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エピローグ

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 実家に到着する頃には、もうすっかり陽が傾いていた。
 頭上に広がる燃え立つような茜色。遠くでは、黄金色に輝くちぎれ雲が放射線状に散在している。
「ただいまー」
 イザベラは、インターホンを鳴らすと同時に玄関の扉を開けた。ホールに反響した澄んだ声。勝手知ったる我が家だが、嫁に出た身ゆえ、一応来客に近いプロセスを踏んでみる。
「おかえりなさい」
 すると、いつものようにシルビアが出迎えてくれた。
 ブロンドのボブヘアーに青紫色バイオレットの瞳。還暦を過ぎたというのに、相変わらず母は可愛らしい。
「……あら。それ、なあに?」
 母が投げかけた疑問符の先には娘の右手。そこにぶら下がっているのは、ダークブラウンのシックな紙袋だった。
 シンプルでお洒落なデザインのその中には、イザベラお気に入りの焼き菓子が入っている。
「クッキーよ。また三人で食べて」
 彼女が昔から愛してやまない、例のバタークッキーだ。
 ちなみに『三人』の内訳は、シルビアとアルド、それからアルドの妻フィリアである。
「もう。そんなことしなくていいって言ってるのに」
 来るたびに何か手土産を携えてくる娘に、母は毎回こう物申している。
 要は、実家に気を遣う必要などないということを言っているのだが、子どもたちの面倒を見てもらっている立場からすれば、やはりそういうわけにもいかず。
 娘が少々強引に手渡すと、母は渋りながらも受け取ってくれた。
 娘の好みは母の好み(逆もまた然り)。夕食後にみんなで頂きましょう、という妥協案を提示してきた母の表情は、どことなく春めいていた。
「……あの子たちは?」
 そういえば、とイザベラは辺りを見回した。子どもたちの気配がまったくしない。
 やんちゃ盛りの息子が二人に、お転婆盛りの娘が一人(息子二人はどちらかといえば母親似のヒト。そして娘は父親のにそっくりの竜人だ)。
 あの強烈な存在感たるや尋常ではないはずなのに、微かな物音すら聞こえないとはこれいかに。
 怪訝そうに訊ねた娘に、母が答える。
「三人なら、二階のあなたの部屋で寝てるわよ」
 遊び疲れちゃったみたい、と付け加えると、母はキッチンへと爪先を向け、歩き始めた。
 二時間ほど前まで起きて遊んでいた三兄妹だが、妹のエリザが入眠したのをきっかけに、どうやら双子の兄たちもつられて眠ってしまったようだ。
 なるほど、とイザベラは納得した。それならば、この静けさにも頷ける。
 疑問が解消したところで、夕飯の準備をするべく、自身も母のあとへ続く。
 母曰く、今夜のメインディッシュはキッシュらしい。
 たっぷりのホウレンソウに、とろとろ濃厚な生クリーム。
 母の味を思い出しながら、慣れた足取りでキッチンへと入っていった。
「……えっ!!」
 そんな彼女の第一声。
「もう準備ほとんどできてるじゃないっ!!」
 一から手伝う気満々だったにもかかわらず、なんとすでに材料は整っていた。必要な器具はすべて用意され、野菜も種類ごとに丁寧に切り揃えられている。
 あとは実際に加熱調理していくのみだ。
「そうなの。フィリアちゃんが手伝ってくれて。……っていっても、ほとんどあの子が一人で手際よくぱぱっと……」
「えぇっ!? もー、お腹大きいんだからゆっくりしてくれればいいのに……」
「何かしてるほうが落ち着けるからって……子どもたちが寝るまでは、ずっと一緒に遊んでくれてたのよ」
「……なんていい子……」
 アルドは、学生時代から交際を続けていた三歳年下のフィリアと、二年前に結婚した。
 明るく穏やかな器量のいい女性で、弟にこんなにも女性を見る目があったのかと、姉はいたく驚嘆した。
 現在、彼女は第一子を妊娠中。今は産婦人科で定期検診を受けている最中らしく、アルドの仕事が終わり次第、一緒に帰宅することになっているのだそう。
 出産予定日は今年の夏。実は、あのフレイム侯爵夫妻も、この秋に出産を控えていたり。
 つい先日、ジークと直接話す機会のあったイザベラは、ディアナの近況について尋ねてみた。母子ともに経過は順調だと嬉しそうに話す彼の顔は、夫のそれであると同時に、父親のそれでもあった。
 未来への希望。煌々とした眩しさにそっと目を細めながら調理していた、その矢先。
「……でもほんと。結婚に興味もなかったあなたが、三人も子ども産むなんて思わなかったわ」
 不意に、同じく隣で調理していた母から、こんな言葉をかけられた。
 母の意図を瞬時に理解し、眉を下げた娘が返したのは、『私が一番びっくりしてるわよ』という、にべもない返事。
 父が亡くなってから、およそ半年後。
 交際期間が短かったゆえ、母にはいきなり結婚の報告をすることとなった。言わずもがな、大きな瞳をさらに大きくさせて至極驚かれてしまったわけだが、それ以上に喜び祝福してくれた。
 後にアルドから、母が自分の結婚をずっと待ち望んでいたということを聞かされた。
 母に対し、心配をかけてしまったと反省する一方で、何も言わずに見守っていてくれたことに心から感謝した。
 母には、ただただ頭が下がるばかりだ。
 父に対しても、子どもたちに対しても、母はいつも笑っていた。想像を絶するような苦労もあったはず。それでも、母が笑顔を絶やすことはなかった。
 だが、あの日——父が亡くなったあの日。イザベラは、偶然見てしまった。
 暗がりの中、両手で顔を覆い、一人声を押し殺して泣いている母の姿を。
 後にも先にも、泣いている母を見たのは一度きりだが、そのときの母の涙を、イザベラは今でも鮮明に覚えている。
 母は、家族のために、いつも明るく気丈に振る舞っていたのだ。
 母のこの強さに、どれほど支えられてきたことか。
「……ありがとう、お母さん」
「あら、なあに。子どもたちのこと? 気にしなくていいのよ。可愛い可愛い孫ですもの」
 ふわりと微笑む母に、同じような笑みを返す。
 お世辞にも似ているとは言えない相貌。でも、いつか自分も、母のような『母』になりたいと願っている。
 自身の愛する、家族のために。

 調理し始めること約三十分。
 突如、インターホンの音が鳴り響いた。
 思い当たる人物はただ一人——イーサンだ。
「主人が到着したみたい。ちょっと行ってくるわね」
「ええ。いってらっしゃい」
 夫を出迎えるため、作業をいったん中断して玄関へと向かう。
 思ったとおり、そこには蒼いロングコート姿の巨漢が佇んでいた。
「お疲れ様。遅かったのね。急用?」
「いや。そういうわけじゃねぇけど」
「……もしかして、それを買ってたの?」
「っそ」
 イーサンの胸元には、美しくアレンジされた花の寄せ植えが抱え込まれていた。
 そこそこ大きいはずなのに、彼の体と比較すると、ミニチュアサイズと見紛うほどだ。
「気を遣わなくていいのに」
「さすがに手ぶらで来るのは気が引けるからな。何か食べるものにしようかとも思ったんだが、そっちはお前が用意すると思ったし」
「……なんでよ」
「買ってきたんだろ? バタークッキー」
「買ってきたけど」
 夫に食い意地を指摘され、面白くないとばかりにイザベラは頬を膨らませた。しかも品物まで的確に言い当てられてしまうのだから、ますます面白くない。
 そんな妻に、夫は苦笑まじりに寄せ植えを差し出した。
「……」
 夫から手渡されたそれを、まじまじと見つめる。
 妻のその目には、驚きの色が滲んでいた。
「鈴蘭……どうして?」
 夫が購入してきたのは、なんと鈴蘭の花だった。純白の可憐な花弁が、右に左に愛らしく揺れ動いている。
 妻の質問に対する夫の答え——それは、妻にとって、まったく意想外なものだった。
 心が、震えた。
「お前、いつもこの時期になるとわざわざ買ってくるじゃん。庭にも生えてんのにさ。それに、こっちはこっちでお袋さんとアルドが飾ってるみてぇだから、なんか特別な花なのかなって思って」
「……っ」
 イザベラとアルドが両親に贈ったあの年以来、クイン家にとって、鈴蘭は特別な花となった。
 誰が言い出したわけでもないが、この時期になると、必ず家に鈴蘭を飾るようになっていた。もしかすると、鈴蘭の花を通して、亡き父との思い出を共有しているのかもしれない。
 けれど、まさかイーサンがそこまで考えていてくれただなんて思ってもみなかった。はっきりとした理由を説明することができないゆえ、鈴蘭に関して、イザベラはとくに何も話していなかったのだ。
 イザベラが改めて謝意を示すと、イーサンはその大きな手のひらで頭を撫でてくれた。
 きっと、彼のこの優しさが、彼の強さたる所以なのだろう。
 夫への想いが、さらに大きく形を成した。
 そのとき。
「パパー! ママー!」
 階上から、夫婦を呼ぶ愛らしい声が飛び込んできた。——娘のエリザだ。
 目が覚めたのだろうか。両親の存在に気づき、目下廊下を走っているようだった。
 全力で。
 長兄ディランの『危ないよ!』という妹に対する忠告も、両親は聞き逃さなかった。
 そして。
「うわぁぁぁぁぁんっ!!!!!」
 屋敷を震撼させるほどの叫喚が、両親の耳をつんざいた。
「転んだな」
「転んだわね」
 しかし、両親はいたって冷静だ。さすがはベテラン夫婦。いたるところで肝が据わっている。
 ほどなくして、今度はディランの呼び声が二階から流れてきた。
「お父さーん、お母さーん、エリザが転んで泣いたー」
 こちらも冷静な報告。さすがは長兄。精神的な余裕さえ感じられる。
 両親が想像するに、エリザがうつ伏せの状態のまま起き上がらないのだろう。こういうとき、娘は梃子てこでも動かない。泣き止めばすんなり自分から起き上がるのだが、泣いている間は梃子でも動かない。
 よって、床から引き剥がす大人の手が必要なのである。
「はいはい、聞こえてるわよー」
「俺が行くわ。お袋さん、一人で夕飯準備してんだろ? 早く手伝ってこい」
「わかったわ。……あっ、コール起こしてね。あの子絶対まだ寝てるから。起き上がるまでにすっごい時間かかるから」
「お前の部屋?」
「ええ、そうよ」
「りょーかい。『今すぐ起きねぇと母さんが叩き起こしに来るぞ』っつったら、たぶん飛び起きるわ」
「なによ、それ」
「お前のが怖いってこと」
「もう」
 再度頬をぷっくりと膨らませ、夫をジト目で睨みつける。
 とはいえ、夫からしてみれば、そんな妻の態度でさえも愛おしくて愛おしくてたまらないのだ。……八年前から、ずっと。
 フッと笑って額にキスを落としてやれば、妻の頬の膨らみはすぐさま解消された。
 キスなんて、もう何度交わしたかわからない。けれども、何度交わしても、妻の頬がほんのり薄桃色に染まるのは、今も昔も相変わらずである。
 イザベラは、持っていた寄せ植えを飾り棚の上にそっと乗せた。翠緑と純白のコントラストが、象牙色アイボリーの壁紙によく映える。
「ねえ、貴方」
「ん? どした?」
「……貴方と結婚できて、私ほんとに幸せよ」
「ははっ、そりゃ光栄だな。……俺もだ」
 音もなく、ただ触れるだけの口づけ。
 だがそれは、まるで映画のワンシーンのように美しかった。
 必ず幸せにする——父の葬儀のあと、彼はそう約束してくれた。
 まだまだ夫婦としての人生は始まったばかりだ。これから先、予想もつかないような苦難に見舞われるときが訪れるかもしれない。はかりしれない痛みを伴うかもしれない。
 でも、それでも、彼と一緒なら乗り越えてゆけると——家族と一緒なら乗り越えてゆけると——迷わず信じられるほどに、今の自分は幸せなのだ。

 歩き出した二人の後ろで、純白の鈴蘭リリーベルが小さく震えた。


 幸せを、鳴らした。


 <END>
 
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