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番外編
平気なわけがありません(2)
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「レイ、レイ!」
それは、マクレガー侯爵から呼び出された次の日の夜のことだった。ヘレナ様が人目を憚るようにして、私の元を訪れる。潜められた声音が可愛らしく、私は思わず微笑んだ。
「お嬢様、一体如何しましたか?」
「一緒に来て? レイに渡したいものがあるの」
そう言ってヘレナ様は私の腕を引っ張った。薄い夜着に、湯上りの香りがふわりと漂う。爽やかで甘い良い香りだ。けれどそれは、ヘレナ様に恋焦がれる私にとって、一種の毒のような作用を持つ。
(本当は、こんな夜遅くに男の元を尋ねてはいけないとお諫めするべきなのだろうが)
こんなにも嬉しそうなヘレナ様の笑顔に勝てるわけがない。邪念を振り払いつつ、私はヘレナ様の後に続いた。
ヘレナ様と私は、屋敷の屋根の上に上り、二人並んで腰掛けた。幼い頃、私がよくお連れした場所だ。
月明かりがヘレナ様の笑顔をぼんやりと照らす。柔らかな微笑みは何よりも美しく、尊く、そして愛しい。触れたくて、抱き締めたくて、堪らなくなる。
(ヘレナ様はもうすぐ、カルロス殿下の妃になられるのに)
手が届かないと――――たとえ届いたとしても、触れてはいけないと分かっているのに、私の心と身体は、いつだってヘレナ様を求めていた。幸せで居てくれたら満足だなんて、口では幾らでも言えるが、本当はそれだけじゃちっとも足りない。
私はヘレナ様の特別になりたかった。私にとってヘレナ様が掛け替えのない大切な人であるように、ヘレナ様にとっての私も、同じであれば良いと思っていた。
「――――それで、私に渡したいものとは?」
感情に押し潰されてしまう前に、私は本題を切り出す。
「あのね、今日王宮でお菓子を戴いたの。ほら、とっても美味しそうでしょう? 一人じゃ食べきれないけど、皆に上げる量は無いから、レイと一緒に食べようと思って! レイだけ特別扱いしてるの見られたらマズイと思って、この時間まで待ってたんだ」
そう言ってヘレナ様はニコニコと屈託なく笑う。涙が出そうだった。このままヘレナ様を抱き締めて、好きだと言えたら良いのに――――そう思いつつ、私は「ありがとうございます」と口にする。
「ううん、レイはいっつもわたしを甘やかしてくれるし、お世話になってるもの」
「――――――それだけですか?」
言いながら、私はハッと口を噤んだ。ヘレナ様は「え?」と目を丸くして、私のことを見つめている。
「なっ……何でもありません。どうか忘れてください」
本当はこんなこと、言うつもりはなかった。ヘレナ様が困るだけだと分かっているのに、ついつい欲が出たのだ。
ヘレナ様にとって、私はどんな存在なのだろう。
他に婚約者がいるのだし、ただの執事としてしか見られていないと分かっている。けれど、彼女の『特別』という言葉が私のそれと同じであればと願わずにはいられなかったのだ。
(情けない。こんなに感情をむき出しにして……愚かすぎるだろう)
ヘレナ様は小首を傾げつつ瞳を何度か瞬かせる。私はというと、忘れてほしいと言いつつ、話を逸らすことすらできない。どのぐらい時間が経っただろうか。ヘレナ様が徐に口を開いた。
「わたしにとってレイは、世界で一番大切な人だよ」
その瞬間、私は大きく目を見開いた。心臓が大きくドクンと跳ねる。ヘレナ様は頬を赤らめるでもなく、淡々とした様子でどこか一点を見つめていた。まるでご自身の感情と初めて向き合われているかのような、そんな面持ちだった。
「あのね……殿下との結婚は幼い頃に決まっていたことだし、聖女に生まれたからには必要なことなんだろうなぁって思ってる。だけど、結婚のせいでレイと会えなくなるのは嫌だなぁって。寂しいなぁって思うの。レイが『お待ちしておりました』ってわたしを迎えてくれるの、すごくすごく嬉しいから。レイのお陰でわたしは頑張れるし、笑っていられる。幸せで居られるの」
そう言ってヘレナ様は微笑んだ。目頭がグッと熱くなる。涙が零れ落ちそうだった。
(十分だ――――本当に、十分すぎる)
公には特別な存在になれずとも、ヘレナ様の中には私が居る。私のこの手でヘレナ様を幸せにできるのだと思うと、胸が熱かった。
「私は一生、お嬢様のお側に居ます。これから先何があろうと、地の果てまでも追いかけて、『お待ちしておりました』と、お嬢様を一番にお迎えしましょう」
そう言って私はゆっくりと頭を垂れる。ヘレナ様は小さく目を見開き、それから「うん!」と満面の笑みを浮かべた。月が仄かに私たちを照らす。
(私が必ず、あなたを幸せにします)
そう誓いつつ、私は静かに微笑むのだった。
それは、マクレガー侯爵から呼び出された次の日の夜のことだった。ヘレナ様が人目を憚るようにして、私の元を訪れる。潜められた声音が可愛らしく、私は思わず微笑んだ。
「お嬢様、一体如何しましたか?」
「一緒に来て? レイに渡したいものがあるの」
そう言ってヘレナ様は私の腕を引っ張った。薄い夜着に、湯上りの香りがふわりと漂う。爽やかで甘い良い香りだ。けれどそれは、ヘレナ様に恋焦がれる私にとって、一種の毒のような作用を持つ。
(本当は、こんな夜遅くに男の元を尋ねてはいけないとお諫めするべきなのだろうが)
こんなにも嬉しそうなヘレナ様の笑顔に勝てるわけがない。邪念を振り払いつつ、私はヘレナ様の後に続いた。
ヘレナ様と私は、屋敷の屋根の上に上り、二人並んで腰掛けた。幼い頃、私がよくお連れした場所だ。
月明かりがヘレナ様の笑顔をぼんやりと照らす。柔らかな微笑みは何よりも美しく、尊く、そして愛しい。触れたくて、抱き締めたくて、堪らなくなる。
(ヘレナ様はもうすぐ、カルロス殿下の妃になられるのに)
手が届かないと――――たとえ届いたとしても、触れてはいけないと分かっているのに、私の心と身体は、いつだってヘレナ様を求めていた。幸せで居てくれたら満足だなんて、口では幾らでも言えるが、本当はそれだけじゃちっとも足りない。
私はヘレナ様の特別になりたかった。私にとってヘレナ様が掛け替えのない大切な人であるように、ヘレナ様にとっての私も、同じであれば良いと思っていた。
「――――それで、私に渡したいものとは?」
感情に押し潰されてしまう前に、私は本題を切り出す。
「あのね、今日王宮でお菓子を戴いたの。ほら、とっても美味しそうでしょう? 一人じゃ食べきれないけど、皆に上げる量は無いから、レイと一緒に食べようと思って! レイだけ特別扱いしてるの見られたらマズイと思って、この時間まで待ってたんだ」
そう言ってヘレナ様はニコニコと屈託なく笑う。涙が出そうだった。このままヘレナ様を抱き締めて、好きだと言えたら良いのに――――そう思いつつ、私は「ありがとうございます」と口にする。
「ううん、レイはいっつもわたしを甘やかしてくれるし、お世話になってるもの」
「――――――それだけですか?」
言いながら、私はハッと口を噤んだ。ヘレナ様は「え?」と目を丸くして、私のことを見つめている。
「なっ……何でもありません。どうか忘れてください」
本当はこんなこと、言うつもりはなかった。ヘレナ様が困るだけだと分かっているのに、ついつい欲が出たのだ。
ヘレナ様にとって、私はどんな存在なのだろう。
他に婚約者がいるのだし、ただの執事としてしか見られていないと分かっている。けれど、彼女の『特別』という言葉が私のそれと同じであればと願わずにはいられなかったのだ。
(情けない。こんなに感情をむき出しにして……愚かすぎるだろう)
ヘレナ様は小首を傾げつつ瞳を何度か瞬かせる。私はというと、忘れてほしいと言いつつ、話を逸らすことすらできない。どのぐらい時間が経っただろうか。ヘレナ様が徐に口を開いた。
「わたしにとってレイは、世界で一番大切な人だよ」
その瞬間、私は大きく目を見開いた。心臓が大きくドクンと跳ねる。ヘレナ様は頬を赤らめるでもなく、淡々とした様子でどこか一点を見つめていた。まるでご自身の感情と初めて向き合われているかのような、そんな面持ちだった。
「あのね……殿下との結婚は幼い頃に決まっていたことだし、聖女に生まれたからには必要なことなんだろうなぁって思ってる。だけど、結婚のせいでレイと会えなくなるのは嫌だなぁって。寂しいなぁって思うの。レイが『お待ちしておりました』ってわたしを迎えてくれるの、すごくすごく嬉しいから。レイのお陰でわたしは頑張れるし、笑っていられる。幸せで居られるの」
そう言ってヘレナ様は微笑んだ。目頭がグッと熱くなる。涙が零れ落ちそうだった。
(十分だ――――本当に、十分すぎる)
公には特別な存在になれずとも、ヘレナ様の中には私が居る。私のこの手でヘレナ様を幸せにできるのだと思うと、胸が熱かった。
「私は一生、お嬢様のお側に居ます。これから先何があろうと、地の果てまでも追いかけて、『お待ちしておりました』と、お嬢様を一番にお迎えしましょう」
そう言って私はゆっくりと頭を垂れる。ヘレナ様は小さく目を見開き、それから「うん!」と満面の笑みを浮かべた。月が仄かに私たちを照らす。
(私が必ず、あなたを幸せにします)
そう誓いつつ、私は静かに微笑むのだった。
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