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22 『Φblivion』の「連夜」と泉水①
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そしてやってきた「訪問日」――月曜日の夜。
その日の橘の姿を見て、泉水はえぇっと声を上げた。
「何だよ、文句あるのか?」
「ううん、でもちょっと…驚いたかな」
細いピンストライプの入ったダークグレーのスーツ。
しかもベストまで付いた三揃いのタイプだ。
その上、いつもボサボサの髪をワックスで撫でつけてから後ろでひとつに纏めている。まさか橘がここまで改まったファッションで来るとは思わなかった。
「ちゃんとした服っていうと、こんなのしかないんだよなぁ」
そんな風にボヤいている。
こんなにキッチリとした姿の橘は見たことがない。そう、橘としては最上級にきちんとしている。それなのに、どういう訳か――
(……ベテランホストみたいに見えるのは何でかな)
自分のために付き合ってくれているのだから、文句は言えない。
いや全然文句はないし、こうして見ると恰好いい大人だと改めて分かる。少し笑いたくなるのは、普段のダラっとした姿を知りすぎているからだろう。
泉水は蓮と出掛けた時と大差ない恰好だ。パンツの色が黒になったくらいで、ジャケットを着てさえいれば良いかと思っている。
蓮の店『オブリビオン』は、ある程度きちんとしたファッションを求められるところらしい。男性はジャケット着用と店のHPに書かれていたので、それを守れば問題はなさそうだ。
「じゃあ行くか。お互い初体験だし、大人の社会科見学ってとこだな」
――そして、いざ出陣とばかりに店へと向かった。
***
「いらっしゃいませ」
オブリビオンの店内に入ると、少し暗い照明の中にホテルのカウンターのような受付があった。落ち着いた話し方をする黒服が、フロントマネージャーのように2人を出迎えてくれる。
「2名様、ですか?」
「ああ、そうだ。蓮夜を指名でな」
「……畏まりました。少々お待ちください」
男2人での来店を訝しむ気持ちもありそうだが、そういった感情は見せずに黒服が店内に消えた。
「………」
その間、泉水は奥に見える店内の様子に心を奪われていた。
受付と店内の境には黒いベルベットのカーテンが半ばまで引かれていた。
受付が殊更暗いのはわざとかもしれない。暗がりの向こうからは、華やかな光と嬌声が溢れていた。ここから先は別世界だと宣言されているように感じる。
(ここが蓮くんの職場なんだ)
少し覗き見えるだけでも、充分華やかな場所だ。
(……本当に別世界、だ)
思わずゴクリと喉が鳴ってしまった。
明らかに自分は場違いな気がした。
***
(……とうとう泉水さんに、告白した)
店のソファーに身を沈めながら、手の中のワイングラスを物憂げに揺らし、蓮はその時のことに思いを馳せた。
半ば勢い――ではあったが、もういい加減、自分の我慢も限界だったと思う。
“ずっとキスしたかった”と言ったのも、もちろん本音だ。
唇の感触に、まるで初めてのキスみたいにドキドキしたが、それ以上に、自分を見詰めてくる泉水にどうしようもなく胸が熱くなった。
驚きと欲情に潤んだ瞳と、耳元と頬にほんのりと朱が差して……ゼロ距離まで近付いたお互いの存在を、ゆっくりと認識しようとしていたような。
そっと手を伸ばして、こちらに触れようとしてくれていた、と思う。
泉水も自分のことを、好きなんだと確信した瞬間だ。
もうこれで想いが通じて、晴れて恋人同士になれるんだと――そう思っていたのに……。
「――蓮夜くん、私の話聞いてる?」
「えっ、あ、ごめん莉奈さん。ちょっとボーっとしてた」
「もう。今日の君は、何だか上の空よね。どうかしたの?」
いま一緒にいる常連客は、会社経営者の莉奈だ。30代とまだ若いが、世界の雑貨や食品をネット販売する会社を経営しているやり手である。店でゆっくりお酒を愉しんでくれる、とても品の良いありがたいお客様だった。
「ごめんね、こんな俺でも悩みはあってさ。人生って色々上手くいかないなって物思いに浸ってた」
「そうなの?普通にサラリーマンしてる同世代より随分沢山お金を稼いでるし、いつも楽しそうだけど……そんな風に思う時があるのね」
「それは、まぁね。莉奈さんだって会社が順調でも、悩みは尽きないでしょ?」
「まぁそれはそう。人間が2人以上集まれば、必ず揉め事は起きるものだし……悩みがなかったら、ここにも通ってないかもしれないし?」
「うーん、俺としてはそれは非常に困る……じゃあやっぱり、人間の悩みは経済を回すのに必要不可欠、ってことかな」
ふふっと微笑んだ莉奈が蓮とグラスを合わせると、硝子の奏でる繊細な音が美しく余韻を引く。ゆっくりとロマネ・コンティの赤を飲み干した。
同じように蓮が自分のグラスを空けようとした時、声が掛かる。
「失礼します。蓮夜さん」
受付で泉水達に対応した黒服が、蓮夜の傍に跪き耳打ちをする。
「男性のお客様が2人、蓮夜さんを指名して来店されてます。どうも堅気じゃない雰囲気で、同業者の匂いがしますが……ご案内して大丈夫でしょうか?」
その言葉に、蓮は飲んでいたワインを吹き出しそうになった。
「っ、うん!大丈夫。多分知り合いだから怪しい人じゃない。ごめんね、莉奈さん。ちょっと外すけど待ってて」
「……そう。でもあまり待たせないでね?」
「分かってる。代わりにユキを呼ぼうか?」
「そうね、ユキくんも可愛くていいんだけど……今日はもう少し賑やかな人がいいかな」
「分かった。那月を呼ぶから待ってて」
強く握られた手をそっと解いて、その場を離れる―――
***
『僕も、蓮くんが……好きだよ』
泉水が、少しゆっくりと、そう言った時のことを思い返す。
返事は電話だった。
一緒に出掛けた時に番号を交換していたが、いつも直接話していたので使われていなくて、ここで初めて役に立った。
あのキスで、お互いの気持ちは何となく伝わっていた、とは言え。
それでもやっぱり本人の口から聞けて、本当に――嬉しかった。
耳元で初めて聴く泉水の声は、特別な甘さがあって。
自分を好きだと告げるその言葉の響きは、蓮を完全にノックアウトした。
夜、ベッドの上で聴いていたから、そのまま崩れ落ちても問題はなく。
ここで聴いていて良かったと変なところで安堵した。
ただ、その後に続いた泉水の言葉に、さらに右ストレートを食らったような衝撃を受けた。
“お店に行ってもいいかな”と。
(まさかそんな事を言われるとは……!)
最初に浮かんだ正直な感情は――「困ったな」だった。
“仕事での「連夜」は別の生き物”
蓮は、そう割り切って仕事をしている。
お客の前でその役になりきって演じている自分を……泉水がどう思うか、分からなかった。
でも泉水からすれば、ここをはっきりさせないと恋人として付き合っていくことが出来ないんだろうなと、思う。
確かに、逆の立場だったら――……
想像しただけで、蓮の脳は沸騰しそうになる。
(藤田さんと出掛けるっていうだけで心配になってるのに、そんなの許容するとか無理じゃない?)
全くもって自分勝手な感情だ。
心配と不安と、それに嫉妬が入り混じった感情――
泉水の気持ちも、同じなのだろうか?
結果、どうなるか不安しかないが――それだけ、自分のことを本気で考えている、というのは分かった。
今さら、隠し立てしても仕方ない。
自分は自分として、ありのままを見せるしかないなと、蓮も覚悟を決めていた。
ソファーで仕切られた空間を足を速めて通り抜け、黒いカーテンの向こうに飛び込んだ。
その日の橘の姿を見て、泉水はえぇっと声を上げた。
「何だよ、文句あるのか?」
「ううん、でもちょっと…驚いたかな」
細いピンストライプの入ったダークグレーのスーツ。
しかもベストまで付いた三揃いのタイプだ。
その上、いつもボサボサの髪をワックスで撫でつけてから後ろでひとつに纏めている。まさか橘がここまで改まったファッションで来るとは思わなかった。
「ちゃんとした服っていうと、こんなのしかないんだよなぁ」
そんな風にボヤいている。
こんなにキッチリとした姿の橘は見たことがない。そう、橘としては最上級にきちんとしている。それなのに、どういう訳か――
(……ベテランホストみたいに見えるのは何でかな)
自分のために付き合ってくれているのだから、文句は言えない。
いや全然文句はないし、こうして見ると恰好いい大人だと改めて分かる。少し笑いたくなるのは、普段のダラっとした姿を知りすぎているからだろう。
泉水は蓮と出掛けた時と大差ない恰好だ。パンツの色が黒になったくらいで、ジャケットを着てさえいれば良いかと思っている。
蓮の店『オブリビオン』は、ある程度きちんとしたファッションを求められるところらしい。男性はジャケット着用と店のHPに書かれていたので、それを守れば問題はなさそうだ。
「じゃあ行くか。お互い初体験だし、大人の社会科見学ってとこだな」
――そして、いざ出陣とばかりに店へと向かった。
***
「いらっしゃいませ」
オブリビオンの店内に入ると、少し暗い照明の中にホテルのカウンターのような受付があった。落ち着いた話し方をする黒服が、フロントマネージャーのように2人を出迎えてくれる。
「2名様、ですか?」
「ああ、そうだ。蓮夜を指名でな」
「……畏まりました。少々お待ちください」
男2人での来店を訝しむ気持ちもありそうだが、そういった感情は見せずに黒服が店内に消えた。
「………」
その間、泉水は奥に見える店内の様子に心を奪われていた。
受付と店内の境には黒いベルベットのカーテンが半ばまで引かれていた。
受付が殊更暗いのはわざとかもしれない。暗がりの向こうからは、華やかな光と嬌声が溢れていた。ここから先は別世界だと宣言されているように感じる。
(ここが蓮くんの職場なんだ)
少し覗き見えるだけでも、充分華やかな場所だ。
(……本当に別世界、だ)
思わずゴクリと喉が鳴ってしまった。
明らかに自分は場違いな気がした。
***
(……とうとう泉水さんに、告白した)
店のソファーに身を沈めながら、手の中のワイングラスを物憂げに揺らし、蓮はその時のことに思いを馳せた。
半ば勢い――ではあったが、もういい加減、自分の我慢も限界だったと思う。
“ずっとキスしたかった”と言ったのも、もちろん本音だ。
唇の感触に、まるで初めてのキスみたいにドキドキしたが、それ以上に、自分を見詰めてくる泉水にどうしようもなく胸が熱くなった。
驚きと欲情に潤んだ瞳と、耳元と頬にほんのりと朱が差して……ゼロ距離まで近付いたお互いの存在を、ゆっくりと認識しようとしていたような。
そっと手を伸ばして、こちらに触れようとしてくれていた、と思う。
泉水も自分のことを、好きなんだと確信した瞬間だ。
もうこれで想いが通じて、晴れて恋人同士になれるんだと――そう思っていたのに……。
「――蓮夜くん、私の話聞いてる?」
「えっ、あ、ごめん莉奈さん。ちょっとボーっとしてた」
「もう。今日の君は、何だか上の空よね。どうかしたの?」
いま一緒にいる常連客は、会社経営者の莉奈だ。30代とまだ若いが、世界の雑貨や食品をネット販売する会社を経営しているやり手である。店でゆっくりお酒を愉しんでくれる、とても品の良いありがたいお客様だった。
「ごめんね、こんな俺でも悩みはあってさ。人生って色々上手くいかないなって物思いに浸ってた」
「そうなの?普通にサラリーマンしてる同世代より随分沢山お金を稼いでるし、いつも楽しそうだけど……そんな風に思う時があるのね」
「それは、まぁね。莉奈さんだって会社が順調でも、悩みは尽きないでしょ?」
「まぁそれはそう。人間が2人以上集まれば、必ず揉め事は起きるものだし……悩みがなかったら、ここにも通ってないかもしれないし?」
「うーん、俺としてはそれは非常に困る……じゃあやっぱり、人間の悩みは経済を回すのに必要不可欠、ってことかな」
ふふっと微笑んだ莉奈が蓮とグラスを合わせると、硝子の奏でる繊細な音が美しく余韻を引く。ゆっくりとロマネ・コンティの赤を飲み干した。
同じように蓮が自分のグラスを空けようとした時、声が掛かる。
「失礼します。蓮夜さん」
受付で泉水達に対応した黒服が、蓮夜の傍に跪き耳打ちをする。
「男性のお客様が2人、蓮夜さんを指名して来店されてます。どうも堅気じゃない雰囲気で、同業者の匂いがしますが……ご案内して大丈夫でしょうか?」
その言葉に、蓮は飲んでいたワインを吹き出しそうになった。
「っ、うん!大丈夫。多分知り合いだから怪しい人じゃない。ごめんね、莉奈さん。ちょっと外すけど待ってて」
「……そう。でもあまり待たせないでね?」
「分かってる。代わりにユキを呼ぼうか?」
「そうね、ユキくんも可愛くていいんだけど……今日はもう少し賑やかな人がいいかな」
「分かった。那月を呼ぶから待ってて」
強く握られた手をそっと解いて、その場を離れる―――
***
『僕も、蓮くんが……好きだよ』
泉水が、少しゆっくりと、そう言った時のことを思い返す。
返事は電話だった。
一緒に出掛けた時に番号を交換していたが、いつも直接話していたので使われていなくて、ここで初めて役に立った。
あのキスで、お互いの気持ちは何となく伝わっていた、とは言え。
それでもやっぱり本人の口から聞けて、本当に――嬉しかった。
耳元で初めて聴く泉水の声は、特別な甘さがあって。
自分を好きだと告げるその言葉の響きは、蓮を完全にノックアウトした。
夜、ベッドの上で聴いていたから、そのまま崩れ落ちても問題はなく。
ここで聴いていて良かったと変なところで安堵した。
ただ、その後に続いた泉水の言葉に、さらに右ストレートを食らったような衝撃を受けた。
“お店に行ってもいいかな”と。
(まさかそんな事を言われるとは……!)
最初に浮かんだ正直な感情は――「困ったな」だった。
“仕事での「連夜」は別の生き物”
蓮は、そう割り切って仕事をしている。
お客の前でその役になりきって演じている自分を……泉水がどう思うか、分からなかった。
でも泉水からすれば、ここをはっきりさせないと恋人として付き合っていくことが出来ないんだろうなと、思う。
確かに、逆の立場だったら――……
想像しただけで、蓮の脳は沸騰しそうになる。
(藤田さんと出掛けるっていうだけで心配になってるのに、そんなの許容するとか無理じゃない?)
全くもって自分勝手な感情だ。
心配と不安と、それに嫉妬が入り混じった感情――
泉水の気持ちも、同じなのだろうか?
結果、どうなるか不安しかないが――それだけ、自分のことを本気で考えている、というのは分かった。
今さら、隠し立てしても仕方ない。
自分は自分として、ありのままを見せるしかないなと、蓮も覚悟を決めていた。
ソファーで仕切られた空間を足を速めて通り抜け、黒いカーテンの向こうに飛び込んだ。
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