上 下
22 / 29

21 想定外の決意

しおりを挟む
閉店後、ようやく一人になり落ち着いた泉水だが、まだ夢を見ているような気がして――
現実に頭が追い付いていなかった。

“ずっと、キスしたいと思ってた”

あの言葉が頭に浮かぶ度に、手にしたトレイやお水を落としそうになって、今日一日大変だったのだ。同じ告白をするにしても、もう少し衝撃の少ない方法だってあったんじゃないかな、と思う。
朝一番のキスには、泉水の心を乱す絶大な効力があった。

やりたいことと言いたいことだけ言っていなくなるとか……本当にもう……なんて罪作りで、僕を困らせるのが上手いんだろうって。
直後に来たお客様に、普通に対応するのにどれだけ苦労したか。

思い出すだけで顔が熱くなる。
優しくて触れるだけのキスだったけれど、唇の感触や熱は、鮮明に記憶に刻まれてしまった。

僕が特別に感じていたように、蓮くんも僕を特別に想ってくれていた。
そんな奇蹟みたいなことが現実なのかって。
大人げなく嬉しくて……大声で叫びたいような気持ちだった。

でもこれは――優しくて甘いだけの夢とは違う。
現実なんだ。
だから、これからどうするかを真剣に考えなければならなくて。
両想いの嬉しさに、浸りきれない自分もいた。

(好きになってくれた人を、また落胆させてしまったら――)

心がひやりと冷たくなる。
告白してダメになったら、と考えた時と同じだ。
身体の関係に進むことを今からすでに恐れている。
泉水の恋は、いつもそのことが心の奥に潜んでいて――相手に真っすぐにぶつかれなくなってしまう。

(……黙って待っていないで、自分から何とかしないと)

今日の告白にしても、自分から言えるタイミングがあったのに。
ただ「好き」だって。
それすら言えなくて、結局、蓮の言葉を、行動を待っていた。
そんな自分では、この先、何も変わらない。
蓮にならこのトラウマのことも話してみたいと――初めて思った。
お互いの良い部分だけじゃなく、もっと色んなことを知る必要があるんじゃないかと感じ始めている。

蓮のことを、もっと知りたい。
蓮は、店で仕事の話を一切しない。でも真剣に付き合うなら、彼の仕事のことは避けて通れない問題だ。色んな女性に囲まれて過ごす日常を「仕事」だからと割り切れるほど、自分は器が大きくないように泉水は思う。

そこまで考えて堂々巡りの考えから抜け出せなくなった。
好きだけれど、本当に付き合っていいのだろうか。
自分はちゃんと彼を受け入れられるんだろうか――と。

独りで悩むことが辛くなって、泉水は自宅で仕事をしているらしい橘にメッセージを送ることにした。

『緊急事態。相談したいことがあります』

それから程なくして、閉店後の店内にドアの開く音が響く。この時ばかりは店から10分圏内のご近所に住んでいてくれるのがありがたかった。
落ち着かない気持ちで待ち侘びていた泉水は、橘に駆け寄った。

「アキさん……」

緊張感を漂わせた泉水の顔を、橘は眠そうな目でじっと見詰めてくる。
いつもより髪もボサボサで、眼の下にうっすらクマが浮かんでいる。仕事でかなり追い込まれた状況だとすぐに分かったが、それでも近寄る泉水に「よう」といつものように笑いかける。

「……そろそろ締切が立て込んできて、結構ヤバい状況なんだよ。俺がいつでもヒマだと思ったら大間違いだぞ?」

そう文句を言いながらも迷惑そうな表情は見せず、泉水の髪をくしゃりと撫でる。それは泉水を落ち着かせる時に見せる、橘のお約束の仕種だ。
普段なら「子供じゃないから」と拒絶する所だが、今は反発する気にならない。

「ごめん……忙しかったら無理しないでいいよ」

橘に対して縋るような瞳を向けながら、泉水は大きく溜息を吐いた。

「ばーか、ここまで来たのに今更帰れるかよ。それに……何があったかは大体察しがつく」
「えっ」
「蓮のヤツに告られでもしたか?」

ズバリ直球でそう訊かれ、固まってしまう。

「…………うん…………そう。そうなんだ」
「良かったじゃねぇか。両想いなんだろ?」

気軽な感じであっさり言われると思わず反論したくなり、泉水は弾かれたように言葉を返した。

「そうだけど!……でもだからって、そんな簡単なことじゃなくて……何も、心の準備が整ってない、っていうか」
「何の準備だよ」
「その、僕なんかじゃ、蓮くんを満足させてあげられないんじゃないかって……」
「――つまりは、ビビってるって訳か」

容赦の無い一言。
確かにその通りだった。

「……そうだよ、僕は自分に自信がないんだ。彼を好きな人は、多分沢山いる。その中で僕が一番彼に相応ふさわしいって、言えるだけの自信がないんだ……!」

こんな風に声を荒げて、自分の気持ちを吐き出す泉水を見るのは――長い付き合いの橘でも初めてかもしれないと思った。
早くに母親を亡くしたせいか、いつも物分かりのいい大人しい子供だった。学校でも何処でも、いつでも周りと上手くやれて問題を起こしたことなんて一度も無かった。
一人で頑張る父親を見て、誰にも迷惑をかけまいといつからか決意していたのかもしれない。
ひどく痩せて何かあったと感じた高三のあの時も。

『大丈夫だよ』と。

静かに笑っていた。

「……馬鹿だな」

もう一度、橘の手が泉水の頭に触れる。
少なくとも今は、思っていることを口に出来ている……それだけでも、充分、変化しているのかもしれないと感じた。それは相手が蓮だからだろうか。

「そんなに自分に自信満々で誰かと付き合うヤツなんて、逆にいないだろ。始める前からダメだって思ってたら、上手くいく訳ないんじゃないか?」
「……分かってる」
「蓮がホストだから心配なのか」
「……それも、確かにあると思う」

恋愛下手の泉水からすれば、蓮は、その見た目も行動も、たまに別世界の人のように思える時がある。
恋愛を仕掛けるのが『仕事』――
たとえ夜の世界の中だけの恋でも、それは一体、どんな気持ちなのか。
仕事と私生活とで感情に矛盾は生じないのだろうか――などと、一般人なら色々と詮索したくなってしまう特別な世界に思える。

「……いっそ、見に行こうかな」
「……ん?」
「蓮くんのお店、『オブリビオン』っていうらしいんだ。悩んでばかりいても……このままじゃ先に進めない。どんな場所でどんな風に働いてるのかくらい、知っておいてもいいんじゃないかって」
「蓮の店に? お前、本気か……!?」
「アキさんが一緒なら、男2人でも取材だとか言い訳が立つでしょ?」

そう告げる泉水の表情は固く、強い意思が窺える。

「あ、ああ。まあ、確かに」

想いの確認というか覚悟を決めるための通過儀礼というか、とにかく泉水には必要なこと――らしい。

「じゃあ決まり。そういう訳だから、頑張って早く仕事を終わらせてね」

にっこりと微笑んでプレッシャーをかけてくる。
こうなるともう嫌とは言えない雰囲気だ。

(泉水と一緒に、ホストクラブに行く……!?)

この突然の展開には橘も驚いた。人生何が起きるか分からんなと溜息を吐きたくなったが、当面の目標が決まった泉水は何やらすっきりしたらしく「コーヒー淹れるね」と、さっさとカウンターの中に入ってしまった。
つまりは蓮に対して、そこまで「本気」になったとも言える。

(こればっかりは当たって砕けるしかない、か)

とにかく、店に行く日が決まったら蓮に伝えて、最大限の準備をするように言っておかなければと思う。スキンシップの激しいお客はその日に来させないようにするとか、なるべく大人で物分かりのいい上客を揃えるとか、何とか頑張ってもらうしかない。

(健闘を祈るぞ、蓮。ここが最大の関門……いや、押し倒して最後までやり切るのが一番の難関か……?まぁどちらにせよ、ここを乗り切らなきゃご褒美も何もないんだからな)

恋のお悩み相談から想定外の展開に発展して、不安と期待とが同じくらいの割合で橘の胸に渦巻いた。どうなることやらと苦笑しつつ、自分のスケジュールをどう調整するか考えなければならなかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

幼馴染がそんなに良いなら、婚約解消いたしましょうか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:25,137pt お気に入り:3,538

公爵様と行き遅れ~婚期を逃した令嬢が幸せになるまで~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:837pt お気に入り:24

この結婚、ケリつけさせて頂きます

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,525pt お気に入り:2,908

子供を産めない妻はいらないようです

恋愛 / 完結 24h.ポイント:5,458pt お気に入り:274

あなたが見放されたのは私のせいではありませんよ?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:4,820pt お気に入り:1,657

薫る薔薇に盲目の愛を

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:53

処理中です...