大きな原因ではあるのだけれど。
今から本人の家に行こうとしているのに、こんな調子で大丈夫なのか。
大丈夫、という返答は聞こえなかった。
『そろそろつく。あと五分くらい』
初めて送るメッセージの文面がこれか。しかし、これ以上何かを言う必要があるのかと言われたら、いや別にないが? という答えに辿り着くので、僕はもう一思いに送ってしまうことにした。
返信はすぐにきた。
『わかった、待ってるね』
にやけそうになる表情筋になんとか言うことを聞かせる。深呼吸をして、平常心、と右手に書いてから飲み込んだ。変に気が大きくなるとろくなことにならない。
そうこうしているうちに、一ノ瀬の家の前まで着いてしまった。無意識に足音を殺しながら玄関の前に立ち、インターフォンを押す。
『透坂くん?』
機械音が混じった一ノ瀬の声が、僕の名前を呼んだ。やはりこの音質では、彼女が箱舟ノアであることは判別がつかない。
「うん、おはよ」
僕はあくまで教室で朝の挨拶をするように自然に言った。一ノ瀬が外の世界と触れるのは今が初めてなのだから、妥当だろう。
『そっか。うん、おはよ』
少し笑いながら、一ノ瀬も返す。
「ちょっと早かったかな」
『ううん、待ってた。透坂くんと話すの、楽しみにしてたから』
彼女の言葉を受け、僕は思わず仰け反る。社交辞令とはわかっていても、素直に嬉しいと思う気持ちは本心だった。
「……入っていい?」
『いいよ。……でも、十秒数えてからね』
一ノ瀬がそう言ってすぐ、スピーカーが切れる音がして、次に扉の鍵が開けられた。それから、彼女が自室へと走ってもどる足音が聞こえてくる。
心の中で、できるだけゆっくりと数を数える。まるでかくれんぼの鬼になった気分だな、と思う。僕はかくれんぼどころか、集団で遊ぶこと自体、昔から好きじゃなかったけれど。
十、と念じ終わった後、静かにドアノブに手をかける。相変わらず重厚な扉は、昨日よりもいくらか軽く感じた。
相変わらず玄関に人間の気配はない。また、彼女以外の家族は不在のようだった。
「一ノ瀬さん、来たよ」
「一日ぶり、ってなんか変な感じ」
「ははっ、確かに」
あくまで推測に過ぎないけれど、一ノ瀬は一日中、いや、下手したらもう何ヶ月もこの家から出ていない。そんな彼女に、毎日会話を交わすような相手をつくるのは難しいだろう。もっともノアの配信を観ているこちらとしては、昨日よりもずっと前から、彼女とは毎日言葉を交わし合っているつもりだけれど。
「今日も一人なんだね」
「うん、毎日一人だよ。もう二週間くらい、どっちとも帰ってきてないんじゃないかな」
どっちとも、とは一ノ瀬の父親と母親のことを指しているのだろうか。
そもそも彼女に兄妹がいるのかどうかも不明だったが、少なくとも僕の記憶の中では、配信で兄弟の話題が出てきたとき、いつもノアは一人っ子だと発言していたと思う。もちろん配信で話す内容が全て真実とは限らないが、今の言葉から察するに、一ノ瀬の家族構成は両親と一ノ瀬の三人でほとんど間違いないだろう。
「食べるものはネットで頼めばいいし、誰にも何も言われないし、楽だよ。むしろ気をつかってもらってるんじゃないかな」
これだけ立派な家を建てるくらいだ。一ノ瀬の両親はそれなりに稼ぎのある職業なのだろう。けれど、この扉の向こうにいる、平然とした顔の一ノ瀬を想像すると、何か消化しきれない気持ちの悪さがあった。
正しさなんてありはしない。でも、少なくとも今の一ノ瀬が置かれている状況がそう呼ばれることには、はっきりとした違和感がある。
「確かに、少しだけ羨ましいかも」
「……透坂くんは正直だね。声のトーンに思ってることが出ちゃってるよ」
「いや、違うんだ。違うってのはその……一ノ瀬さんが本当のことを言ってないって気がして」
「正解」
一ノ瀬は微かに笑う。
「困った。透坂くんには、嘘つけないな」
輪郭が曖昧で、泣き声と混同してしまいそうな声だった。
「ねえねえ」
「何?」
「透坂くんはさ、人に見られるの、平気?」
抽象的な質問だった。
その言葉の裏を想像しながら、僕は慎重に質問を返す。
「見られるのって、その、自分が他人の目にどう映ってるか、みたいなこと?」
「うん、そうかな。この人は今こう喋ってるけど、実際はこう思ってるかもしれない、とか。他人の目に込められた気持ちが気になって仕方ない、みたいな」
これは多分、一ノ瀬自身のことなのだろうと察しがついた。
彼女が今、扉越しにしか他人と会話できない理由こそ、そういう他人の視線に対する恐怖なのかもしれない。であるならば、ここで彼女の不安が晴れるような言葉をかけることが、僕という人間に課せられた役割なのだろう。
でも、僕には気の利いたことなんてきっと言えない。さっき一ノ瀬も言っていた通りだ。言ったところで嘘だとバレてしまう。他人に偽りの自分を見せることをやめてしまった僕は、嘘がつけなくなってしまったのだ。
「……気になるよ。それで、毎日少しずつ死にたくなりながら、なんとか生きてる」
気づけば、僕はそんなことを口走っていた。
少し、空気が冷えた気がした。
後ろ向きすぎる発言だっただろうか。でも僕としては、そんなにネガティブな意味合いで言ったつもりはなかった。
「よかった」
「え?」
「透坂くんも、そう思いながら生きてるんだね」
その声から読み取れた感情は、安堵や安らぎに近いものだった。なんなら、どこか嬉しそうでもあった。
「……案外、こういうこと考えてるやつは多いと思うけど」
「そうかもしれない、というか、そうなんだろうけど。私は、透坂くんがそうだったのが嬉しいの」
一ノ瀬の言っていることの意味は、なんとなく理解できた。できたからこそ、その感情の矛先に自分がいるということが信じきれない。
だって、それじゃまるで。
「そういえば、今日の朝、ちょっとだけ外に出たの。本当に、玄関から半径二メートルくらいの範囲だったけど、やっぱり太陽って眩しいんだね」
彼女の行動力に、少し驚いた。きっかけさえあれば、一ノ瀬が学校に来れるようになるのもわりと近い未来の話なのかもしれない。そんな期待感すら覚えた。
「すごい」
「ううん、すごくないよ」
「すごいよ、本当に」
「透坂くんは私のこと、ずいぶん甘やかしてくれるんだね」
「そういうのじゃなくて、本心だ。僕は試しに外に出てみるなんてできなかっ……」
途中で口を閉じたが、もう手遅れだった。
「……もしかして、透坂くんも? 透坂くんも、引きこもってたことがあるの?」
もう呆れるしかない。僕はこんなに馬鹿だったのか。
撤回する気も起きなかった。どうせここで誤魔化せたとしても、いつか知られてしまうことだったのだと思い込むことにした。
そうしてなんとか切り替えた頭で、端的な説明文を練り上げる。
「……一年のとき、夏休みの一週間前くらいから、秋の終わり頃まで」
次に一ノ瀬が口を開くまでの数秒が、僕には何時間にも引き伸ばされて感じた。死刑執行を待つ気分、とでも言うべきだろうか。
「どうしよう」
目の前の扉が軽く小突かれるような音がした。
「私、今すぐ透坂くんに会いたい」
僕も同じ気持ちだった。本当は、今すぐこの扉を開けてやりたい。でも、僕にそんな決断力も思い切りもない。怖がっているのは、僕の方だ。
一ノ瀬にとって僕が元引きこもりだったことは、マイナスでもなんでもない。会いたいと言ってくれる彼女の声が、そのことを証明してくれている。
扉越しの一ノ瀬の嘆きは、僕にとって受け取り方がわからなくなるほど嬉しかった。けれど同時に、お互いがお互いに依存しているようなこの現状が、一ノ瀬にとってよくない傾向のようにも思えた。
一ノ瀬がもしこの部屋の外に出られたとき、そこにいるのが僕だけでいいはずがない。彼女にはもう少しだけ、広い世界が待っていてほしい。強欲で、身勝手な願いだ。
「あのさ、一ノ瀬さん」
返事はなかった。
「実は、一ノ瀬さんに会いたがってる友達がいるんだ。人に慣れるって意味で、明日連れて来てみてもいいかな」
「……透坂くんが、それがいいって思うなら」
なんだか、ほんの少しだけ冷えた言い方だった。
「ほら、僕だけと話してるのもつまんないだろうし。もし、少しでも嫌だったら二度と連れてこないよ」
「わかった」
僕の補足に対し、一ノ瀬は極めて淡白な返事を返した。
さすがの僕にもわかった。どうやら一ノ瀬は、完全に機嫌を損ねている。
人を連れてくるのはやりすぎというか、事態を急ぎすぎか。
「いや、やっぱりやめよう。僕らだってまだ二回しか話してないんだし」
「嫌だ、やめない」
一ノ瀬はきっぱりと言った。まるで子供が意地を張っているみたいだった。
「悪かったって」
「別に怒ってないよ。透坂くんが私のために考えたことを、やってみたいだけ」
芯の通った声だった。曲げる意思がないことだけははっきりと伝わった。
「……じゃあ、明日連れて来るよ。三虎かのって子なんだけど、一ノ瀬さん、知ってるかな?」
「名前、だけ。……というか、女の子なんだね」
「そっちの方が話しやすいかと思って。まあ、そこまで女子らしい女子かと言われたら悩ましいところなんだけど」
「ふうん……透坂くんはその子と仲良いんだ?」
からかいと疑問符が混じったような口調で、一ノ瀬はそう訊ねる。
どこか尋問されているような気分になって、焦りを隠しながら僕は答えた。
「いや、まあ、たまに話すくらい」
「でも、私のことを話すってことは、それなりに親密なんだよね? それとも透坂くんは、私が思ってるよりもお喋りな人、なのかな」
扉越しでもありありと感じる一ノ瀬の圧に、僕はたじろぐ。ここは波風を立てないように上手く流さなければいけないと、本能が言っていた。
「確かに、一ノ瀬のことはその子にしか言ってない。……今日、勘づかれたんだ。僕の様子が普段と違うって」
「それで、透坂くんは嘘がつけない人だからバレちゃったんだね」
「……別に悪いことをしてるわけじゃないし」
「三虎さんが悪い人だったらどうするの?」
一ノ瀬が危惧していることは、何となくわかる。引きこもりである自分と関わっていることが下手な噂になると、僕の立ち位置が危ぶまれるかもしれないから。
本当は、こんな問いかけを口に出したくなんかないはずだ。
でも、元より僕はそんなに大した立ち位置にいるわけでもない。それに、むしろ僕としては一ノ瀬のイメージダウンにならないか心配なくらいだ。
第一、三虎かのはそんな無駄なことに時間を割くような人間じゃない。
「それは、ないよ。少なくとも僕はそう思ってる。じゃなきゃ、いくら疑われても話さないよ」
言いながら、僕は先ほどの三虎とのやり取りを想起していた。
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