上 下
49 / 61

四十八話

しおりを挟む
 十歳までとはいえ、シェリルの中には母と過ごした頃の思い出がある。
 忙しく中々家に帰ってこない父に、母はよく寂しそうな笑みを浮かべていた。だが、父が帰ってくる時には嬉しそうに笑い、細部にまでこだわって身支度を整えていたことをシェリルは覚えている。

「お母様は……お母様は、お父様を愛していらっしゃいました」

 母はよく父のことを話してくれていた。それは、中々父親に会えない娘のことを案じていたのもあるだろう。
 だが父のことを話す母はいつでも楽しそうに、好きな花を贈ってくれた時のことや、嫁いできたばかりの時にしでかしたドジで苦笑いさせてしまったことを語っていた。

 そこに愛がなかったとは、シェリルには思えなかった。

「お母様はいつだって、お父様のことを想っていました。遠方に出向く際には事故に遭わないようにと願い、自分が死んだ後もお父様が健やかに過ごせるようにと祈っていました」

 母は先が長くないことを悟っていたのだろう。自分が亡くなってからのことをよく心配していた。

『……あの人はいつか後妻を迎えることになると思うわ。周囲の勧めか、自分の意思でかはわからないけど……いつまでも一人でいることはできないもの。だけどね、シェリル。私はそれでもいいと思ってるのよ。あの人を支えてくれるのなら……それに、私がいなくなった後もあなたを見守ってくれるお母さんができるのなら、喜ばしいことだわ』

 いつだって、母は父のことを、シェリルのことを大切に想っていた。

「お母様のことを裏切ったのはお父様のほうではありませんか」

 母が大切に想っていた父の選んだ人だから。母は父の幸せを願っていたから。
 だからシェリルは複雑な気持ちに蓋をして、継母とアリシアを家族として寄り添おうと思っていた。
 だが結局、母の想いも、シェリルの気持ちも踏みにじられていたのだと、今ようやくわかった。

「子供のお前に何がわかる」
「わかりません。どうしてお父様がお母様を裏切ったのかなんて、私にわかるわけがないじゃないですか」

 忙しいからと帰ってこず、継母を迎えてからは事務的なやり取りばかり。
 父が母をどう思っていたのかも、父がシェリルに対してどんな気持ちを抱いているのかも、何もかもわからないことばかりだ。

「ですがそれでも、お母様のことはわかります。生まれてからずっと、私のそばにはお母様がいたのですから」

 亡くなる瞬間までずっと、母はシェリルに寄り添い、愛し、慈しんでくれていた。父のことは知らなくても、母のことはよく知っている。

「お母様はお父様のことを愛していた。それだけは間違いありません」
「うるさい!」

 バン、と机を叩く大きな音が響いた。シェリルは顔を歪ませながら怒鳴る父親に、言葉を詰まらせる。

「そんなもの、ここにいるために必死になっていただけだ! みすみす公爵夫人の座を逃したあいつを迎えるところなんてなかったからな。親にも見放されたあいつはここを追い出されるわけにはいかなかった。だから――」

 父の言葉はそれ以上続かなかった。

「よくわからんが、話はわかった」

 大きく扉が開かれるのと共にどこかずれた声と、「よくわからんのなら黙っていろ」と呆れたような壮年の男性の声が割り込んできたからだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

邪魔者というなら私は自由にさせてもらいますね

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:475pt お気に入り:3,675

毒花令嬢の逆襲 ~良い子のふりはもうやめました~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:106,529pt お気に入り:3,100

婚約破棄されましたが、幼馴染の彼は諦めませんでした。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,086pt お気に入り:280

処理中です...