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無理ですよ
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ニコラは、定時で帰れたというのに、今日一日、何をしていたのか記憶が曖昧だ。
体は働き続けていたが、ずっとミアが言ったことを考えていた。
「ですから、それは娼婦熱だと言っております。馴染みの娼婦が出来ると、お客さんはそれが恋なのだと錯覚するそうですよ」
帰宅して、再び愛を告げると、朝と同じ事を返された。
「錯覚……そんなはずはないのだが」
ニコラにも恋をした経験はある。
花街で娼婦との遊びに夢中になったこともあるが、それが恋とは違うものだとわかっているつもりだ。もちろん、相手が娼婦だろうが普通に恋することもあるだろうとも思う。
「熱病のようなもので、長くは続きません。でも、早く治らないと、毎晩娼婦を買いに来て、お客さんが破産したり、仕事が手につかなくて、やっぱり破産したりします」
風邪の子どもを看るように、ミアがニコラの額を触る。熱はないようだと頷く。
ミアはどうやら本当に娼婦熱が熱病のようなものだと思っているようだ。
「いや、しかし、これは恋に違いないんだ」
「ニコラ様でも罹るのですね……別に悪いものではないと聞きました。治った後は良いお客さんになるんだそうで」
「いや、だから……」
「ニコラ様はわたしになかなか仕事させてくださらなかったから、今頃になって罹ったのかもしれません」
病人に向けて見せる労りの眼差しを受けて、ニコラは何だかよくわからなくなってきた。
「この気持ちがまやかしなはずがない。たしかに私はミアに恋心を抱いているし、ミアが幸せであればよいと思っている。できればずっとそばにいたいと……」
自分の気持ちに間違いがないと思う一方、ミアの迷いの無い答えと表情に、ニコラはどんどん自信がなくなってくる。
「ずっとって、私には年季がありますし……」
「ミアが望むなら、私は、次の年季も買い取るつもりだ」
それを聞いてミアは慌てて首を振る。
「ですからね、娼婦熱はそういうふうにお客さんを破産させるんです。私なんかのために何度も借金だなんていけません」
「私は本気だ!」
「……それは、まあ、ありがとうございます。一時の辛抱です、じきによくなりますよ」
(恋を知らないのは、ミアのほうか?)
きっと娼婦熱のことも娼婦仲間に吹き込まれただけに違いない。客が娼婦に入れ込みすぎるのを防ぐためにそのように教えるのだろう。
「だから……」
「そうだ! 口付けをいたしましょう。色々考えるより気がまぎれるかもしれませんよ。私も明日から城の仕事が再開して早いので、本当に少しだけですが」
なんだか本当に病気になったような気になって、ニコラは萎れてソファに沈み込んだ。
(いくら手を伸ばしても、手を振り払われてはどうにもならないか……)
ミアは頑としてニコラの恋心を認めないのに、寄り添ってニコラの頭を抱いてくれる。
なんだかうやむやにされている感は否めないが、ミアのぬくもりに縋りたくなって、ニコラは仮病を使うことにした。
「ミアがしてくれるのか?」
「お姫様でした方がいいですか?」
「いや、ミアがいいんだ」
ミアは小さな体で、母性を滲ませ、ニコラを宥めようとしてくれる。
「ミアが好きなんだ……」
全くミアに届いていないのが分かっていても、ニコラはそう告げるほかなかった。
「そうですか。ニコラ様にそう思っていただいて、有難いことではありますけどね」
ミアは隣に座り直し、両手でニコラの手をとると、清潔に整えられた指先に口付けた。
手の甲にも一つ、大きな手を裏返してざらついた手の平にも一つ。
慈しむようなミアの仕草に心臓を握られたようになる。
「ミア、どうしたって、これはやっぱり恋なんだが……」
「きっとお仕事で疲れていらっしゃるんですよ。私に触れたければ、お好きに触れればいいのです。好きなようになされば気が晴れますから」
ニコラはの告白は、決して勝算があってのことではない。愛する人がいつまでもこの世に留まっている保証がないのだと幼いうちに学んだが故だ。
相手が儚くなる前に伝えておかなければ後悔すると、身に沁みているからこそ、伝えずにはいられない。
伝えたところで受け取ってはもらえない気持ちもまた、ニコラにとっては等しく恋だった。
「わたしを誰にも触れさせたくないのでしたね。ニコラ様が望むなら、そうなさればいいのですよ」
ミアの言葉は甘い。ニコラの心からの告白を病気と片づけた非道さからはかけ離れている。
「ミア……お願いがあるんだ。昨日の口付けの痕を見せてくれないか」
「はい」
ミアはニコラに脱がされるのを首を伸ばして待つ。
ニコラは慎重にミアの細い首に触れ、襟のボタンを外していく。
ボタンを一つ外すだけで、鎖骨あたりに昨日つけた赤い痕があらわれた。ニコラは自らの執着の痕を確かめては、その上から吸い付き、さらに濃く、紅くしていく。
「んっ……」
ミアから、痛みとは違う喘ぎが聞こえて、ニコラの欲が満たされる。
娼婦の技としてやっているなら天才かもしれないが、経験の浅いミアはニコラの愛撫に演技する余裕もなく快感に声を上げてしまう。
(私の騎士道は汚れている……)
騎士道を貶してみても、目の前の白い腹に吸い付くのを止めることはできなかった。
ニコラに敏感な所を吸われて、ミアはもぞもぞと膝を擦り合わせて快感に耐えている。自分の行いがミアを濡らしていると思うと、愛しくてたまらない。
「ミア……好きなんだ……どうしたら……」
深紅の薔薇の花弁を撒き散らしたようになったミアの腹を、ニコラは絶望的な気持ちで眺めおろした。
*
久しぶりに二人で馬車に乗る。
ニコラの調子は思ったよりも深刻そうに見える。これで仕事が捗らないとなったら責任問題だ。一度花街に相談しに行かなければならないかもしれないと、ミアは気を重くする。
ニコラは考え込んでいるようで、ずっと自分の指先を眺めている。
「ミア、色々考えたのだが、結婚してくれないだろうか」
「はぁ?!」
ミアは驚いて自分でもびっくりするような高い声をあげた。
「結婚してほしい」
「いえ、無理ですよ」
考える間も無く口を衝くのは、断りの言葉だった。
「無理なのか?」
「無理です」
理由はわからないが、無理なものは無理だとはっきりわかる。
ミアにとって、ニコラとの結婚はそのくらい非現実的なものだった。
「そうか……」
これが娼婦熱なのかと、恐ろしくなる。明らかに悪化しているようにも見える。
「ええと、キスが御所望ですか?」
娼婦熱にかかった客には、心を買いに来ているのではなくて、体を買いに来ているのだと教えてやれ、安易な約束をすれば恐ろしい目に合うから、と娼婦の先輩たちがミアに教えた。
肉欲が解消されれば少しは冷静になると聞きかじっただけだが、ミアはそれを試してみるくらいしか今のニコラへの対処法を知らない。
「ミアがしてくれるのか?」
「はい。それが私の仕事ですから」
ミアは馬車から降りる前に、座席から腰を浮かして、座っているニコラの整えられた前髪を掻き分けて秀でた額にキスをする。
(早く良くなってください)
と、祈りながら身を離すと、ニコラの灰色がかった緑の目がじっとミアを見ていたのに気が付いた。
「ありがとう」
ニコラはいつもの凛々しい騎士の立ち姿に戻ると、颯爽と騎士棟の廊下を歩き始める。ミアも背を伸ばしてその背中を追いかけて行く。
(よかった、お仕事には差し障りがないようね)
――そう思ったのは朝のうちだけだった。
「ミア、結婚してほしい。うちにずっと居て欲しいのだ」
「え……と、無理ですよ」
「そ、そうか。では、すまないが、この本を図書館に返しておいてくれないか」
「わかりました 」
ニコラの様子は仕事中もおかしかった。
花街で研修の終わりに、指導していた娼婦が真剣な顔で娼婦熱についてミアに話して聞かせたのを思い出す。
『客は一夜、娼婦に恋をするわ。体を重ねれば心が動いたような気になるのは仕方ないことだけど、客の言葉を真に受けてはダメよ。それで傷つくのはあんたたちなんだから――』
あんな公私の区別をしっかりと分けるニコラがこんなになるなんて、と娼婦熱の恐ろしさにぶるりと身震いする。
(遊びと現実を理解した頃に落ち着くって、いったいいつまで続くの?)
本を返してから執務室に戻ってくると、ニコラは机に肘をついて頭を抱えて苦悩している。ミアに気が付くと慌てて頭を上げる。
「ああ、帰って来たな。ところで、ミア、本当に私と結婚することはできないのだろうか」
「本当に、できません――ニコラ様、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。問題ない。どうすればミアが不安なく生活できるかについて考えていた」
「そんなことより、今はお仕事に集中してください」
本当に具合が悪いようにしか見えないニコラの姿に、ミアはとても心配になった。
体は働き続けていたが、ずっとミアが言ったことを考えていた。
「ですから、それは娼婦熱だと言っております。馴染みの娼婦が出来ると、お客さんはそれが恋なのだと錯覚するそうですよ」
帰宅して、再び愛を告げると、朝と同じ事を返された。
「錯覚……そんなはずはないのだが」
ニコラにも恋をした経験はある。
花街で娼婦との遊びに夢中になったこともあるが、それが恋とは違うものだとわかっているつもりだ。もちろん、相手が娼婦だろうが普通に恋することもあるだろうとも思う。
「熱病のようなもので、長くは続きません。でも、早く治らないと、毎晩娼婦を買いに来て、お客さんが破産したり、仕事が手につかなくて、やっぱり破産したりします」
風邪の子どもを看るように、ミアがニコラの額を触る。熱はないようだと頷く。
ミアはどうやら本当に娼婦熱が熱病のようなものだと思っているようだ。
「いや、しかし、これは恋に違いないんだ」
「ニコラ様でも罹るのですね……別に悪いものではないと聞きました。治った後は良いお客さんになるんだそうで」
「いや、だから……」
「ニコラ様はわたしになかなか仕事させてくださらなかったから、今頃になって罹ったのかもしれません」
病人に向けて見せる労りの眼差しを受けて、ニコラは何だかよくわからなくなってきた。
「この気持ちがまやかしなはずがない。たしかに私はミアに恋心を抱いているし、ミアが幸せであればよいと思っている。できればずっとそばにいたいと……」
自分の気持ちに間違いがないと思う一方、ミアの迷いの無い答えと表情に、ニコラはどんどん自信がなくなってくる。
「ずっとって、私には年季がありますし……」
「ミアが望むなら、私は、次の年季も買い取るつもりだ」
それを聞いてミアは慌てて首を振る。
「ですからね、娼婦熱はそういうふうにお客さんを破産させるんです。私なんかのために何度も借金だなんていけません」
「私は本気だ!」
「……それは、まあ、ありがとうございます。一時の辛抱です、じきによくなりますよ」
(恋を知らないのは、ミアのほうか?)
きっと娼婦熱のことも娼婦仲間に吹き込まれただけに違いない。客が娼婦に入れ込みすぎるのを防ぐためにそのように教えるのだろう。
「だから……」
「そうだ! 口付けをいたしましょう。色々考えるより気がまぎれるかもしれませんよ。私も明日から城の仕事が再開して早いので、本当に少しだけですが」
なんだか本当に病気になったような気になって、ニコラは萎れてソファに沈み込んだ。
(いくら手を伸ばしても、手を振り払われてはどうにもならないか……)
ミアは頑としてニコラの恋心を認めないのに、寄り添ってニコラの頭を抱いてくれる。
なんだかうやむやにされている感は否めないが、ミアのぬくもりに縋りたくなって、ニコラは仮病を使うことにした。
「ミアがしてくれるのか?」
「お姫様でした方がいいですか?」
「いや、ミアがいいんだ」
ミアは小さな体で、母性を滲ませ、ニコラを宥めようとしてくれる。
「ミアが好きなんだ……」
全くミアに届いていないのが分かっていても、ニコラはそう告げるほかなかった。
「そうですか。ニコラ様にそう思っていただいて、有難いことではありますけどね」
ミアは隣に座り直し、両手でニコラの手をとると、清潔に整えられた指先に口付けた。
手の甲にも一つ、大きな手を裏返してざらついた手の平にも一つ。
慈しむようなミアの仕草に心臓を握られたようになる。
「ミア、どうしたって、これはやっぱり恋なんだが……」
「きっとお仕事で疲れていらっしゃるんですよ。私に触れたければ、お好きに触れればいいのです。好きなようになされば気が晴れますから」
ニコラはの告白は、決して勝算があってのことではない。愛する人がいつまでもこの世に留まっている保証がないのだと幼いうちに学んだが故だ。
相手が儚くなる前に伝えておかなければ後悔すると、身に沁みているからこそ、伝えずにはいられない。
伝えたところで受け取ってはもらえない気持ちもまた、ニコラにとっては等しく恋だった。
「わたしを誰にも触れさせたくないのでしたね。ニコラ様が望むなら、そうなさればいいのですよ」
ミアの言葉は甘い。ニコラの心からの告白を病気と片づけた非道さからはかけ離れている。
「ミア……お願いがあるんだ。昨日の口付けの痕を見せてくれないか」
「はい」
ミアはニコラに脱がされるのを首を伸ばして待つ。
ニコラは慎重にミアの細い首に触れ、襟のボタンを外していく。
ボタンを一つ外すだけで、鎖骨あたりに昨日つけた赤い痕があらわれた。ニコラは自らの執着の痕を確かめては、その上から吸い付き、さらに濃く、紅くしていく。
「んっ……」
ミアから、痛みとは違う喘ぎが聞こえて、ニコラの欲が満たされる。
娼婦の技としてやっているなら天才かもしれないが、経験の浅いミアはニコラの愛撫に演技する余裕もなく快感に声を上げてしまう。
(私の騎士道は汚れている……)
騎士道を貶してみても、目の前の白い腹に吸い付くのを止めることはできなかった。
ニコラに敏感な所を吸われて、ミアはもぞもぞと膝を擦り合わせて快感に耐えている。自分の行いがミアを濡らしていると思うと、愛しくてたまらない。
「ミア……好きなんだ……どうしたら……」
深紅の薔薇の花弁を撒き散らしたようになったミアの腹を、ニコラは絶望的な気持ちで眺めおろした。
*
久しぶりに二人で馬車に乗る。
ニコラの調子は思ったよりも深刻そうに見える。これで仕事が捗らないとなったら責任問題だ。一度花街に相談しに行かなければならないかもしれないと、ミアは気を重くする。
ニコラは考え込んでいるようで、ずっと自分の指先を眺めている。
「ミア、色々考えたのだが、結婚してくれないだろうか」
「はぁ?!」
ミアは驚いて自分でもびっくりするような高い声をあげた。
「結婚してほしい」
「いえ、無理ですよ」
考える間も無く口を衝くのは、断りの言葉だった。
「無理なのか?」
「無理です」
理由はわからないが、無理なものは無理だとはっきりわかる。
ミアにとって、ニコラとの結婚はそのくらい非現実的なものだった。
「そうか……」
これが娼婦熱なのかと、恐ろしくなる。明らかに悪化しているようにも見える。
「ええと、キスが御所望ですか?」
娼婦熱にかかった客には、心を買いに来ているのではなくて、体を買いに来ているのだと教えてやれ、安易な約束をすれば恐ろしい目に合うから、と娼婦の先輩たちがミアに教えた。
肉欲が解消されれば少しは冷静になると聞きかじっただけだが、ミアはそれを試してみるくらいしか今のニコラへの対処法を知らない。
「ミアがしてくれるのか?」
「はい。それが私の仕事ですから」
ミアは馬車から降りる前に、座席から腰を浮かして、座っているニコラの整えられた前髪を掻き分けて秀でた額にキスをする。
(早く良くなってください)
と、祈りながら身を離すと、ニコラの灰色がかった緑の目がじっとミアを見ていたのに気が付いた。
「ありがとう」
ニコラはいつもの凛々しい騎士の立ち姿に戻ると、颯爽と騎士棟の廊下を歩き始める。ミアも背を伸ばしてその背中を追いかけて行く。
(よかった、お仕事には差し障りがないようね)
――そう思ったのは朝のうちだけだった。
「ミア、結婚してほしい。うちにずっと居て欲しいのだ」
「え……と、無理ですよ」
「そ、そうか。では、すまないが、この本を図書館に返しておいてくれないか」
「わかりました 」
ニコラの様子は仕事中もおかしかった。
花街で研修の終わりに、指導していた娼婦が真剣な顔で娼婦熱についてミアに話して聞かせたのを思い出す。
『客は一夜、娼婦に恋をするわ。体を重ねれば心が動いたような気になるのは仕方ないことだけど、客の言葉を真に受けてはダメよ。それで傷つくのはあんたたちなんだから――』
あんな公私の区別をしっかりと分けるニコラがこんなになるなんて、と娼婦熱の恐ろしさにぶるりと身震いする。
(遊びと現実を理解した頃に落ち着くって、いったいいつまで続くの?)
本を返してから執務室に戻ってくると、ニコラは机に肘をついて頭を抱えて苦悩している。ミアに気が付くと慌てて頭を上げる。
「ああ、帰って来たな。ところで、ミア、本当に私と結婚することはできないのだろうか」
「本当に、できません――ニコラ様、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。問題ない。どうすればミアが不安なく生活できるかについて考えていた」
「そんなことより、今はお仕事に集中してください」
本当に具合が悪いようにしか見えないニコラの姿に、ミアはとても心配になった。
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