『婚約もしていないのに婚約破棄ですか? 〜岩塩で殴れば目が覚めます?〜』

しおしお

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第二十九話 安定

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第二十九話 第二十九話 安定

 編入からひと月。

 王都は、拍子抜けするほど穏やかだった。

 市場は変わらず賑わい、肉屋は塩漬けを吊るし、魚屋は干物を並べる。岩塩の塊も、白く精製された塩も、以前と同じように売られている。

 値札も、変わらない。

 

「本当に変わらぬのだな」

 広場で年配の男が呟く。

「少なくとも、塩はな」

 

 人々の不安は、ゆっくりと薄れていった。

 旗は変わった。

 王の名も変わった。

 だが、味は変わらない。

 

 王城――いや、今はハライト王都行政庁と呼ばれる建物の執務室で、報告が上がる。

「治安、安定」

「税収、緩やかに回復」

「塩価格、変動なし」

 

 ヴィエリチカは報告書を閉じる。

「よろしいことですわ」

 

 彼女は急がない。

 制度の変更も、税の調整も、段階的に。

 岩は一気に削れば割れる。

 ゆっくりと削るから、美しい形になる。

 

「旧官僚たちの働きは」

「良好でございます」

 

 彼女は小さく頷く。

「守るべきものは、民の暮らしでございます」

 

 元王は、城の離れに移った。

 王冠はない。

 だが粗末な扱いでもない。

 朝は庭を歩き、昼は書を読み、夜は静かに過ごす。

 

 元王太子は、行政補佐として配置された。

 政治決定権はない。

 だが書類整理と現場確認の役目を与えられている。

 

「市場視察でございます」

 役人が告げる。

 

 彼は頷き、街へ出る。

 

 かつて王位を継ぐはずだった男が、今は塩袋を積む様子を見守っている。

 誰も石を投げない。

 罵声もない。

 

「殿……いえ」

 商人が言い直す。

「元殿下」

 

 彼は首を振る。

「ただの役目持ちだ」

 

 塩の袋を手に取り、指で確かめる。

 

「……良い塩だ」

 

 不純物と呼んだことを思い出す。

 だが今は知っている。

 それはミネラルだ。

 

 北方、ハライトの山。

 岩は変わらず削られている。

 

 ヴィエリチカは窓辺に立つ。

「安定は、ゆっくり訪れますの」

 

 側近が微笑む。

「民は落ち着いております」

 

「それで十分ですわ」

 

 征服でも、報復でもない。

 罰でもない。

 

 ただ帰結。

 

 塩は今日も白い。

 

 王国は消えた。

 だが民の暮らしは守られた。

 

 安定は、静かに根を下ろしていった。
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