上 下
5 / 13

第4話

しおりを挟む
 ——……ちゃん……

 黄昏の色に包まれる空。この時刻特有の忍び込むような静寂が、じわりじわりと街に迫っていた。
 吹く風はよりいっそう冷たさを増し、漂う空気には侘しさが滲んだ。

 ——……い……ちゃん……

 しかし、この場所においては、もはやそれらが主張する余地など寸分もなかった。
 街の中心部、賑わう繁華街。人々は皆、各々の目的を遂げるため、せわしげに通りを往来している。一日の内で、店の出入りが最も激しい時間帯だ。
 そんな中、彼らもまた、周囲と同様にメインストリートを並んで歩いていた。
「——おいっ、姉ちゃん!」
 思わず発してしまった大きな声。
 先ほどから、アルドはイザベラに向かって幾度となく呼びかけていた。にもかかわらず、一切の反応を示さない姉に対し、ついに痺れを切らしてしまったようだ。その進行を阻むように、姉よりも一歩前に体を突き出す。
 案の定、姉はハイヒールを履いた美脚を止めた。
「……なに?」
「『なに?』じゃない! だからどうすんだって訊いてんの!」
 やっとイザベラから返事がかえってきたのだが、どうやらそれは、アルドが欲していたものと異なっていたらしい。彼女に悪びれる様子はなく、それどころか頭上に疑問符を飛ばす始末。これには、さすがのアルドも盛大に溜息を吐いた。
 週半ばのこの日。姉弟は、あるものを見繕うため、ともに繁華街を訪れていた。
 姉は職場から、弟は学校から、それぞれ待ち合わせ場所へと直行。とくに目的地を定めることなく、歩き始めて約五分が経過した。
「どうしたんだよ、ぼーっとして」
 なんか変——約束の場所で落ち合った瞬間、アルドがイザベラに対して抱いた印象だ。落ち込んでいるわけでもなければ、機嫌が悪いわけでもない。何か考え込んでいるふうではあるが、答えを出そうとしているようには見られなかった。
 長年彼女の弟をやっているが、姉のこんな姿は珍しい。
「具合悪いのか?」
「え? ううん、大丈夫よ。……で、どこに行くの?」
「だからそれを訊いてんだって……」
 右の手のひらで顔を覆い、ずーんと項垂れる。『全然大丈夫じゃないだろ!』という言葉は、心の中にそっと仕舞っておくことにした。
「……まあ、いいや。とりあえず歩こ。ブラブラしてたら、何かいいもの見つかるかもしんないし」
 姉の様子は気になるが、体調に問題がないのならそれでいい。……それだけでいい。
 イザベラのバッグをさり気なく手に取ると、アルドは再び通りを歩き始めた。彼女が無理なくついてこられるように、歩幅を狭め、速度を落とす。
 相変わらず、イザベラは足だけを動かしていた。前を向いてはいるが、向いているだけである。『心ここに在らず』といった感じだ。
 彼女がこうなってしまった原因は、間違いなく、例の緋い彼にある。
 あの一件以来、彼女の頭の中は、彼でいっぱいになった。寝ても覚めても彼の顔や声が頭から離れない。彼の腕を掴んだ瞬間のことを思い出しては、一人で赤面してみたり。
 もはやどうすればいいのかわからないし、どうしたいのかもわからない。ただ、もう一度彼と話をすれば、この感情もやもやの正体が判明するだろうかと、漠然と思ったりもした。……が、実のところ、あれから一度も彼とは会っていないのだ。
 将来有望な少将だ。単純に忙しいのだろう。彼は、本来自分なんかに時間を割いていいような人物ではない。
 ほっとしたような、冴えないような、なんとも形容しがたい胸の内。
 隣を歩く弟の耳に届かないよう、イザベラは小さく嘆息を漏らした。

 街路灯が、そこかしこで、ぽうっと浮かび上がる。まるで蒲公英の綿毛のように。
 繁華街といえど、けっして煌びやかではない。古き良き伝統を受け継いだ、情緒あふれる温かな街並みだ。
 姉弟がここへ来た理由。それは、間もなく結婚記念日を迎える両親へのプレゼントを購入するため。
 毎年恒例のイベントゆえ、二人が揃ってプレゼントを選ぶのも、今では恒例となっている。両親は『気を遣わなくていい』と言うけれど、日頃の感謝の気持ちはちゃんと形にして伝えたい。境遇が境遇なだけに、そう強く思ってしまうのは、やはり仕方のないことだろう。
「……」
 クイン家に引き取られてすぐ、イザベラは両親とこの場所を訪れた。
 生まれて初めてのショッピング。人混みに圧倒され、おどおどしながら身の置き所を探した。
 目に映るもの。耳に入るもの。そのすべてが目新しくて耳新しくて……なんだかとても怖かった。

 ——おいで。

 足をすくませ、俯いていたイザベラに、差し出された二つの手。躊躇いがちに応えた幼い彼女の手を、二人はキュッと握り締めた。
 それは二十一年前、彼女が初めて『父』と『母』と呼んだ日の出来事である。
「何がいいかなー。あんま高い物だと逆に怒られそうだからな」
 少々感慨に耽っていると、隣を歩くアルドが独り言を言った。というより、これは暗にイザベラに回答を求めているのだろう。そう察した彼女も、やっと本格的に頭を働かせながら辺りを見回した。
 ブティックにパーラー、宝石店に雑貨店。ありとあらゆる種類の店が立ち並んでいるが、とくにこれと言って目を惹く店はなかった。けっして店側に魅力がないわけではない。単に彼女の気持ちの問題だ。
 そんなとき。
「あ……」
 とある店が、不意にイザベラの目に留まった。
「なに? なんかいいもの見つかった?」
 立ち止まり、視線を一点に集中させる姉に、弟が問いかける。
 姉の視線の先には、
「……花屋?」
 一軒のフラワーショップ。
 白木で造られた華美ではない外観とは裏腹に、ショーウィンドウには色鮮やかな花々が所狭しと展示されていた。周囲に比べると、やや小ぢんまりとした、シックで童話テイストな店舗である。
「こんなところに、こんな可愛らしいお店あった?」
「いや、オレの記憶が正しかったら——」
 最近ご無沙汰していたとはいえ、幼い頃から何度も通った繁華街。二人とも、店の配置はだいたい把握している。
 そう。この場所は、こんな洒落た花屋などではなかった。アルドの記憶では、確か——
「——植木屋……じゃなかったっけ?」
 貫禄のある古風な植木屋だったはずだ。それも老舗の。
「お店畳んじゃったのかしら?」
「畳んだってわけでもないんじゃない? ほら」
 そう言ってアルドが指差したのは、入り口付近の壁にかけられた縦長の看板。そこには、『庭木の剪定承ります』の文字が、堂々と黒く太字で書かれてあった。大人しいメルヘンチックな外観とのアンバランスさが、なんとも言えない。
 しばらく佇んでいた二人だったが、とりあえず興味本位で立ち寄ってみることに。
 カランコロン——
 扉を開けると、涼しげなベルの音色が店内に響いた。それと同時に漂ってきたのは、幾種類もの甘い香りと、ひんやりとした冷たい空気。花を扱っているからだろう。空調には、かなり気を遣っているらしかった。
 内装は、白や黒やこげ茶といった、落ち着いた色味でまとめられていた。商品のディスプレイも大胆かつ丁寧で、その中でもとくに魅力的だったのはフラワーデザインだ。制作者の優しく朗らかな人柄に直接触れられるような、そんな作品だった。
「らっしゃいっ!!」
 突如、花に見入っていた二人の鼓膜に、男性の声がぶち当たった。思わず肩がびくっと飛び跳ねる。
 二人が揃って振り向くと、カウンターの内側に一人の中年男性が立っていた。ヒトだった。入店した彼らに気づき、店の奥から出てきたらしい。
 四角い顔に並行した糸目。手拭いが巻かれた角刈りの頭。布からちらりと覗いた毛髪は黒々としている。どこからどう見ても『職人の漢』だ。
 ……なんというか、ものすごく言いづらいが、この場所にはマッチしない風貌である。
「プレゼント用ですかいっ!!」
 おまけに声がでかい。すこぶるでかい。あれが地声、なのだろう。
「あ、えっと……はい」
 勢いのある店主の問いかけにやや狼狽しながらも、イザベラは頷いた。
 入店した際は、ここで購入することを決定していたわけではない。ただただ興味が先行しただけだ。
 けれども、素晴らしいフラワーデザインを目の当たりにし、今ではかなり購買意欲が高まっている。それは、アルドも同じようだった。
 動植物好きな両親のことだから、きっと喜んでくれるはず。これが、姉弟共通の考えだ。
 唯一気になるのは、デザインしているのが眼前の彼なのか否か……ということ。もちろんそうだとして不都合などは微塵もないし、意欲がそがれることもない。少しばかり(いやかなり)びっくりはするかもしれないが。
 しかし、姉弟のこの疑問は、すぐさま解消された。
「今、娘が配達に出てましてね! お急ぎでなけりゃあ、ちと待っていていただけませんか! すぐに戻ってくると思いますんで!」
 どうやら、店内に置いてある作品はすべて、彼の娘が手掛けたものらしい。彼の娘は、フラワーアーティストとして創作活動をする傍ら、店の経営にも携わっているのだそう。
 アルドの記憶は正しかった。植木屋だったこの店は、娘のために、花屋として生まれ変わったのだ。
「どなたへのプレゼントで?」
 カウンターから出てきた彼——棟梁が、姉弟のもとへとやってきた。見れば見るほど『フラワーショップ』とは縁遠い格好である。とはいえ、彼の人柄の良さは、もう十分に知ることができた。
「両親に。……結婚記念日が、近いので」
「そうですか!! そいつぁめでてぇ!!」
 イザベラの返答に、棟梁の口からは今日一番に張りのある声が発せられた。喜色を浮かべ、心の底から祝言を贈る。
 まるで自分のことのように喜んでくれる彼に対し、姉弟もまた顔を綻ばせた。『親にとってこれほど嬉しいことはない』との言葉には、たまらず胸が熱くなった。
 父と母の子どもだと、認めてもらえた気がした。
 ほかに客もいなかったので、棟梁と話し込んでいると、まもなく彼の娘が帰ってきた。彼とは似ても似つかない、色白で清楚な女性だった。父曰く、娘は亡くなった母親似なのだそうだ。
 姉弟が改めて依頼すると、彼女は快く引き受けてくれた。そうして手際よく作ってくれたのは、鈴蘭のフラワーアレンジメント。鈴蘭は、今の時期が一番見頃らしい。
 淡いピンクのバスケットの中で、鈴蘭の花弁が淑やかに揺れている。
 ——ありがとうございました。どうぞお気をつけて。
 店の外までわざわざ見送りに来てくれた父娘おやこに頭を下げると、姉弟は帰路に着くため、再度通りへと戻っていった。
「よかったな。いいもの見つかって。……いい出会いもあったし」
「そうね」
 イザベラが一歩を踏み出すたび、腕の中で鈴蘭の花弁が小さく揺れた。なんだかとても愛おしい。
 素敵な出会いに感謝し、両親の喜ぶ顔を想像しながら、足取り軽やかに家路を歩く。
 だが、この数分後。
「っ——!!」
 イザベラの思考は、一瞬にして停止してしまった。
「どうかした?」
 往来の真ん中で突然立ち止まったイザベラ。そんな姉に、弟は怪訝そうな眼差しを向ける。姉は、どこか一点を見つめたまま、何も喋らなかった。その表情は、心なしか強張っている。姉の視線の先がどこに繋がっているのか定かではないが、とりあえず、自身もそちらの方角に目を遣ってみた。
「……ん? あの人確か——」
 アルドの視界に映った(というよりも、視界を占領した)のは、とある竜人男性。私服を着用していたが、もはやこの国でその巨体を知らぬ者はいないだろう。
「オランド将軍……だよな?」
 なんと、今まさにイザベラの脳内を占拠している、イーサン・オランドその人だった。
 仕事のときはオールバックにしている髪も、プライベートだからか、緋色の目に前髪が垂れかかっていた。彫りの深い顔立ちが、ひときわ引き立って見える。
 目を見開き、固まる姉をよそに、弟は『やっぱかっこいいなー。憧れるなー』などと暢気に宣っている。
 目測で三十メートルは優にあるだろうという彼との距離。周囲との身長差が甚だしいために、彼のことはすぐに認識できるが、彼が姉弟に——もといイザベラに気づく様子はない。
「姉ちゃん、一応職場同じなんだろ? 将軍と話したりとかしないの? ……姉ちゃん?」
「……なんでもない。帰りましょう」
「え? あっ、ちょっ……そっち遠回り!」
 引き留めるアルドを無視して、イザベラは踵を返した。人混みを縫うように、必死でヒールを鳴らす。
 遠回りであることは承知している。けれど、あのまま足を進めていれば、間違いなくイーサンと顔を突き合わせることになってしまう。……嫌だ、絶対に嫌だ。
 直前までイザベラが硬結していた原因。それは、彼自身ではなく、彼の隣にいたある人物の存在にあった。
 彼の隣に、女性がいた。小柄で、まるで人形のように可愛らしい、竜人の女性。
 親しそうだった。とても。彼の腕を強引に引っ張り、何かをせがむ女性に、彼は呆れながらも優しく応えていた。
 彼のことがよくわからない。彼の考えていることも、彼が教えてくれたあの気持ちも。
 だけど、一番わからないのは、ほかの誰でもない、

 自分自身だ——。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ハヤテの背負い

青春 / 連載中 24h.ポイント:681pt お気に入り:0

記憶がないっ!

青春 / 連載中 24h.ポイント:2,470pt お気に入り:2

そこまで言うなら徹底的に叩き潰してあげようじゃないか!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:4,836pt お気に入り:46

出雲死柏手

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:1,065pt お気に入り:3

mの手記

現代文学 / 連載中 24h.ポイント:2,037pt お気に入り:0

おばさんは、ひっそり暮らしたい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:50

親友彼氏―親友と付き合う俺らの話。

BL / 完結 24h.ポイント:752pt お気に入り:21

赦(ゆる)されぬ禁じられた恋

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,192pt お気に入り:4

9歳の彼を9年後に私の夫にするために私がするべきこと

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,507pt お気に入り:105

処理中です...