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第二章

第二十一話

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 朝食を終えて後片付けの手伝いを申し出た悠花に、夫人は「ここはいいから、行ってらっしゃい」と送り出してくれた。
 そして悠花は昨日と同じように桧垣の車の助手席に座っている。日曜日であるためか車はスムーズに走っていた。

「桧垣さんは休日なのに……すみません」
「本当だ。今日も嫌味なくらいいい天気で、助手席に君を乗せるんだ。このままどこかへ連れ出したいぐらいだ」

 桧垣の言う通り、昨日に引き続きいいお天気だった。明るい水色の空が広がり、暑くも寒くもないちょうどいい気温。どこへ出かけても気持ちいいだろう。
 けれど桧垣らしくない軽口と、やわらかな表情は悠花の心をざわつかせる。
 副社長秘書として、仕事の一環として関わってくれればいいのに、彼はそうすることをきっぱりやめた気がする。
 昨日初めてスーツ姿以外の桧垣を知った。今日も七分袖のカットソーにジーンズといったラフな格好だ。後部座席に投げた上着もカジュアルなデザインだ。

「なあ」
「はい」
「オレにも時間をくれないか?」
「え?」

 意味が分からずに悠花は桧垣の横顔を見た。前を見て真っ直ぐ運転するその横顔には、彼らしくない迷いが浮かんでいる。けれどウインカーをあげると、桧垣は車を高速道路のほうへと進めていった。

「桧垣さん!?」

 悠花はマンションに戻ると告げた筈だ。そして当然のことながら、マンションへ行くために高速道路に乗る必要はない。たやすくETCを通過した車は、スムーズに車の流れに合流する。

「少しでいい……オレにも時間をくれ」

 彼らしくない懇願の滲む声音に悠花は言葉を失う。「約束が違う。マンションに戻りたい」そう言うべきだと思った。けれど、桧垣との距離は急激に縮まり二人の関係は呆気なく変化した。
 昨日の彼の言葉はあまりにも真摯すぎて……なかったことにするには自分が卑怯に思えた。
 彼の気持ちを、同情だとか雰囲気に流されているだけだとか思い込みたいのは悠花の勝手な願望でしかない。むしろ桧垣をこれ以上巻き込まないためにも、真剣に向き合うべきだろう。

「……服着替えたかったです」

 それでも、そう答えることでしか了承の意を伝えられなかった。桧垣はそれを正しく読み取る。

「ありがとう。それに大丈夫だ……君には似合っているしかわいいよ」
「そういうこと、言わないでください!」
「そうだな。オレも、らしくないことを口にした」

 恥かしかったのは悠花のほうだったのに、桧垣も照れたように口ごもる。
 悠花は流れていく景色を見る振りをして窓へと顔を向けた。どこまでも広がる青い空は綺麗で雲一つみあたらない。昨日、深い暗闇に落ちていたのが嘘のようだ。

(そう、痛みも傷も過去になっていく。私はいつも明日を迎えている)

 未来へ続く道の先はいつも目には見えないのに、確かにどこかへ続いているのだと思った。






 桧垣がどこへ連れて行くつもりなのかわからなかった。けれど到着した場所に、悠花は複雑な感情を隠せない。 車をコインパーキングに停めて歩き出した桧垣の後を、悠花は少し遅れてついていった。
 穏やかな波が砂浜に打ち寄せる。降り注ぐ光が海面をキラキラ反射させる。やわらかな風とともにふわりと鼻に届くのはかすかな潮の香。
 この海には、いくつもの思い出といくつもの想いがある。
 穂高と一緒にした線香花火。告白されて初めて交わしたキス。季節が変わるたびに訪れては、互いの気持ちを確認し合った。大事な思い出の海。
 そして同じこの海で穂高からもらった指輪を投げ捨てた。
 「名前を教えてください」と智晃にメールした。
 それは過去の恋と決別をして、新たな未来を智晃と一緒に歩んでいくため。
 けれど智晃の素性を知って再び迷った。その背を押してくれたのは紛れもなく桧垣だ。
 様々な感情が次々に過っていく。同時にあの日の葛藤と甘えを思い出して胸が切なくなる。
 砂浜に続く階段を降りる時、桧垣が振り返った。

「悪い……その靴じゃ歩きづらいか?」

 悠花は緩やかに首を横に振る。歩きづらいのは靴のせいじゃない。この場所のせい。

「抱き上げようか?」

 口角をあげて桧垣が言うから、悠花はあえて歩みを早めた。
 何度となく降りた階段。場所は同じでも降りていくときの気持ちは全て違う。
 悠花は桧垣の横を通り過ぎて、すたすたと階段を降りて行った。
 もう一人で降りられる。
 一人で降りて歩いて行ける。
 だから、指輪を捨てた。
 悠花は左手首をぎゅっと握りしめて、階段の最後の一段を降りて浜辺に立った。そのまま迷いなく歩いて行く。 ヒールが砂に沈むのも、歩くたびにあたる砂粒も気にしない。
 潮気を含んだやわらかな風が頬を撫でて髪を揺らした。

「この海に……思い出でもあるんだろう?」

 波打ち際から少し距離を置いた場所で立ち止まった悠花の横に、桧垣も来る。

「ここで君を見かけた時、そう感じた。副社長に言われて車を降ろされたからって、君に声をかける必要なんかなかった。でもオレは、この海を眺めていた君を見たときに声をかけずにはいられなかった。多分その時だ、君に惹かれたのは――」

 隣を見ることはできなかった。
 静かで落ち着いた桧垣の声は、押し寄せる波音と重なって、すんなりと悠花の心に入り込んでくる。
 あんな何気ない瞬間のどこに彼がそう感じたきっかけがあったのだろうか?
 智晃の素性を知って苦しんで、会えなかったことに落ち込んで、矛盾した醜い感情を抱いていただけ。関係のない桧垣に「会うなと命じてくれ」なんて甘ったれたことを言っただけ。
 「オレは恋愛感情なんてまやかしだと思っている。だから君へのこの感情だって一時的なものだ。あの日ここであの男に『電話しろ』と命じたとき、オレは確かに君の幸せを願えた。あの男と君が幸せになるならそれでいい。今だってそう思っている」
「私も感謝しています。桧垣さんがそう命じてくれたから私は前に進むことができた」

 そうだ。彼が背中を押してくれた。初めて智晃に電話をかけて携帯越しの彼の声を聞いた。

「でもオレが見守るのは今日までだ」

 悠花の頭上に影が落ちる。桧垣がすぐ目の前にいて、じっと悠花を見下ろしていた。
 目をそらしたいのに、一度でも合ってしまえばそらせない。桧垣の目はそれだけの力を宿している。

「君にしたプロポーズ、あれは取り消す」

 この海で智晃に電話をしろと命じた。
 別れたらオレとの結婚が待っているからそれが嫌なら別れるな、そんな意味合いの言葉であって、決してプロポーズなんて甘いものじゃない。
 昨日のだって、勢いで告げただけのもののはずだ。
 だから、桧垣が「取り消す」というのならそれでいい。
 悠花はすんなり頷いた。
 桧垣は恋愛感情をまやかしだと思っている。だからあれはプロポーズじゃない。
 彼が昨日告げてきた「好きだ」という言葉も――ただの戯言。
 ふっと肩の力が抜けて、今まで自分が緊張していたのだと気づいた。
 桧垣が冷静になってくれて良かったと思う。

「もう一度言う。オレが見守るのは今日までだ」
「……はい」

 桧垣が同じセリフを繰り返した。悠花は理解していると示すために返事をした。桧垣の目がやわらかく細められる。

「次はない。次に君が傷つけられたら、オレの前で泣いたら、オレは君をオレのものにする」

 吐き出すように言ったあと、桧垣は悠花を抱きしめてきた。咄嗟のことに何の抵抗もできない。
 彼の言葉の意味もすぐには理解できなくて狼狽える。

「ただの同情なら良かった。状況に流されただけならラクだった。こんな感情まやかしなら良かった」
「桧垣、さん?」

 抱きしめる腕に力が込められる。新たに知った男の胸の感触と、かすかな匂いが記憶に残っていて悠花は小さく首を横に振る。

「でも違う。オレは間違いなく君を欲している」

 耳元で低く声が届いた。

「好きだ」

 昨日も確かに告げられたその言葉は、今度こそ悠花の胸に深く突き刺さる。短く強く真摯な想いが、抗いようもない速度で悠花の中に侵食してくる。

「私っ、私はっ!」
「あの男が好きなのはわかっている。だから返事は急がない。これからのことを考えるにあたって、オレとのことも選択肢にいれてほしいだけだ。勢いで言ったんじゃないってわかってほしい」

 わかっている。
 こんな切羽詰まった声は彼らしくない。一緒に働いてきたのだから彼がどんな男性か知っているつもりだ。
 だから自分も彼の言葉を真剣に受け止めなければならない。

「逃げ場としてではなく……オレを選べよ、悠花」

 名前で呼ばれると胸が苦しくなる。こうして抱きしめられると、その感触が誰一人として同じではないと知らされる。
 智晃に抱きしめられた時は、この腕が穂高のものでないことが不思議だった。
 桧垣に抱きしめられると、どうして智晃でないのかと思ってしまう。

「考えます……これからどうするのか考えて、きちんと答えを出します」

 悠花の言葉に桧垣がゆるやかに腕を緩めた。悠花は左手首をぎゅっと握る。指先に触れるのは細い鎖の感触。

「……逃げません」

 そう口にした途端、無性に逃げたくなった。泣きたくなった。

「嘘……逃げたい。逃げ出したいです。でも、同じぐらい逃げてはだめだってわかっている!」

 そう、すでに一度逃げだした。
 苦しめたくなくて傷つけたくなくて、だからそうすることが正解だと思った。
 別れることが、穂高の幸せになるはずだと、自分の幸せになるはずだと、言い聞かせて。
 けれど穂高は「幸せにはならない」と断言して、悠花だって「幸せになる資格がない」と思っている。
 だからそれを繰り返してはダメだ。
 どんなにひどく胸が痛んでも、苦しくても、たとえこの先の未来に再び、ひどく傷つけられたとしても。

「だから逃げません」
「ああ、そうしてくれ」

 強く強く、逃げてはダメだと自分に言い聞かせる。
 逃げてしまえばきっと、今度は智晃だけではなく桧垣をも苦しめて傷つけることになるだろう。
 互いを苦しめる結果が見えているのに、どうしてこんな感情が生まれてしまうのだろうか……。
 誰かを大切に想う気持ちは……苦しめるために生まれたわけじゃないのに。
 強くならなければ、ならない。
 そんな優しい気持ちを、真っ直ぐに素直に受け止められるように。
 告げられる言葉を拒むのではなく、感謝の気持ちで受け入れられるように。
 桧垣の愛情が染みてくる。
 こうして気持ちを吐露しながらも、彼は悠花の背中を押そうとしてくれている気がした。
 

 ――決してオレの方へ逃げてくるな……と――
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