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第二章

第二十二話

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 悠花はマンションの自分の部屋へ戻ると、着替えをして宿泊の準備をした。数日間は部屋を留守にする可能性も考えて軽く片付けもする。
 桧垣はこのマンションの特殊性をわかっていたようで「一時間ぐらい車を走らせてくる。終わったら連絡をくれ」と言ってすぐにどこかへ行ってしまった。
 悠花は一息つくと、ベッドに腰掛けて携帯を手にして智晃の番号を表示させた。
 智晃が副社長の家まで迎えに来てくれたという事実を夫人から聞かなかったら、きっとこんな風に連絡をとることはできなかっただろう。
 ……結局私はいつも逃げてきた。
 初めて見た荒れた智晃の姿に驚いて、彼を傷つけたことに自分がショックを受けた。
 そして楽になりたいがためだけに逃げ出した。
 いつまでも弱い自分のままでは、周囲にいてくれる人たちまでをも傷つけてしまう。
 桧垣に宣言した通り、何があっても逃げずにいよう。
 悠花は決意して智晃に電話をかける。緊張する間もなく智晃はすぐに出てくれた。

『悠花』
「智晃さん……」
『悠花、良かった、連絡くれて。昨日はごめん。僕が悪かった。あなたは今どこにいる? すぐに迎えに行く。会いたい――会いたいんだ、悠花!』

 智晃の声に安堵すると同時に、矢継ぎ早に繰り出される言葉に、悠花の胸はいっぱいになる。切羽詰まった智晃の声は、彼の本音をあらわにしてくれる。

「智晃さん……私のほうこそ何も言わなくてごめんなさい。私も会いたい。智晃さんに会いたいの!」
『悠花!』

 自分たちの間にあるのは、本当はいつもそれだけだった。
 どうしようもなく「会いたい」という気持ち。その感情がどこから生み出されるのかわからずとも、赴くままに繰り返してきた逢瀬の果てに、今の自分たちがある。
 涙が頬を伝っていく。そのたびに悠花は乱暴に手で拭った。

『悠花……迎えに行く。今は部屋?』
「あ、はい。でも……」

 智晃に会いに行くなら連れて行くと言ったのは桧垣だ。桧垣に連れて行ってもらうから智晃が迎えに来る必要はない。けれどここで桧垣の名前を出すことも、そう告げることもためらわれた。

『悠花。落ち着いて聞くから言って。叔父に何か言われた? 僕に会うなとか、もう許さないとか言われた? それならそれで一緒に考えるから』

 悲壮な彼の声音に悠花の胸はひどく痛んだ。昨日副社長の家まで来てくれた時に、彼は追い返されただけでなく、何か言われたのかもしれない。今朝の副社長の言葉にはそんなニュアンスがあった。
 智晃自身に問題があるのではなく、彼が世田の御曹司だから――
 だから彼らは、穂高の時と同じことを繰り返したあげく、お互いに傷つけあってしまうのではないかと危惧している。
 それは悠花も同じだ。
 智晃の立場もとりまく世界も、あまりにも穂高と似すぎているから、怯えて逃げ出したくなる。
 でも逃げないと決めた。彼と向き合って、話をしてきちんと道を探していく。
 悠花は注意深く頭の中で言葉を探した。

「私、しばらく副社長のおうちで過ごすことになりそうなんです。それで今も、その……桧垣さんが送迎してくれています。智晃さんと会うなら、そこまで連れて行ってくださるそうです。そして帰りも送っていくと副社長とお約束していて、その許可があったから今も部屋に戻ってこられています」

 桧垣の名前を出すとき緊張した。
 桧垣によってどんな情報がもたらされたのか知らないけれど、智晃はおそらく桧垣と自分との関係に疑念を抱いている。それが彼の勘違いといえるものではないから、悠花もどうしていいのかわからない。
 電話の向こうの智晃からはすぐに返事はなかった。ただ小さく息を吐く音が聞こえる。

『わかった。申し訳ないけれど桧垣さんと直接話をしたい。彼に連絡して僕の番号を伝えてくれる?』
「あの……」
『僕が直接彼と話をしたいんだ』
「わかりました」

 智晃が桧垣と何を話すのか気になったけれど、悠花は了承するしかない。一旦、智晃との電話を切った後桧垣に連絡したのだった。




 ***




 桧垣との電話を終えた後、智晃は念のため来客用駐車場を借りる手配をした。これから彼が悠花を、智晃のマンションまで連れてくる。そして帰りも彼が叔父の家まで送っていく。
 桧垣との交渉に負けたのは智晃の方だった。
 悠花のマンションまで迎えに行くし、帰りも責任もって自分が送っていくと申し出た。けれど桧垣は『上司命令だから』と言い張って、頑なにそれらを拒んだのだ。あげくのはてに、それを守れないなら悠花を連れては行かないとまで言ってきた。
 そして少しだけ悠花を取り巻く現状についても情報を出してきた。彼女の周囲が落ち着くまで、今回の騒動の原因が究明されるまで、一人にはしたくない。噂を助長するような行動は避けたい、そういったことを。
 そんな大事なことこそ、あの夜に説明すべきなのに、桧垣秋は智晃を挑発するだけして、疑念を植えつけてきた。悠花との関係をこじらせたいあの男の本音が智晃には煩わしい。それに味方している叔父の存在も。
 智晃は反論もできず、こうして地下の来客用駐車場を確保して、桧垣の車が到着するのを待っていた。
 悠花自身から連絡がきただけでも、良しとしなければならないのだろう。
 自分が彼女を傷つけたこと、叔父の怒りの様子から、二度と会わせてもらえない可能性もあった。悠花がもし智晃には会いたくないと望み、叔父が本気になればおそらくそれは簡単なことだ。

「世田の名前が……ここまで面倒なものになるとは思っていなかったな」

 ひんやりとしたコンクリートの地下駐車場で、その独り言は思ったよりも反響した。
 智晃は壁にもたれて晴音とのことを思い出す。
 彼女も最初、智晃の素性を知った時戸惑いを見せた。互いの関係が深まって、心を許し合ったとき戸惑いは拒絶に変わった。知れば知るほど、関われば関わるほど、世界や立場の違いを実感していく。そして大事に思うからこそ、距離を置こうとする。
 無遠慮に近づかれたことはあっても、避けられたのは初めてだった。
 悠花も同じだ。いや、むしろ晴音以上で――
 叔父の言葉は智晃には衝撃だった。
 素性を知って、吐いて、謝罪して土下座しかねない勢いだったと言われた時、彼女をそこまで苦しめた事実に打ちのめされた。
 今回の件だって、根本は一緒だろう。
 車の音がして智晃は体を起こす。デザインがシャープな車はあの男の私物だろうか。その助手席に座る悠花と目が合って、智晃は胸をかきむしりたい気分になる。
 泣きそうに、でも必死にほほ笑もうとするその儚さ。
 最初は晴音に似たその雰囲気に惹かれた。でも彼女が抱えているのは、晴音とはまた違った意味で重いものだ。
 桧垣が車を駐車するのを待って、智晃は近づいて行った。桧垣が悠花に何か言ってから、先に車から降りてくる。
 二人だけで話したいことがあるその雰囲気に、智晃は忌々しく思いながらも、桧垣のほうへと歩いて行った。

「タイムリミットは十八時。副社長にはそれまでに連れて帰るよう厳命を受けている。その三十分前にまたここに迎えに来る」

 挨拶も前置きもなしに言われて智晃も短く返事をした。

「ああ」

 わかったとは言いたくない。でも今は納得するしかなかった。

「今度、彼女がオレの前で泣くようなことがあったら、オレは遠慮なく彼女をもらうから」

 桧垣はさらりと言い放つ。けれど合わせた目は、智晃への非難を隠そうともしていなかった。
 桧垣の言葉で、悠花がこの男の前で泣いたのだと気づいた。同時に、言った言葉がどれだけ本気であるかも。
 何よりこの男には叔父という強力な味方がついている。

「僕はきっとこれからも、彼女を泣かさないとは言えない。それでも泣くなら僕の前だけにする。あなたの前で泣くことは二度とない」
「オレもそう願っている」

 桧垣が視線をそらして自嘲しながら呟いた。

「彼女の幸せを願うなら……たぶんそれが一番いい」

 その言葉には智晃にも身に覚えがあった。
 晴音を愛していた。だから、自分のものにしてしまいたいと思った。同時に彼女のことを愛しているからこそ彼女の望みを叶えてあげたいとも。
 自分の欲と彼女の幸せとの間の葛藤。
 智晃は過去……晴音の幸せを願って身を引いた。
 だからこそ桧垣の言葉の重みと真剣さがよくわかる。彼がどれほど悠花を想っているかも。

「でもオレがそれを願うのは今日までだ」

 智晃は真剣な桧垣の眼差しを受け止めた。
 愛しているからこそ女の幸せを願って、身を引く愛し方……それが本当に愛と呼べるものなのか、今の智晃にはわからない。

「僕は、あなたが永遠にそれを願うようにするだけだ」

 桧垣は眉をしかめたあと、ふっと笑みをもらす。そして首を傾けて「行けよ」と示した。
 智晃は桧垣を振り返りもせずに、車内で不安そうな表情を浮かべていた悠花を迎えに行った。
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