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番外編
平気なわけがありません(1)
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「レイ、ちょっと良いか?」
ある日のこと。私はヘレナ様の兄上――――マクレガー侯爵から声を掛けられた。皆が寝静まった深夜のことだ。屋敷の中はシンと静まり、小さな物音さえ聞こえない。
「ええ……丁度今、仕事が終わったところです」
書類を棚へ仕舞いつつ、そう答える。すると、侯爵はニヤリと口角を上げて、そっと私を手招きした。
「眠れないし、一杯付き合ってくれないか? 良いワインがあるんだ。
あっ……断るなよ! 俺とお前の仲だろう? そのためにわざわざこんな時間まで待ったんだ」
「――――――お嬢様のお話ならば、お付き合いいたします」
答えれば、侯爵は「ブレない奴だなぁ」と言って苦笑いを浮かべる。私は侯爵の後に続いて、ダイニングルームへと向かった。侯爵は自身の向かいの席を指し示し、私にも座る様に指示する。本来、屋敷の主人とこんな形で酒を交わすのは如何なものかと思うが、本人たっての希望だ。ワインやグラス、摘まみを用意してから、私は侯爵の示した席へと腰掛けた。
「レイはカルロス殿下の噂を知っているか?」
席に着くなり、侯爵は単刀直入にそう切り出した。
カルロス殿下とは、ヘレナ様の婚約者だ。この国の王太子で、御年十七歳。来年の春、ヘレナ様との成婚を控えている。慎重で物腰の柔らかい父親とは違い、独断専行型。元々あまり良い噂を聞かない方だが、最近は特にその傾向が強い。
「カルロス殿下がどこぞの伯爵令嬢に入れあげた上、お嬢様を蔑ろにしているというお話ですか?」
「――――――そう、それだ。ヘレナという婚約者がありながら、愚かすぎるだろう! 腹立たしい。
やっぱりヘレナも気にしているだろうか? おまえ、どう思う?」
マクレガー侯爵は眉間に皺を寄せ、グッとこちらに顔を近づけた。ワインはまだ一口しか飲んでいないのに、既に酔っているらしい。苦笑しつつ、私はクイっとグラスを呷った。
「私が見る限り、今のところお嬢様はあまり気にしていらっしゃらないようです」
答えつつ、私はそっと目を伏せる。
この十年間で、ヘレナ様は見違えるほどに美しく成長なさった。いや、女性らしくなったという表現が正しいのかもしれない。薔薇色の頬もふっくらとした唇も、柔らかな曲線を描く身体も、本人にはその自覚がないようだが男たちを惹きつけて止まない。
(愚かなカルロス殿下を除いて)
考えながら、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。私は大きく深呼吸をしつつ、そっと侯爵の表情を覗った。彼は唇を尖らせつつ、チビチビとワインを飲み続けている。頬が信じられないほど真っ赤に染まっていた。
「だけど、レイ。このままいくと、ヘレナは一年後にはカルロス殿下の妃だ。妹が傷つく所を見たくはない。お前だってそうだろう?」
「当然です! お嬢様には、世界中の誰よりも幸せになっていただかなければなりません。愚かな誰かのせいで不幸になるなんて、あってはならないことです」
どうやら私も酔い始めているらしい。身体が燃えるように熱かった。目を瞑ると、ヘレナ様の笑顔が脳裏に浮かぶ。私はそっと首を横に振った。
「……というか、おまえはこのままで良いのか? 一年後にはヘレナは嫁に行ってしまうんだぞ? その後は一体どうするつもりなんだ?」
そう言って侯爵は小さく首を傾げた。本当はこの辺りを一番確認をしたかったのだろう。私は苦笑いしつつ、ゆっくりと頭を垂れた。
「お嬢様が王太子妃になられた暁には、旦那様に推薦状を書いていただきたいと思っております。少しでもお嬢様のお側に居られるようお嬢様付きの騎士に志願したいのです」
それは何年も前から描いていた、私の将来設計だった。
ヘレナ様から離れるなんて考えられない――――ヘレナ様の笑顔が、ヘレナ様の幸せが、私の全てだ。そのためだけに私は生きている。けれど、カルロス殿下と結婚をしたら彼女が帰る場所はこの屋敷ではなくなってしまう。顔を見ることも、言葉を交わすことも、難しくなってしまう。
(そんなの、耐えられるはずがない)
いつだって――――今この時すらも、会いたくて堪らないのに。
甘え下手な彼女が、本心を見せられる相手は私でありたい。たとえ私自身の手でヘレナ様を幸せにすることは叶わなくとも、彼女を護っていきたいとずっとずっと、そう思ってきた。
「――――――まったく! おまえは本当にブレない奴だな」
侯爵はそう言って声を上げて笑った。私は微笑み返しつつ、そっと目を細める。
「レイが付いて行くなら、何があってもヘレナは幸せでいれるだろう。そちらの方が俺も安心だ。お前が居なくなることは侯爵家にとっても大きな痛手だが、元々レイはヘレナの執事だしな。推薦状ぐらい幾らでも書いてやるよ。任せておけ。
なんて――――本当は、ヘレナはお前と結婚できたら一番幸せなんだろうけど」
侯爵の言葉に、今度は私は噴き出した。彼は気分を害した様子もなく、まじまじと私のことを見つめている。
「言っとくが、俺は割と本気で言っているんだぞ?
レイ――――お前本当は平民なんかじゃない。相当な身分の奴だろう? そんじょそこらの貴族じゃ受けられない教育を受けているし、初めて会った時から雰囲気とか身のこなしとか普通じゃなかった。事情があって今があるのは分かっているが……」
マクレガー侯爵はほんのりと眉間に皺を寄せ、小さくため息を吐く。私は肯定も否定もしないまま、穏やかに微笑んだ。
「お嬢様は王太子妃になられるのです」
言いながら、心はズキズキと激しく痛む。そんな私を見抜いてか、侯爵はまた、ずいと勢いよく身を乗り出した。
「好きな女性が他の男と結婚して、お前は平気なのか?」
「当然、平気なわけがありません」
本当に、平気なわけがなかった。
ヘレナ様がカルロス殿下に触れられる未来を想像すると、胸の中で黒い感情が蜷局を巻く。ヘレナ様の笑顔を、涙を、全てを独り占めしようとしているカルロス殿下が憎い。もしもヘレナ様に私の心の内を覗かれたら、嫌われてしまうかもしれない――――それほどまでに苛烈な感情が、私の中に内在していた。
「…………だったら、レイも結婚するか? 必要なら、俺が縁談を用意してやっても良い。叶わない恋に一生を捧げるなんて不毛だろう? 父上母上も、レイのことを息子のように可愛がっていたし、俺にとってもお前は大事な友人だ。ヘレナのことは護ってやって欲しいが、レイも自分自身の幸せを求めるべきだと思う。
……まぁ、お前なら何処へ行ってもモテモテだし、既にそういう相手が二人や三人居たところで驚かないけど」
「――――――縁談など必要ありませんし、そんな相手、居るわけがないでしょう。私の全てはお嬢様のものなのに」
言いながら、私は盛大なため息を吐いた。吐息が熱い。ヘレナ様の笑顔がチラついて、心がジリジリと痛む。
「本当に?」
呆れたような、揶揄するような表情を浮かべ、侯爵は尋ねる。
「もちろん。これまでも、これからも。私はお嬢様だけのものです」
ワインの苦みが喉を妬く。けれど、迷いなどこれっぽっちも無かった。侯爵はグラスに残ったワインを飲み干し「分かったよ」と言って微笑んだ。
ある日のこと。私はヘレナ様の兄上――――マクレガー侯爵から声を掛けられた。皆が寝静まった深夜のことだ。屋敷の中はシンと静まり、小さな物音さえ聞こえない。
「ええ……丁度今、仕事が終わったところです」
書類を棚へ仕舞いつつ、そう答える。すると、侯爵はニヤリと口角を上げて、そっと私を手招きした。
「眠れないし、一杯付き合ってくれないか? 良いワインがあるんだ。
あっ……断るなよ! 俺とお前の仲だろう? そのためにわざわざこんな時間まで待ったんだ」
「――――――お嬢様のお話ならば、お付き合いいたします」
答えれば、侯爵は「ブレない奴だなぁ」と言って苦笑いを浮かべる。私は侯爵の後に続いて、ダイニングルームへと向かった。侯爵は自身の向かいの席を指し示し、私にも座る様に指示する。本来、屋敷の主人とこんな形で酒を交わすのは如何なものかと思うが、本人たっての希望だ。ワインやグラス、摘まみを用意してから、私は侯爵の示した席へと腰掛けた。
「レイはカルロス殿下の噂を知っているか?」
席に着くなり、侯爵は単刀直入にそう切り出した。
カルロス殿下とは、ヘレナ様の婚約者だ。この国の王太子で、御年十七歳。来年の春、ヘレナ様との成婚を控えている。慎重で物腰の柔らかい父親とは違い、独断専行型。元々あまり良い噂を聞かない方だが、最近は特にその傾向が強い。
「カルロス殿下がどこぞの伯爵令嬢に入れあげた上、お嬢様を蔑ろにしているというお話ですか?」
「――――――そう、それだ。ヘレナという婚約者がありながら、愚かすぎるだろう! 腹立たしい。
やっぱりヘレナも気にしているだろうか? おまえ、どう思う?」
マクレガー侯爵は眉間に皺を寄せ、グッとこちらに顔を近づけた。ワインはまだ一口しか飲んでいないのに、既に酔っているらしい。苦笑しつつ、私はクイっとグラスを呷った。
「私が見る限り、今のところお嬢様はあまり気にしていらっしゃらないようです」
答えつつ、私はそっと目を伏せる。
この十年間で、ヘレナ様は見違えるほどに美しく成長なさった。いや、女性らしくなったという表現が正しいのかもしれない。薔薇色の頬もふっくらとした唇も、柔らかな曲線を描く身体も、本人にはその自覚がないようだが男たちを惹きつけて止まない。
(愚かなカルロス殿下を除いて)
考えながら、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。私は大きく深呼吸をしつつ、そっと侯爵の表情を覗った。彼は唇を尖らせつつ、チビチビとワインを飲み続けている。頬が信じられないほど真っ赤に染まっていた。
「だけど、レイ。このままいくと、ヘレナは一年後にはカルロス殿下の妃だ。妹が傷つく所を見たくはない。お前だってそうだろう?」
「当然です! お嬢様には、世界中の誰よりも幸せになっていただかなければなりません。愚かな誰かのせいで不幸になるなんて、あってはならないことです」
どうやら私も酔い始めているらしい。身体が燃えるように熱かった。目を瞑ると、ヘレナ様の笑顔が脳裏に浮かぶ。私はそっと首を横に振った。
「……というか、おまえはこのままで良いのか? 一年後にはヘレナは嫁に行ってしまうんだぞ? その後は一体どうするつもりなんだ?」
そう言って侯爵は小さく首を傾げた。本当はこの辺りを一番確認をしたかったのだろう。私は苦笑いしつつ、ゆっくりと頭を垂れた。
「お嬢様が王太子妃になられた暁には、旦那様に推薦状を書いていただきたいと思っております。少しでもお嬢様のお側に居られるようお嬢様付きの騎士に志願したいのです」
それは何年も前から描いていた、私の将来設計だった。
ヘレナ様から離れるなんて考えられない――――ヘレナ様の笑顔が、ヘレナ様の幸せが、私の全てだ。そのためだけに私は生きている。けれど、カルロス殿下と結婚をしたら彼女が帰る場所はこの屋敷ではなくなってしまう。顔を見ることも、言葉を交わすことも、難しくなってしまう。
(そんなの、耐えられるはずがない)
いつだって――――今この時すらも、会いたくて堪らないのに。
甘え下手な彼女が、本心を見せられる相手は私でありたい。たとえ私自身の手でヘレナ様を幸せにすることは叶わなくとも、彼女を護っていきたいとずっとずっと、そう思ってきた。
「――――――まったく! おまえは本当にブレない奴だな」
侯爵はそう言って声を上げて笑った。私は微笑み返しつつ、そっと目を細める。
「レイが付いて行くなら、何があってもヘレナは幸せでいれるだろう。そちらの方が俺も安心だ。お前が居なくなることは侯爵家にとっても大きな痛手だが、元々レイはヘレナの執事だしな。推薦状ぐらい幾らでも書いてやるよ。任せておけ。
なんて――――本当は、ヘレナはお前と結婚できたら一番幸せなんだろうけど」
侯爵の言葉に、今度は私は噴き出した。彼は気分を害した様子もなく、まじまじと私のことを見つめている。
「言っとくが、俺は割と本気で言っているんだぞ?
レイ――――お前本当は平民なんかじゃない。相当な身分の奴だろう? そんじょそこらの貴族じゃ受けられない教育を受けているし、初めて会った時から雰囲気とか身のこなしとか普通じゃなかった。事情があって今があるのは分かっているが……」
マクレガー侯爵はほんのりと眉間に皺を寄せ、小さくため息を吐く。私は肯定も否定もしないまま、穏やかに微笑んだ。
「お嬢様は王太子妃になられるのです」
言いながら、心はズキズキと激しく痛む。そんな私を見抜いてか、侯爵はまた、ずいと勢いよく身を乗り出した。
「好きな女性が他の男と結婚して、お前は平気なのか?」
「当然、平気なわけがありません」
本当に、平気なわけがなかった。
ヘレナ様がカルロス殿下に触れられる未来を想像すると、胸の中で黒い感情が蜷局を巻く。ヘレナ様の笑顔を、涙を、全てを独り占めしようとしているカルロス殿下が憎い。もしもヘレナ様に私の心の内を覗かれたら、嫌われてしまうかもしれない――――それほどまでに苛烈な感情が、私の中に内在していた。
「…………だったら、レイも結婚するか? 必要なら、俺が縁談を用意してやっても良い。叶わない恋に一生を捧げるなんて不毛だろう? 父上母上も、レイのことを息子のように可愛がっていたし、俺にとってもお前は大事な友人だ。ヘレナのことは護ってやって欲しいが、レイも自分自身の幸せを求めるべきだと思う。
……まぁ、お前なら何処へ行ってもモテモテだし、既にそういう相手が二人や三人居たところで驚かないけど」
「――――――縁談など必要ありませんし、そんな相手、居るわけがないでしょう。私の全てはお嬢様のものなのに」
言いながら、私は盛大なため息を吐いた。吐息が熱い。ヘレナ様の笑顔がチラついて、心がジリジリと痛む。
「本当に?」
呆れたような、揶揄するような表情を浮かべ、侯爵は尋ねる。
「もちろん。これまでも、これからも。私はお嬢様だけのものです」
ワインの苦みが喉を妬く。けれど、迷いなどこれっぽっちも無かった。侯爵はグラスに残ったワインを飲み干し「分かったよ」と言って微笑んだ。
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