帰りたい場所

小貝川リン子

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第九章 幸福の在り処

第九章③

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 うんと優しくしてやる、なんて豪語していたくせに、結局いつも通りのセックスになった。いつも通りの、幸福なセックス。
 優位に動ける騎乗位も、獣のように犯される後背位も好きだが、やっぱり正常位が一番安心するし気持ちいい、と鶫は思った。しっとりと汗ばんだ肌が、濡れて擦れて密着する。
 言葉にしなくても、鶫の視線だけで言いたいことを汲み取って、キスをしてくれる。激しく舌を絡めるのではない、小鳥が啄むようなささやかなキス。そうしながら奥を優しく捏ねられるのが、鶫は最高に好きだった。
 鶫がぎゅっとしがみつくと、風間も鶫を抱きしめてくれる。もう随分とデカい男に育ってしまったのに、風間に抱かれていると子供に戻ったような心地になる。ついつい甘えてしまうし、風間も鶫を甘やかしてくれる。甘やかされている、と実感する度に奥が濡れる。
 
「……おっさん、おっさん」
「なんだよ」
「……いいのかな、おれ」
「なにが」
「……こんなにさ、幸せで」
 
 風間の双眸が鶫を捉える。その瞳いっぱいに映る自分の姿を、鶫は見る。
 
「オレも幸せだよ」
「……くっせぇセリフ」
「誰だって幸せになる権利くらいあるだろ。人間なんだから」
「……人間、ね……」
 
 鶫を対等な“ひと”として扱ったのは、風間が初めてだった。
 
 呪われた生を享け、穢れた生を歩み、人並みの幸せなど望むべくもないと、信じて疑わずに生きてきた。
 けれど、いいのだろうか。人並みの幸せを望んでも。許されるだろうか。輝ける理想を抱き、希望を追い求めて、素晴らしい明日を夢見てしまっても。呪われ穢れたこの身に、その資格があるだろうか。
 本当は、ずっと前から分かっていた。人並みに扱われたい。人並みの幸福も、尊厳も、愛情も、全部手に入れたい。誰かに愛されたい。誰かを愛したい。そういった欲望を抱くこと自体は、誰にも止めることはできない。
 
「オレも、相当罪を重ねてきてるが」
 
 風間がたっぷりとした声で言った。
 
「正直、相当数の屍の上にオレの人生は成り立っていると思うし、そいつらに悪いと思わないわけでもないが、オレの幸福はオレだけのものだからな。誰にも邪魔はさせねぇよ」
「……」
「だから、オレ達はどこまでもおんなじなんだ」
 
 行きつく先はどうせ地獄だ。それは風間も鶫も同じことだろう。だったら、一時の幸福を目一杯堪能しなければもったいない。しかし、死後も風間と運命を共にするなんて、それはそれで悪くないかもしれない、なんて馬鹿げたことを鶫は考えた。
 実に馬鹿らしい。呪い、呪われ、この身に穢れを燻ぶらせ、数多の命を刈り取って、そこまでしてようやく生き永らえた、この行く当てのない罪深い魂が、それでもまだ幸福でありたいと叫んでいる。
 たとえ、無数の屍の上に成り立つ幸福であっても、この男と共にありさえすれば価値がある。
 
「……しょうがねぇから、最期まで付き合ってやるよ」
 
 鶫は踵で風間の尻を蹴った。
 
「痛ぇわ」
「あんたがぼさっとしてっからだろ」
「お前が先に話し始めたんだろうが」
「休憩は終わりっつーことだよ」
 
 肌を重ね、心を重ねて、手足を蔓のように絡め合って、鶫はひと時の幸福に酔いしれる。刹那と分かっているからこそ、一瞬一瞬が尊く煌めくのだ。
 
 *
 
「満足したかよ」
 
 一服しながら風間が言う。紫煙がベッドルームを燻っている。
 
「まぁな」
「眠れそうか?」
「う~ん」
 
 カーテンの向こうは僅かに白んでいる。ぐう、と鶫の腹の虫が鳴いた。風間はまさかという顔をする。
 
「寝れねぇわ」
「欲望に忠実だな、お前の体は」
「なぁ~、なんかメシ」
「今からじゃラーメン屋も開いてねぇよ」
「そーいうんじゃねぇんだよなぁ。ちょい早ぇけど、朝飯にしよーぜ」
「朝飯ったってなぁ……何がいい」
 
 風間は渋い顔をしながら、結局は鶫の要望を聞いてくれる。
 
「サンドイッチ。卵のやつ」
「はぁ~? まぁためんどくせぇ注文しやがって」
「いいじゃねぇか、片付けは手伝うし。んで、昼までだらだらしよーぜ」
「調子のいいやつ」
 
 無精髭を生やした、薄い唇に煙草を銜えて、風間はキッチンに立った。早朝、静かなアパートの一室に、食器のぶつかる音が響く。
 これが幸福というものか。鶫は、甘い余韻の残る体を横たえた。
 何も、セックスだけが幸せの形ではない。誰かが自分のために料理を作ってくれる。マヨネーズで和えた卵をふわふわの食パンで挟んだサンドイッチも、甘いカフェオレも、苦い煙草も、微かに聞こえる鼻歌や、静かな足音でさえ、全てが幸福の証に思えた。
 カーテンを開ければ、眩い朝焼けが東の空を満たしている。清浄な朝日が闇をすっかり洗い流して、新しい世界を新しい色で染めている。世界はこんなにも明るく、暖かく、美しかったのだと、鶫は改めて思い知る。
 
「おっさぁん、まだかよ」
 
 待ちきれなくなって、鶫はキッチンへ駆けていた。風間は換気扇の下で煙草を吹かし、卵の茹で上がるのを待っていた。
 
「気が早ぇな。せっかく来たなら殻剥き手伝え」
「うぇ~、めんどくせぇよ」
「やればできるくせに、物ぐさすんな」
 
 二人の新しい今日が、今ここから始まる。
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