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第五章 宮守明日香【後編】

第三十二話 ハッピーバースデー

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 大阪出張が明けた、翌月曜日。
 今日は明日香の誕生日である。

 昨日のうちに食事の件だけでも伝えようと思ったが、結局連絡はしなかった。
 試験が終わったばかりで疲れているだろうし、自己採点や復習をしているかもしれない。あれこれ気を回しているうちに、深夜になってしまったのでそのまま寝てしまった。

 今日は誕生日当日。直接祝福の言葉を伝えたい。
 大輔は仕事を終えオフィスをでると、すぐに彼女にラインを入れた。

『今、電話しても良い?』

 時間は六時。
 彼女は定時で上がることが多いと聞いている。この時間なら帰宅しているかもしれない。

 雑居ビルの踊り場を抜けて地上に出る。駅に向かう大通りには向かわず、いったん脇道に入った。
 改めてスマホの画面を見るが、既読はついていない。

 まだ仕事なのか、帰宅途中なのか。それとも、友達と誕生日を祝っているのだろうか。
 家族が上京して一緒に過ごしている……ということはないだろう。

 彼女はあまり家族との関係が良くない。
 本人から直接聞いたわけではないが、言葉の端々に家族、特に父親への嫌悪感が垣間見られる。
 
 さらに言えば、実家の弘前についても、あまり肯定的な発言が聞かれない。
「旧態依然とした世界が、化石のような人間を生み出す」と、彼女はすぐに地元青森を批判したがる。
 東京に憧れて上京してきた十代の頃のまま、大人になった印象だ。

 しかし「社会人になってから、一度も帰省していない」と聞いたときは、流石に驚いた。あれはまずい。
 いつかちゃんと言い聞かせて、地元に帰らせなければと思っている。
 
 自分も彼女の両親に挨拶すべきなのだが、数年ぶりに帰ってきた娘が、一回り以上も歳の離れた男を連れてきたら。彼らの心中は、察するに余りある。
 まずは彼女が一人で帰り、家族との関係を良好にしておく必要があるだろう。

 週明けの月曜だ。
 きっとまだ仕事なんだろう。
 先に家に帰って、落ち着いてから電話をしよう。

 ****

 与野駅を降り、マンションに向かう途中でドラッグストアに寄る大輔。

 まっすぐ衛生用品のコーナーに向かい、避妊具を買う。
 この間で残り一つになってしまったので、補充で買っておく。もしかしたら水曜日、セックスすることになるかもしれない。

 明日香が気に入っている、ピンクのパッケージのものを手に取る。付着しているゼリーがコラーゲン入りなのが気に入っているらしい。

 最初は明日香と一緒に選んで買ったのだが、正直恥ずかしかった。
 若い女性とコンドームを選びに来るオッサンなんて。いかがわしい関係だと思われたら、どうしようかと思ったものだ。

 逆にこうやって一人で買いに行ったほうが、遥かに気が楽だ。女性向けのコンドームを買うことで、「女性に寄り添ってます」感も醸し出せて丁度いい。
 いずれにしても、ただの自意識過剰なのだが。

 レジで会計をしていると、胸ポケットのスマホが震えた。明日香からだろうと予想しながら、そのまま会計を済ませる。
 財布をしまいつつ店を出ようとした大輔だったが、まだスマホが動いていた。

 それはラインではなく、通話着信を知らせる振動だった。
 慌てて電話に出る大輔。

「明日香?」
『……』

 返事がないが、気にせずに続ける。
「ごめん、かけさせちゃって。ライン見てないみたいだったから、後にしようと思って。もうすぐ家だからさ。着いたらこっちから、かけ直すよ」

 ドラッグストアのレジ袋を揺らしながら、大輔は帰途に就こうとする。

『……大輔さん』

 明日香の声は、震えていた。
 喉の奥が詰まったような、泣き声。

 思わずその場に立ち止まる。
「明日香……どうしたの?」
 返答はなく、鼻をすするような音が聞こえる。

「泣いてるの? 何かあったの? 今どこにいるの?」
 自宅に戻る方向とは逆、駅に向かおうとする大輔。

『大輔さん。私、彼に会ったの。前に話した、元カレと、会ったの。ごめんなさい』

 大輔は凍り付いたように固まった。
 全身の血が冷え切ったような、凍えるような感覚。
 
 なんだ?
 何が起きたんだ?
 
 俺は彼女に浮気されたのか?
 俺は彼女に裏切られたのか?

 なんで?
 どうして?
 俺は彼女に何をした?

 大阪に行く前に口論になった。
 でも、物別れに終わったわけじゃない。
 ちゃんと話し合って、次に会う約束もした。

 確かに空気は悪かったけど、別れ際にキスもした。
 彼女は嫌がっていなかった。

 なのに。

 彼女は他の男と誕生日を過ごした。
 子供じゃないんだ。ケーキを食べて、プレゼントを渡されてお終いなわけがない。

 その男に、彼女は抱かれた。
 キスされて、体のあちこちを触られて、舐められて、挿れられて。
 俺が教えたフェラチオを、その男で試して。

 俺とは【カラダ目当て】で付き合って、ステップアップが済んだら本命の男のところに戻るのか。

 そうだ。彼女は最初から言っていたじゃないか。
「恋人になってほしいとか、そういうんじゃない」と。
 やっぱり俺は所詮、彼女のセックスの踏み台だったんだ。

 胸が苦しい。
 心臓を鷲掴みにされて、刃物で刺されているようだ。

 大輔はドラッグストアの袋を握りしめた。
 隙間から見えるピンクのパッケージが憎らしい。

 こんなもの今すぐ地面に叩きつけて、こう言ってしまえばいい。
「冗談じゃない。君みたいな阿婆擦れとは付き合いきれない。もうお終いだ」と。

 それで全部、終わりにできる。
 こんな理不尽な苦しみから、解放される。
 
 レジ袋を持った腕を振り上げるが、思いとどまる。
 明日香の泣き声が、絶え間なく聞こえ続けているからだった。

 落ち着け。
 落ち着くんだ。
 冷静になれ。
 
 俺は彼女を失っていいのか。
 あれほど愛した彼女を、一時の感情で失っていいのか。

 こんなに彼女は泣いているじゃないか。
 こんなに苦しんでいるじゃないか。

 彼女はまだ二十代なんだ。
 自分が二十代の頃、どうだった?

 己の利害のために恭子と別れ、千夏を侮辱し、綾乃とセフレになり、一夜限りとわかっていながら女性たちとセックスをした。
 そんな俺が、彼女の一度の過ちを許せないというのか。

 四十にもなる大の大人が、四半世紀しか生きていない娘を延々泣かせるのか。
 電話口で「土下座して謝れ」とでも言えば、気が済むのか。

 大人になれ。
 誰にだって、過ちの一つや二つはある。若ければ尚更だ。

 大輔は絞り出すように彼女に尋ねた。
「それで……明日香は、どうしたいの」

『私、大輔さんに会いたい。あなたが好きなの。あなたと一緒にいたいの。彼とはちゃんと別れたの。だから……許して』
 さめざめと泣く明日香。

 決して泣き顔を人に見せようとしない彼女が、ここまで泣いて詫びている。
 黙っていれば、隠し通すことだって出来たはずなのに。
 良心の呵責に耐え切れず、懺悔をしている。

 寂しかったんだ。彼女は。
 俺と喧嘩をして、一人ぼっちの誕生日を迎えて。
 俺がちゃんと話をしておけば、支えてあげていれば。こんな目に遭わせずに済んだんだ。

 大輔は穏やかな声で、彼女に語り掛けた。
「わかったよ、明日香。正直に話してくれて、ありがとう。泣かないで」
 
 明日香はしゃくりあげながら必死に謝り続けている。
『大輔さん……ごめんなさい、ごめんなさい……』

「明日香、水曜日に一緒に食事をしよう。実はね、初めてデートしたイタリア料理屋を、予約しているんだ。一緒にお祝いしようと思って」
『……お祝い?』
 鼻声で尋ねてくる彼女。

 明日香。
 寂しい思いをさせて、本当にごめん。
 
「誕生日おめでとう、明日香。愛しているよ」

 ****

 水曜日。

 イタリアンでコース料理を堪能した後、大輔は明日香のマンションを訪れていた。
 大輔は彼女をホテルに誘ったが、自宅に来るように提案してきたのは明日香のほうだった。

「大輔さん、今夜は帰らないで。私と一緒にいて。セックスしなくても良いから、私のこと抱き締めて欲しいの。お願い」


 明日香の部屋に来るのは二回目だが、前回は緊急事態で、無理矢理上がり込んだ形だった。今回は特別な気持ちで敷居を跨ぐ。

 ワンルームの部屋の真ん中に、緊張した面持ちで座る。
 すると明日香が、部屋の隅にあった大きな紙袋を持ってきた。

「良かったら、使って」
 明日香が彼の前に、丁寧に畳んだ衣服を置く。
 Tシャツやトランクスの他に、彼が好んで身に着けそうな、ワイシャツやネクタイも揃っている。

「どうしたの? これ」
 目を丸くする大輔に、彼女は照れくさそうに答える。
「昨日、買ってきたの」
「昨日?」

 水曜日にデートできると知った時点で、彼女は大輔を部屋に呼ぶことを決めていた。
 平日の、ど真ん中。当然次の日も、出社しなければならない。
 同じ服で会社に行かせるわけにはいかないと、仕事帰りに買い揃えたという。

「ネクタイまで……結構だろう?」

 大輔はクールビズ期間中でも、ネクタイを締めることが多い。
 クライアントには高齢の経営者もいる。その都度ネクタイの配慮をするぐらいなら、初めからしていったほうが良いという考え方だった。
 
「ちょっとね。でも、大輔さんにずっと着けて欲しかったから、奮発しちゃった」

 胸元にあるペンダントを弄りながら、恥ずかしそうに喋る明日香。レストランで大輔からプレゼントされたものだ。
 余程嬉しかったようで、爪留めにされたサファイアをひっきりなしに見つめている。

「ありがとう、明日香。すごく嬉しいよ」
 恋人を抱きしめて、大輔はその髪を撫でる。明日香は気持ちよさそうに、彼の背中で腕を交差させた。

 彼女の頬や額に軽くキスをする大輔。
「お風呂入って、寝るばっかりにしちゃおうよ。ベッドで抱き合いながらお喋りしよう」
「……うん!」
 明日香は子供のように大きく頷いた。

 幸せだ。
 これが幸せというものなんだと、痛感する。
 彼女は俺にとって、かけがえのない女性だ。

 本当にあの時、早まらなくてよかった。
 これからは彼女のことを、一時も離さない。
 何があっても、絶対に離すものか。
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