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しおりを挟む魔界において、魔力とは絶対的なものである。
魔力の強い者が優秀で、弱い者は見下される。
だから、生まれたときから弱い魔力しか持たず、体が成長してもそれが変わらなかった琴莉は、悪魔として常に劣等生だった。
周りから呆れられ、嘲笑され、やがて見向きもされなくなる。
両親さえも、琴莉を疎ましく思うようになっていた。優秀な弟が生まれてからは、特に。
不器用で、雑用すら満足にこなせない琴莉は、完全に役立たずだった。
暴力を振るわれることも、言葉で詰られることもなかった。ただ家族の誰一人、琴莉に興味を示さなくなった。
ある日両親に連れられ、琴莉は人間界へとやって来た。
人気のない公園に入り、ベンチに座るよう促される。言われるまま、琴莉はベンチに腰かける。
用事を済ませたら迎えに来るから、暫くここで待っているようにと、両親は琴莉に告げた。
遂に自分は捨てられたのだと、琴莉は理解した。
迎えなど永遠に来ないとわかっていて、それでも琴莉は素直に頷いた。
両親が公園の外へ歩いていくのをじっと見つめる。二人は一度も振り返らなかった。やがて二人の背中は見えなくなった。
もしかしたら、捨てないでと泣いて縋れば、哀れんで捨てるのを思いとどまってくれたのかもしれない。琴莉が手を伸ばせば、両親はその手を掴んでくれたのかもしれない。
でも琴莉は、なにもしなかった。置き去りにされることを受け入れ、ただ立ち去る二人を見ているだけだった。
もし魔界に帰れたとしても、琴莉の居場所はどこにもない。誰にも必要とされていないのだから。
琴莉はその場から動けなかった。
身動ぎもせず、ぼんやりと虚空を見つめる。
琴莉の瞳にはなにも映らない。
なにも考えられない。
だから琴莉は、いつの間にか近づいていた人物に気づくことはなかった。
「ねえ、ここでなにしてるの?」
声をかけられて漸く、眼前に立つ存在に気づいた。
琴莉はゆっくりと顔を上げる。
美しい青年が、そこにいた。
淡い色の髪。優しげな風貌。細身で長身の体格。
誰もが見惚れるような、人間離れした美貌の青年。
人間離れしているのは当然だ。彼は人間ではなく、琴莉の同族。悪魔だ。
外見は人間と変わらない。でも、同じ悪魔には感覚でわかるのだ。確認しなくても、相手が同族なのだと。
人間界で生活する悪魔はそれほど珍しくもない。恐らく彼もその一人なのだろう。
じっとベンチに座っている琴莉は、途方に暮れているように見えたのかもしれない。琴莉が困っていると思い、声をかけてくれたようだ。
琴莉は小さく微笑んだ。
「両親を待っているんです」
そう言った。
もちろん、どれだけ待とうが迎えは来ない。
けれど、正直に両親に捨てられたのだとは言えなかった。そんなことを言っても、相手を困らせるだけだ。彼はただの通りすがりで、偶々見かけた琴莉に声をかけてくれただけなのだから。
青年はにこりと笑った。
「そっか。もうすぐ雨が降るから、遅くなるようなら屋根のある場所に移動したほうがいいよ」
「はい、ありがとうございます」
琴莉は頭を下げた。
青年と別れ、それほど時間が経たないうちに雨が降りだした。
ポツポツと落ちてくる水滴は、やがてザーザーと勢いを増してゆく。
それでも琴莉は動かなかった。動けなかった。どこへ行けばいいのかわからない。人間界に知り合いなどいない。行く宛などない。魔界にも、もう帰れない。
時間だけが過ぎてゆき、雨は止まず、琴莉の全身はぐっしょりと濡れ衣服が張りついていた。それを不快に思う心の余裕もなかった。
真上にあった太陽は、沈みかけている。
両親は、来ない。
わかってはいたが、本当に捨てられたのだと改めて実感する。
自分はいらない子なのだ。必要ないのだ。寧ろ、役に立たない琴莉の存在など邪魔でしかない。
だから、捨てられた。
そんな自分が、行ける場所などない。
ずっとこの場にとどまりつづけることはできないが、居場所のない琴莉は身動きが取れなかった。
じわじわと体温を奪っていく雨が、ふと止んだ。
雨の音は消えていない。雨はまだ降っている。
ぼんやりと顔を上げると、先程の青年が同じ場所に立っていた。
彼が差し出した傘が、琴莉を雨から守ってくれていた。傘は一本しかない。琴莉に差し出せば、必然的に彼が濡れることになる。
こんなことをさせてはいけないと思うのだが、思考が鈍っている琴莉は、なにを言えばいいのかわからない。
言葉が出ない琴莉の代わりに、青年が口を開いた。
「僕と一緒においで」
優しい笑顔を浮かべ、青年は琴莉に手を差し伸べる。
どうすればいいのかわからず、どうするべきかを考えることさえ億劫になっていた琴莉は、その手に自分の手を重ねる。
ほとんど無意識の行動だった。ただ縋るように、青年の手を握る。
彼は優しく握り返してくれた。そうしてそのまま、琴莉を連れて歩きだした。
着いた先は、青年が暮らすマンションの一室だった。
びしょ濡れの琴莉は浴室へと直行させられる。青年も雨に濡れていると思っていたが、よく見ると髪の毛一本すら濡れていなかった。どうやら魔力で雨を弾いていたようだ。
濡れているのは琴莉だけで、滴るほどに水分を纏ったままの状態でいるほうが迷惑になってしまうので、お言葉に甘えて浴室を使わせてもらうことにした。
体と頭を洗い、温められた湯船に浸かる。
随分と物事を冷静に考えられるようになり、琴莉はどうしよう、と頭を悩ませた。
ほとんど勢いでついてきてしまったが、よかったのだろうか。いや、よくはない。
青年はきっと、琴莉に行く宛がないとわかって親切で声をかけてくれたのだろう。それはとても有り難いことだ。こうしてお風呂まで使わせてもらって、感謝しかない。
けれど、どれだけお世話になっても、琴莉には返せるものがない。
もちろんお金など持っていない。なんの伝手もない琴莉が人間界で働いてお金を稼ぐこともできない。そもそも魔力も弱く、不器用で役に立たないから捨てられたのだ。
そんな自分に、恩返しの方法などあるだろうか。
ない。悲しいけれど、断言できてしまう。琴莉の存在は、迷惑にしかならない。
もちろん、彼が琴莉になにか望むことがあるのならば全力で応えたいとは思うが、琴莉にできることなどほとんどないのだ。
ついてくるべきではなかった。ついてきてはいけなかった。
両親にさえ見捨てられた自分が、差し出された手を握ってはいけなかったのだ。後悔しても、もう遅いけれど。
もしかしたら、親切などではなくなんらかの利益を求めて琴莉に声をかけた可能性もある。
例えば、琴莉を殺して内蔵を売りさばくとか。
大袈裟な例えだが、そういう目的があったほうが琴莉としては助かる。それならば喜んで差し出すことができるから。
身動きが取れなくなってしまった琴莉を導き、家に招き入れ、その上お風呂まで貸してくれたのだ。その恩は返したい。
長々と考えている間に、体はすっかり温まっていた。人様の家で長風呂はよくない。琴莉は慌ててお風呂から上がる。
浴室を出ると、ふかふかのタオルが用意されていた。それに、女性用の下着と部屋着まである。見たところ新品だ。
こんなものまで用意してもらうなんて申し訳ない。身につけるべきか迷ったが、それ以外に着るものがない。裸やタオル一枚で出ていくわけにもいかず、琴莉は恐縮しながら袖を通した。
着替えを終え、青年のいるリビングへ向かう。
「あの、お風呂、ありがとうございました」
声をかけると、振り返った青年がにっこり微笑んだ。こっちにおいでと手招きする。
「ご飯を作ったから、一緒に食べよう」
テーブルの上には、二人分の食事が並べられていた。
そういえば、朝からなにも食べていない。今までショックが大きくて食欲も湧かなかったが、用意された食事を目にすると空腹を感じた。
どんなに辛いことがあっても、お腹は減るのだ。
しかし、琴莉は遠慮がちに首を振る。
「あの、私、食べられません……」
「え!? ごめん、パスタは嫌いだった?」
「ち、違います! そうじゃなくて、その、私、お金を持ってなくて……」
「そんな心配しなくても、お金なんて請求しないよ」
「で、でも、私、本当になにも持っていなくて……。お風呂を借りてしまって、着るものまで用意していただいたのに、申し訳ありません……なにもお返しすることができないんです……」
深く頭を下げる。
その頭を、優しく撫でられた。
「そんなに恐縮しなくていいよ。これくらいのことでなにかを要求したりしないから。そもそも僕が勝手に色々世話を焼いただけだし」
「で、でも……」
「とりあえず、ご飯を食べよう。お腹すいただろう? せっかく作ったから、温かいうちに食べてほしいんだ」
そう言われると、食べないほうが失礼だ。
彼に促されるまま、席につく。
美味しそうな料理を前に、琴莉のお腹が我慢できずに空腹を訴える。きゅるり……と間抜けな音が鳴って、琴莉は真っ赤になった。
正面に座る彼にもしっかり聞かれてしまったようで、青年は微笑ましげに目を細める。
「……すみません」
「遠慮しないで、たくさん食べて」
「いただきます」
青年に見守られながら、パクリと一口食べる。
琴莉は瞳を輝かせた。
「美味しい! ……です」
琴莉の素直な感想に、青年は笑みを深める。
「よかった。美味しそうに食べてもらえて、僕も嬉しいよ」
青年も食事に手をつけ、食べながらそう言えば……と口を開く。
「まだ君の名前を訊いてなかったね。僕は凪っていうんだ」
「私は琴莉です」
今になって、名前も知らない相手の家に上がり込み風呂まで借りてしまったのだと気づく。
ショックで思考が鈍っていたとはいえ、改めて思うととんでもないことをしているような気がした。
「間違ってたらごめんね。琴莉はもしかして、行くところがないの?」
「……はい」
今更嘘をつくこともできず、琴莉は頷く。
「そっか。じゃあ、もし琴莉がよければ僕の使い魔にならない?」
思ってもみなかった誘いに、琴莉は目を丸くする。
まさかそんなことを言われるとは全く予想していなかった。
「僕の使い魔になって、一緒にここで暮らそう」
今の琴莉にとって、それはとても有り難い誘いだった。行くところもなく、生活する術も持たない琴莉は、誰かに頼らなければ生きていけないのだ。
けれど琴莉は、その誘いを受けることはできない。
「……すみません。私には無理です」
「僕の使い魔は嫌?」
「そうじゃありません! 使い魔になることになんの不満もありません。寧ろとても助かります。でも、私は魔力をほとんど持っていません。それに、不器用で雑用も満足にこなすことができません。使い魔になったところで、なんの役にも立てないです……」
ここで彼の使い魔になったとしても、きっとまた捨てられてしまうだろう。両親が琴莉を捨てたように。役に立たない使い魔など、いても邪魔なだけだ。
「役に立たなくてもいいよ、別に」
「え、でも、使い魔なのに……」
「使い魔になってほしいのは、契約したいからだよ。僕の首輪を琴莉に嵌めたいから。そうすれば、もう僕から離れられないからね」
「……」
微笑む凪に、琴莉は当惑する。
意図がわからない。どんな理由があって、役立たずの琴莉を傍に置こうとするのか。
わからないが、なにかしらの理由はあるのだろう。そうでなければ、琴莉を使い魔にだなんて言い出さないはずだ。
ならば琴莉は、彼の望みを叶えたい。彼が望むのなら、使い魔にでもなんにでもなる。なんの恩も返さないままここを去るわけにもいかない。
もしかしたら、すぐにまた捨てられることになるのかもしれないけれど。
「あの、凪様がそうしたいのなら、私、使い魔になります」
「琴莉は?」
「え?」
「琴莉はどうしたいの?」
「凪様が望むのなら、凪様の使い魔に……」
「そういう意味じゃないんだけど」
凪は苦笑する。
どうやら彼の望む答えではなかったようだ。
彼の求めているものがわからなくて、琴莉は焦った。このままでは、恩を返す前に追い出されてしまうかもしれない。
不安に顔を曇らせる琴莉に、凪は言った。
「じゃあ、一旦使い魔の件は保留にしようか」
「え、でも……」
「琴莉が自分から望んで僕の使い魔になりたいって思ったら、そのときに契約しよう」
「……わかり、ました」
承諾しながらも、琴莉は凪の言うことがよくわかっていなかった。
今すぐに契約して構わないのに、どうして保留にするのだろう。
凪は琴莉を使い魔にしたいと思っている。琴莉は凪が契約したいと言うのならそうしてほしいと思っている。それでは駄目なのだろうか。
わからないけれど、琴莉は凪の決定に従うだけだ。
「とりあえず、今日からここで一緒に暮らそう。いいね、琴莉」
「はい」
頷くと、凪はにっこり微笑んだ。
優しい笑顔。
思えば、こんな風に微笑みかけられることも随分久しぶりな気がする。もうずっと、笑顔を向けられることも、笑顔を浮かべることもなかった。
琴莉はぎこちなく微笑み返した。
こうして琴莉の人間界での生活がはじまった。
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読んでくださってありがとうございます。
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