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第3話

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 透き通った綿雲が澄んだ青空に浮かぶ。西から東へゆったりと漂うその様は、悠久の時の流れを表しているかのようだ。
 耳に届くのは、草木のさざめきと、そこに織り交ぜられた小鳥たちのさえずり。日々の喧騒など忘れ、いつまでもこうしていたい。そう思わせるくらいに、穏やかな午後。
 穏やかな……はずなのに。
「……いい加減飽きませんか?」
「いんや、全然」
 本を片手にベンチへと腰掛けたイザベラ。その隣には、足を組み、頬杖をついたイーサンの姿があった。
 二人は現在休憩中。もうすっかり恒例となってしまった構図だ。
 先ほどからとくに何をするでもなく、イーサンはじっとイザベラの横顔を見つめていた。まるで花でも愛でるかのごとく、無言のまま、ただじっと。
 イザベラからしてみれば、気が気ではないこの状況。『どうぞお構いなく』と言わんばかりのイーサンだが、そんな気分になど到底なれないし、文章など頭に入ってくるはずもない。
 はあー、と深く長い溜息を吐き、イザベラはぱたんと本を閉じた。今回はしっかりと栞を挟んでいる。
「……あの、一つよろしいでしょうか?」
「ん? ああ、いいぜ。一つでも二つでも」
「いえ、一つで」
「あ、そう」
 彼に対し、ずっと抱いていた疑問。いつかは解消したいと思っていたのだが、この際だからと思い切ってぶつけてみることにした。
 彼の緋色の瞳を見つめ、そっと口を動かす。
「どうして……私、なんですか?」
 雨粒が落ちるように、ぽたりぽたりと言葉を滴下する。普段ならもう少しはっきりと喋る彼女だが、さすがにこのときばかりは、そうもいかなかった。
 なぜ自分なのか。思い当たることなど何一つない。彼に気に入られる理由も、彼に見合うだけの価値も、自分は何一つ持ち合わせてはいないのに。
 イーサンの双眸に、不思議そうな……不安そうな自分の表情が映り込む。勢いで彼に訊いてはみたものの、その返答に、どこか恐怖を感じている部分があった。
 心臓がキリキリと音を立て、締め付けられるような感覚に陥る。思わず目を逸らし、俯いてしまった。
 そんな彼女に、彼が返した言葉とは。
「どうしてって言われてもなあ。一目惚れしたとしか言いようが……」
 まさかの直球どストレート。彼の性格を考慮すれば、想定内の表現……かもしれない。
 きょとんとしたイザベラの眼に、涼しげなイーサンのそれがぶつかる。
「……一目惚れ?」
「そう。一目惚れ」
「いつ?」
「先月」
「どこで?」
「遠征先で」
「……嘘」
「嘘なんか吐いてどーすんだよ」
 虚を衝かれ、イザベラはつい敬語を遣うのを忘れてしまっていた。当然そんなことなど微塵も気にしていないイーサンは、彼女の可笑しなリアクションに眉を下げて優しく笑う。
 しばしの沈黙。なにやら思案に沈んでしまったイザベラを、イーサンが静かに見守る。
 数十秒後。そうして彼女は、ある一つの解を導き出した。
「それって私の外見に……ってこと、ですか?」
 とはいえ、確証はないので自信もない。必然的に、声色にもその気色が反映されることとなった。
「んー。まあ、そうっちゃそうだけど、違うっちゃ違うかな」
「……どっちなんですか」
 なんとも煮え切らない返答に、しかめ面でこう零す。ここまできて、いったい何の話をしているのかさえもわからなくなってきた。完全にイーサンのペースである。
 一目惚れしたというのなら、外見しかあり得ないのでは? とりあえず自身を落ち着かせるためにも、心の中でそう自問した。
 恋愛に興味のないイザベラは、正直『一目惚れ』という衝動的な情感に関し、やや懐疑的だった。否定をするつもりはないけれど、上手く消化することもできない。
 しかし、次にイーサンから告げられたのは、彼女にとって、これまた予想外の言葉だった。
「気になったんだよ。あん時のお前さんの言葉が」
「あの時の言葉……?」
 あの時とは、すなわち、遠征していた時のこと。
 イーサンは付け加えるようにこう言ったが、実のところ、イザベラにはまるきり心当たりがなかった。彼女の記憶が正しければ、遠征先で彼と言葉を交わしたことは一度としてない。
 もちろん、彼もそこで任務にあたっていたことは知っている。所属先は違うけれど、知っている。『異名』を持つ彼は、いろいろな意味で目立っていたから。
 でも。
「思い当たることがないんですけど」
「まあ、そうだろうな。俺に直接言ったわけじゃねぇから」
 どうやら彼女の記憶は正しかったようである。だが、依然としてすっきりはできない。それどころか、ますます疑義が募るばかりだ。
「もしかすると、お前さんは覚えてないかもしれんが……」
 こう前置きすると、イーサンは居住まいを正した。そうして、イザベラの顔を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと語り始めたのである。
 花に恋した、あの瞬間の出来事を。

 それは先月のこと。国境に隣接する、ある小さな町での出来事だった。
 その町は、古くから鉱山町として栄えてきた。人口およそ五千人。男性のほとんどは、鉱山労働者として働いている。
 町の規模や面積は小さいが、採掘される豊富な資源のおかげで、経済は比較的安定していた。
 中でも注目すべきは、希少金属が採掘可能であるという点。技術革新が進み、希少金属の価値が急激に高騰している昨今において、国内のみならず、国外からも注目を集めるに至った。
 だが、それは必ずしも好ましい状況とは言い切れない。注目を集めるとは、裏を返せば、狙われる可能性があるということだ。もちろん、境界線の外側から。
 山脈で隔てられているとはいえ、陸路で繋がっている土地柄、その蓋然性はどうしても高くなってしまう。加えて、隣国とは非同盟関係。過去には何度か小競り合いも発生し、以来町には軍が駐屯するようになった。当然、あちらも軍を配備している。
 二十数年前に休戦協定を締結して以降、両者は静かに睨み合いを続けていた。
 けれど、あの日。ついにその均衡は崩れてしまったのだ。
 突如町を襲った一発の爆撃が、一瞬にして辺り一帯を火の海へと変えた。休戦協定を破棄した隣国が、夜討ちを仕掛けてきたのである。
 軍の規模や戦闘能力を考慮しても、こちらのほうが圧倒的に優勢だったが、それでもあちらの勢いは凄まじかった。周辺諸国から経済的な制裁を加えられ、兵糧攻めにされた彼らは、まさに破竹の勢い。捨て身の覚悟だった。
 町民にも部下にも、一人として犠牲者を出したくなかった現地の指揮官は、本部に応援を要請。そうして駆けつけたのが、イーサン率いる旅団と、イザベラの所属する師団だったというわけである。
「お前さん。あん時、後方の野戦病院じゃなくて、前線で治療にあたってただろ? だから、よく目にとまったってか、ひときわ目立ってたってか……」
 通常、戦場において、野戦病院は後方に構えるものだ。そこに医師や看護師を配置し、前線で負傷した兵士たちの治療を行わせる。
 そんな中。イザベラは、自ら戦火の激しい前線へと赴き、その場で迅速な処置を施したうえで、負傷者を後方へと送っていたのである。
「なんつーか、かっこよかった。武器振り回してる俺らなんかよりもよっぽど」
「! そ、そんなこと……! 少将たちが戦わなければ、あの場を収束することは不可能でした!」
「戦ってたのは、お前さんだって同じだろ? あの炎ん中駆けずり回って、怪我までして。ほんと、かっこよかったよ。……極めつけが、あの言葉だ」
「……?」
 灼熱の風に舞い上がる塵灰。その下を、バックパック片手に彼女は直走った。降りかかる火の粉も顧みず、瓦礫が散乱した戦場で、傷を負った人々を血眼になって探した。
 そして、彼女は見つけた。腹から血を流し、その場に倒れ込んでいる、一人の若いヒトの兵士を。
 幸いにも意識はあったが、銃弾が貫通した彼の腹部からは、ドクドクと生温かい鮮血が溢れ出ていた。

 ——しっかりして! 大丈夫よ。すぐに手当てするから。
 ——……あ、りがと、う……ござい、ま、す……。
 ——お礼なんて要らないから喋らないで。……何も心配しなくていいわ。絶対に助けるから。
 ——はや、く、行かな、けれ、ば……仲間、が……。
 ——何馬鹿なこと言ってるの!! こんな状態で戦えるわけないでしょう!?
 ——……かく、ご、は、できて、い、ます……我が、国、の、ため、な、ら……。
 ——……っ、命を懸けることと命を粗末にすることは違うのよっ!!

 美しくも烈々と轟いた怒号。イザベラは、重傷を負う彼を——まさに止血を行っている目の前の彼を——なんと怒鳴り飛ばしたのだ。それから手際よく一時的な処置を施すと、彼を後送するよう衛生兵に指示し、息つく間もなく次の場所へと駆けていった。
「あっ……」
「覚えてたか?」
「……、……はい」
 前線にほど近い場所で指揮を執っていたイーサンは、少し離れた場所から事の一部始終を見ていた。『鬼神』の異名を持つ彼でさえも圧倒されるほどの鋭い気迫。背筋の伸びる思いがした。
 叫びにも似た彼女の言葉は、今もなお、彼の心に深く突き刺さったままだ。
「純粋にすげぇなって思った。医師としての腕だけじゃなく、その……スタンスっての? ここまで肝が据わってるヤツも、なかなかいねぇなって。だから気になったんだよ、あの言葉の真意が。……お前さんをあそこまで駆り立てるものは何なんだろうってな」
「!」
 一連の予期せぬ言葉に、イザベラの胸は大きく波打った。
 時間にしてわずか五分足らず。その間の、しかも他者とのやり取りだけで、イーサンはイザベラの内側に触れたのだ。それも、心奥にかぎりなく近い部分に。
 イザベラの体内で鳴り響く鼓動。意識すればするほど、彼女の胸は熱くなっていった。
 この感情を的確に表現する言葉が見つからない。驚いているのか、落胆しているのか、はたまた喜んでいるのか……。
 けれども、いずれにせよ、彼に答えることはできなかった。彼の疑問に答えることは、すなわち、自身の過去を曝け出すということだ。そんなこと、できるはずない。
 あの時、『駆り立てられた』という意識はなかった。自身に課せられた任務を、当然とばかりに遂行しただけ。
 だが、自身を『駆り立てていた』その正体には、思い当たる節がある。
 今から二十年前。一度は喪いかけた命を繋ぎ止めてもらったが、自身のスタンスに大きく作用しているのだろうということは、なんとなく知覚できた。
「……私、は……」
 重たい口をこじ開け、喉の奥から声を絞り出す。言いたくない……言うつもりもないのに、何か言わなければという義務感が先行した。
 そのあとに続く言葉など、ありはしないのに。
 ところが、イザベラのこの様子を目にしたイーサンは、彼女の義務感を拭い取るように、優しくこう言った。
「いや、話さなくていい。無理強いするつもりはねぇよ。……ただ、お前さんが作ってくれたせっかくの機会だからな。俺の気持ちは、ちゃんと伝えておきたかった」
「っ……」
 この感情を的確に表現する言葉が見つからない——先ほどと似たような情動に吸い込まれそうになったイザベラだったが、先ほどとは比べものにならないくらい心がざわついた。
 胸だけではなく、顔までもが熱を帯びてゆく。肌を撫でる風が、ひどく心地好い。
 また一歩。
 夏が、近づいてくる。
「あ」
「え?」
 不意に、イーサンが一つだけ音を発した。
 何か気になることでもあるのだろうか。イザベラの左肩に視線を固定すると、逞しいその右腕を、ぬっと伸ばしてきた。
「ちょっとじっとしてろよ」
「?」
「……ん。取った」
「え? あ、すみません」
 彼は、彼女の肩に付いていたのだろう何かを取り除いたようだった。右手を彼女の体から離すと、つまんだそれをぱっと解放してやる。
「葉っぱか何か、ですか?」
 ここへ座ってからずっと、頭上では枝葉がさざめいていた。ゆえの質問、だったのだが。
「違う。蛾」
 イーサンのこの回答に、
「◎△※×●&%#!?」
 イザベラは、発狂した。
「え、もしかして虫苦手な——」
「取って取って取ってぇぇぇ!!!!!」
 怒っているのか悲しんでいるのかよくわからない叫び声をあげながら、イザベラはイーサンの両腕をガシッと掴んだ。このか細い腕のどこにこんな力が潜んでいたのか。いわゆる火事場の馬鹿力というやつだ。
 全力で掴みにいったため、彼女の上半身は、彼のほうへと勢いよく前傾した。
「うぉわっ!! だから取ったっつったろ落ち着けよ!!」
「蛾って夜行性じゃないんですかっ!?」
「昼行性のヤツだって普通にいるわっ!!」
 我を忘れ、喚くイザベラを必死に支えて宥める。十数秒前に放してやった当の蛾は、素知らぬ態度で木々の間へと飛んでいった。
 虫が苦手な女性は珍しくないだろうが、ここまで嫌悪感を余すところなく呈する女性は珍しいのではないか。少なくとも、自分は今の今までお目にかかったことなどない。——イーサンは、そう心の中で嘆息を漏らした。
 そんな二人とは対照的に、二人を取り巻く環境は相も変わらず和やかだった。
 流れる雲も、風にそよぐ草木も、歌う小鳥たちも、何一つ変わってはいない。
「……」
「……」
「……」
「……落ち着いたか?」
「……はい。…………っ!?」
 イーサンにしがみ付いたまま完全に放心していたイザベラだったが、彼に声をかけられたことにより、その心は戻ってきた。……怒涛のごとく、戻ってきた。
 掴んでいた手を彼の腕からぱっと放し、その場から飛びのく。もう少しで足をくじくところだった。
「わ、わわ、私、もう行かないと!! すみませんでしたっ……!!」
「あっ、ちょっ——」
 そして、腰を直角に折り曲げて力いっぱい挨拶すると、そのまま方向を転換し、彼の前から走り去った。何か言いかけた彼に目もくれず、一目散に棟の中へと駆け込む。
 青い絨毯の上でひとしきり息を弾ませ、なんとか呼吸を整えた。
 心臓が痛い。胸が苦しい。
 みっともない姿を彼に見られてしまった羞恥心に苛まれるも、この胸の高鳴りはそれだけが原因ではなかった。
「……なんなのよ、これ……」
 頬が、耳が、体中が熱い。
 いまだ手のひらに残る逞しい腕の感触と熱に、彼女の中で何かが急速に芽生え始めていた。
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