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30.それの何がいけませんの?

2.

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***


 エルビナは俺の想像以上に素晴らしい女性だった。

 婚約者になって以降、出来る限り食事や茶会の機会を作り、交流を持つようにしているのだが、彼女の頭の中はいつも国民のことでいっぱいで。会話の大半は聖堂を訪れる人々や、遠征の時に出会った民、領地の話で埋め尽くされていた。


「――――そうか。それで西部に遠征を希望しているんだね」

「ええ。あちらでは今、例年よりも嵐がたくさん来ておりますでしょう? 水害はなくとも、不作の原因にはなりますし、生態系にまで影響が出ているかもしれませんもの。報告が上がって来ていないだけで、水路や道路に問題が発生している可能性もございますし」

「現時点でエルビナの力が必要か分からないし、はじめは文官や騎士を派遣しても良いんじゃないかな?」


 聖女の力は広範囲に及ぶ。けれど、大地に恵みを与えたり、天候を操るためには、直接現地に赴く必要があるらしい。


「わたくし、何事も自分の目で見て確かめたい性質ですの。もちろん限界はございますし、既に影響が生じていると決まったわけではございませんが、あちらの皆さまが困っているのは間違いございませんもの。行って、励まして差し上げたいのですわ」


 エルビナはそう言って穏やかに微笑む。


(なんて高潔な女性なんだ……!)


 己の目で物事を見て、実際に民に触れ合って、それから苦しみを分かち合おうとする。こんなこと、普通の令嬢には絶対できない。これはきっと、聖女だからこそ持ち得た慈愛の精神なのだろう。


「俺も一緒に行っても良い?」


 気づけば俺はそう尋ねていた。
 正直言って公務は目白押しだし、王族の遠征は手間がかかる。スケジュールの調整や護衛の手配、側近たちには手間をかけてしまうが、それでも彼女と同じものを見て見たいと思ってしまう。


「もちろん。是非、ご一緒していただきたいです」


 あまりにも可憐に微笑むエルビナが愛しくて、俺は彼女を抱き締めた。


***


 以降、俺はエルビナの公務に同行することが増えた。
 民と触れ合うエルビナは、殊更美しく神々しい。誰とでも気さくに接し、どんなに汚れ垢に塗れた手でも躊躇いなく握り、献身的に働くその姿に俺は大きな感銘を受けた。

 これまで俺は、日中の殆どを城で過ごし、実際に民の姿を見ることなく過ごしてきた。それが王族の公務の在り方だと思っていた。
 けれど、人伝に聞くのと、実際に見るのとでは全然違う。自分では熱心に公務をこなしてきたつもりだったが、てんでダメだ。


「けれど、ジェイデン様はそうやって変わろうとなさいますもの」


 俺の気持ちを察したのだろう。エルビナはそんな風に慰めてくれる。


「あなたはとても素晴らしい人。どうか自信をお持ちになって?」


 何故だろう。エルビナに言われると、大丈夫な気がしてくる。
 ありがとうと口にして、俺はそっと微笑んだ。


 日が経つにつれ、俺はどんどんエルビナに嵌まっていった。

 彼女は本当に愛らしく、一緒に居ると癒される。花のような甘い香りに鈴のような声音。羽が生えているのでは? と思う程小さく、軽やかな身体。ついつい触れたくなるし、甘やかしたくなる。
 女性というのは、こんなにも柔らかく温かい生き物なのか――――彼女を胸に閉じ込める度に、そんなことを考える。絹のように滑らかな髪を撫でながら、額に唇を押し当てながら、エルビナの甘さを堪能する。


「ジェイデン様」


 擦り寄られ、名前を呼ばれるだけで、俺の心は熱く震えた。彼女に名前を呼ばれる唯一の存在になりたい――――そんな風に思う程に。


(兄上はどうして、彼女を大切にしなかったんだろう?)


 俺にはエルビナを手放すなんて考えられない。

 彼女は誰よりも妃に相応しい女性だ。常に民のことを想い、己の身を呈して彼等を救う。
 言葉でどれ程『民を想っている』と口にした所で、その想いを示すことは難しい。けれど、エルビナはきっと聖女の力がなかったとしても、民のために尽力しただろう。泥や汗にまみれながら彼等に寄り添い、身銭を切ってでも食わせようとする。これまで俺に宛がわれた他の婚約者候補たちにそんなことが出来るかと問われれば、答えは否だ。

 それだけじゃない。

 妃に相応しいかどうかに関わらず、俺はハッキリとエルビナに惹かれている。
 彼女の美しさに、優しさに、その全てに。

 エルビナが笑うと嬉しくなる。心がポカポカと温かくなる。もっと笑わせてやりたい。たくさん甘やかしてやりたいと思う。
 他の女性なんてとても考えられない。それなのに、兄上はどうして――――?


「ジェイデン」


 その時だった。兄上が背後から俺を呼び止める。
 お互い今は、側近たちが付いていない。きっと二人きりで話がしたかったのだろう。


「兄上、俺に何の御用ですか?」

「その……エルビナのことなんだが」


 内心ドキッとしつつ、俺は兄上を見遣る。
 兄上ときちんと話をするのは、エルビナとの婚約解消以来はじめてのことだ。兄上がエルビナを傷つけた理由、その経緯については知っておきたい。


「お前は――――――あの女と上手くやれているのか?」

「それは……どういう意味ですか?」


 上手くやれている? 
 言っている意味が分からない。首を捻った俺を、兄上は真剣な表情で見つめた。


「頭痛は? 吐き気は? 大量の虫に襲われたり、見えない壁にぶつかったり、悪夢にうなされることは?」

「なんです、それ? そんなこと、ある筈が無いでしょう?」


 あまりにも突拍子のない発言に、俺は困惑を隠せない。兄上は幻覚でも見ていたのだろうか――――そう勘繰りたくなってしまう。


「第一、身体の不調であれば、エルビナが治癒してくれるじゃありませんか。仮にそういった現象があったとして、それを彼女と繋げる理由が俺には分かりません」

「ジェイデン、落ち着いて聞いてくれ。お前はあの女に騙されている。
あの女は――――お前の婚約者は悪魔だ! 絶対、そうに違いない!」

「……なにを言っているのですか?」


 駄目だ。怒りで腸が煮えくり返りそうになる。

 俺の婚約者――――愛しいエルビナにくだらない因縁を付けられた。
 元々彼女は兄上の婚約者で。兄上に悲しい想いをさせられていて。せっかく今は俺の婚約者として、毎日笑って過ごせているのに。


「エルビナは聖女です。高潔で美しい、素晴らしい女性です。悪魔だなんて言われる筋合いはありません」

「本当なんだ! あの女はいつも僕の一挙手一投足を監視しながら、ネチネチと嫌味を言い、蔑み、時に聖女の力を悪用しながら苦しめてきたんだ! それに、僕達の婚約が解消されたのだって、絶対あの女の差し金だ。嵌められたに決まっている」

「そんなこと、俺のエルビナがするはず無いでしょう!」

「信じられないのも無理はない。今は未だ証拠がないからな。だが僕は絶対にあの女の本性を暴いてやる。絶対に、だ」


 兄上はそう言って踵を返す。
 憤りを抱えつつ、俺もその場を後にした。


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