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 その症状はそれからも度々起きた。
 優しい雰囲気の凪は親しみやすいのか、女子生徒から声をかけられることは多く、それを見る度にどんどん痛みは強くなっていく。
 胸が締め付けられて、息苦しい。
 この感情はなんなのだろう。
 どうして胸が痛くなるのだろう。
 両親に捨てられても、こんなにも感情を揺さぶられたりしなかったのに。
 琴莉には自分の気持ちがわからなかった。
 けれど、ある日。
 昼休み、女子生徒が凪に会いに保健室にやって来た。凪に会うために、保健室を訪れた。
 琴莉も同じ空間にいるのだが、彼女が琴莉の存在を気に留めることはない。
 琴莉には目もくれず、凪に近づく。
 凪は呆れたように溜め息を吐いた。

「全く……用がないなら保健室には来ないように」
「用はあるもーん。凪せんせーに会いに来たんだもん」

 穏やかに窘められても、女子生徒は悪びれることもなく、大胆にも凪の背中に抱きついた。
 その光景を目にした瞬間、琴莉の感情が激しく揺れた。
 誰かが凪に触れていることが、堪らなく嫌だった。
 そしてこの感情がなんなのか、琴莉は漸く理解する。
 これは嫉妬だ。
 心臓を握り潰されるような痛み。
 彼女に対する、妬ましい、羨ましいという強い気持ち。
 心の内では感情が暴れ回っていたが、やはり琴莉がそれを表に出すことはなかった。口も開かず、指一本動かすこともない。

「こらこら、離れて」
「えーっ」

 凪は女子生徒の腕をやんわりと引き剥がす。
 二人の会話を聞きながら、琴莉はそっと保健室を出た。凪は気づいただろうが、止めることはない。校内では自由にしてていいと言われているのだ。琴莉が保健室から出ることを凪は止めない。
 琴莉が向かったのは玄関だった。
 勝手に学校の外へ出ることを許されてはいない。でも、琴莉の足は止まらない。校舎を出て、そのまま校門を通り抜けた。
 目的があったわけではない。
 ただ、もう凪の傍にはいてはいけないと思った。
 琴莉は彼の使い魔になりたかった。
 けれど、琴莉は使い魔に相応しくない。
 彼に近づく人間に嫉妬するような使い魔など。
 こんな感情を抱く自分に、使い魔になる資格などない。
 使い魔にはなれない。
 ならばもう、彼の傍にはいられない。
 彼の傍にいられる理由がない。
 琴莉はひたすら足を進めた。どこかに向かっているわけではない。
 凪の傍にいられない。凪の傍から離れなくてはならない。
 そんな考えにとらわれ、とにかく歩きつづけた。
 歩いて歩いて、徐々に頭が冷えてくる。冷静にものを考えられるようになった頃には、琴莉は自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
 凪になにも言わず、衝動的に学校を出てしまった。
 辺りを見回すが、全く覚えのない光景が広がるだけだ。
 焦っておろおろと動き回り、自分がどちらの方向から来たのかもわからなくなった。
 こんな形で凪から離れていいわけがない。散々世話になっておいて、挨拶の一つもせずに黙っていなくなるなんて、あまりにも失礼だ。
 彼から受けた恩を、なに一つ返せていない。
 しかし、このまま傍にいたところで、結局琴莉に恩を返すことなどできないだろう。寧ろ恩を増やすだけだ。
 彼の使い魔にはなれないのだから、傍にいる理由もない。
 ならば、このまま凪と別れた方がいいのだろうか。
 でも、挨拶もしていない。せめて今までの感謝を伝えるべきではないか。
 伝えて、そして、やっぱり使い魔にはなれません。ごめんなさい。さようなら。と、言うのか。そんな自分勝手なことがあるだろうか。
 世話になるだけ世話になって。
 拾ってもらって。
 美味しいご飯を食べさせてもらって。
 色んなところに連れていってもらって。
 必要な物も、綺麗な部屋も用意してもらって。
 優しくしてもらって。名前を呼んでもらって。心配してもらって。笑いかけてもらって。
 与えられるものを琴莉はただ受け取るだけで。
 彼の優しさに甘えつづけた。
 嬉しいとか楽しいと感じる、幸せな時間を彼にたくさん貰った。彼と過ごすその時間が、なによりも琴莉にとって大切なものとなった。
 それを彼は惜しみなく与えてくれた。
 彼にとっては取るに足らない、なんでもないものだったのかもしれない。
 たまたま見つけて拾った悪魔と過ごす時間など、特別なものではなかっただろう。
 彼の優しさは誰にでも与えられるもので、琴莉が特別なわけではない。
 それでも、彼と出会ってから過ごした日々は、琴莉にとってはなにものにも代え難い大切なものだった。
 琴莉は首にかけたネックレスの飾りを握り締める。
 凪からもらったそれは、琴莉の宝物となっていた。
 心を落ち着けたくて、縋るように掌の中に強く握り込む。
 どうすればいいのかわからない。
 両親に捨てられたあのときのように、身動きがとれなくなる。
 そしてあの日と同じように、雨がぽつりぽつりと降ってきた。
 琴莉は雨を凌げる場所を探して裏通りへと移動する。けれど見知らぬ場所で、どこへ行けばいいのかわからなくて、同じところをぐるぐると回っていた。
 雨はどんどん強くなる。琴莉はすっかりびしょ濡れになってしまった。
 そのとき、声をかけられた。

「ねえ、君」
「は、はい……?」

 スーツを着た中年の男性が、琴莉に向かって傘を差し出す。

「君、ずっとうろうろしてるよね。もしかして、家出? 行くとこないの?」
「えっ……あ、あの……」
「だったら、僕と一緒にホテルに行かない?」
「え、えっ……?」
「お小遣い、あげるよ」

 男はにたりと笑った。
 彼の意図を察して、琴莉は後退る。
 逃げようとして、しかし踏みとどまった。
 琴莉が人間界でお金を稼ぐには、体を売るのが手っ取り早い。なんのつてもなく、まともな仕事になど就けない。
 だからといって、そんなことをしてまで生きたいとも思えなかった。そんなことをしてまで、生きる理由が琴莉にはない。
 けれど、お金を稼げればそれを凪に渡せる。今までお世話になった分、少しでも返せるのなら。
 琴莉は窺うように男を見た。
 正直、怖い。嫌だ。
 でも、このままでは凪になにも返せない。
 この男についていけば、方法はなんであれ自分でお金を稼げる。
 琴莉がそろりと男に手を伸ばしたとき。

「なにしてるの」

 聞こえてきた声にドキリと心臓が跳ねる。
 顔を向ければ、いつの間にか凪が傍らに立っていた。

「凪、さま……」

 凪はいつもの穏やかな表情を殺し、その瞳は冷たく翳っていた。
 彼の静かな怒りを感じ、琴莉は息を呑む。

「なにをしようとしてたの?」

 感情のこもらない、平坦な声が重ねて問いかける。
 琴莉は答えられなかった。
 彼が怒るのは当然だ。なにも言わず、勝手に学校を抜け出してしまったのだから。結果、こうして捜させる手間をかけさせてしまった。
 なにも言えずにいると、中年の男が不服そうに声を上げる。

「な、なんだお前は、急に……。ぼ、僕の邪魔をするな、その子は僕と話してたんだ……っ」

 男が琴莉に向かって手を伸ばしてくる。琴莉の腕に触れる前に、それは凪に手首を掴まれ阻止された。

「ぎぁっ、いっ……!?」

 男は顔を歪めて呻いた。
 ギリギリと手首を掴み、凪はおもむろに男へ顔を向ける。

「なに勝手に触ろうとしてんだよ。とっとと消えろ、クズが」

 凪は今まで聞いたことがないような冷たい声で吐き捨てる。
 凪と目を合わせた瞬間、男はビクッと体を硬直させた。
 凪が手首を離せば、男はふらふらとした足取りでその場から動き出した。恐らく魔力で催眠をかけたのだろう。
 男の背中が見えなくなり、凪は再び琴莉と向き合う。
 謝らなくては……と焦るのに、思うように声が出せない。
 狼狽する琴莉を静かに見つめ、凪は言った。

「帰るよ、琴莉」
「…………はい」

 どうにかか細い声で、その一言だけを絞り出す。
 凪は琴莉の肩を抱き、次の瞬間には自宅の玄関にいた。魔力を使って移動したようだ。
 琴莉はまっすぐ浴室へ連れていかれた。はじめてここへ来たときと同様、琴莉は雨でびしょ濡れで、凪は全く濡れていない状態だった。
 止める間もなく服を脱がされ、全身洗われ、浴槽へ入れられた。
 温めのお湯に肩まで浸かり、琴莉の体にじんわりと熱が浸透していく。
 凪は浴槽の縁に腰掛け、ずっと閉じたままだった唇を開いた。

「琴莉、あの人間の男についていこうとしてた?」

 低い声音に凪の憤りを感じ、琴莉は恐怖に肩を竦めた。
 まだ一言も謝罪できていない。焦る心を落ち着かせて、口を開こうとしたとき、先に凪が再び言葉を発した。

「僕から逃げたかった?」

 琴莉は弾かれたように顔を上げる。
 なにかに耐えるような表情を浮かべる凪と目が合った。

「逃げる……なんて、そんな、違いますっ」

 必死に否定するが、琴莉の浅はかな行動はそう思われても仕方がないものだ。
 誤解を解きたくて、琴莉はたどたどしくも正直に話した。

「すみません、勝手に学校を抜け出して……。もう、凪様の傍にいちゃいけないって、そう思って……それでなにも考えずに出てきてしまったんです……」
「僕の傍にいちゃいけないってどういうこと?」
「それは……」
「僕の傍にいたくないのなら、正直に言ってくれても」
「違います!」

 自嘲するように唇を歪める凪の言葉を遮り、強く否定する。

「凪様の傍にいたくないなんて、そんなこと絶対に思わないです! 私はずっと凪様の傍にいたい……凪様の、使い魔になりたいって、そう思っているんです……」
「それなら……」
「でも、私は、凪様の使い魔にはなれないんです……」
「どうして?」
「私は、凪様の使い魔には相応しくありません……」
「魔力が少ないから?」
「違うんです……。もちろん、魔力がなくて、使い魔になってもお役に立てないことも気掛かりではあります……。でも、それだけじゃなくて……」
「話してごらん」

 言い淀む琴梨に、凪は続きを促す。琴莉は彼に嘘はつけない。正直に話すことで不快な思いをさせてしまうのではないかと不安だったが、ここで沈黙を選んでも余計に彼を怒らせてしまうだけだろう。だから琴莉は素直に打ち明けた。

「私、嫉妬してしまうんです……」
「嫉妬……?」

 琴莉の言葉が予想外だったのか、凪は僅かに目を瞠った。

「凪様に近づく人に。話しかけたり、触れたり、凪様に親しげに接する人達に、嫉妬してしまうんです。こんな感情、使い魔が抱いていいものではありません……。だから、私は凪様の使い魔にはなれないと思って……それで、衝動的に学校を抜け出してしまいました……」

 凪はなにも言わない。きっと呆れて言葉が出てこないのだ。

「すみません、凪様。凪様は役立たずの私にたくさん優しくしてくださって……使い魔にしてくださると言ってくれたのに……それなのに、私は役に立たないどころか、分不相応な感情まで抱いて……使い魔になれず、ご恩も返せず、申し訳ないです……」
「待って、琴莉」

 頭を下げようとして、止められた。

「嫉妬って、ほんとに?」
「はい……すみません、私……」
「謝らないで。怒ってないよ。そんなことで使い魔になれないなんてことはないから」
「え……」

 琴莉は驚いてまじまじと凪を見つめる。
 凪は本当に怒っていないようだ。先ほどまで酷く冷たかった瞳が和らぎ、ピリピリしていた空気ももう掻き消えていた。
 嫉妬なんて、そんなことができる立場でもないくせに、と罵られてもおかしくないと思っていたのに。
 凪は許してくれるというのだろうか。
 琴莉はそういう感情を抱くこと自体が許されないことだと考えていた。
 でも、嫉妬することを許してもらえるのなら。
 決してそれを言葉にせず、態度にも表さず、ただ琴莉が心の中で勝手に嫉妬するだけ。
 嫉妬の気持ちを言葉に出さない自信はある。そんなことは恐れ多くて琴莉には口には出せない。
 態度にも出さない。
 ただ琴莉が辛い気持ちになるだけ。
 それを許してもらえるのなら。
 それでも凪が琴莉を使い魔にしてもいいと思ってくれるのなら。
 琴莉は彼の傍にいたい。
 嫉妬に苛まれ、悲しくても苦しくても。
 この先も、彼の傍にいたい。
 琴莉はじっと凪を見上げ、口を開いた。

「凪様、私は分不相応な気持ちを抱いてます。とても醜い感情を……そんな私でも、傍にいさせてくれますか? 傍にいることを、許してもらえますか……?」
「そんなの、当たり前だよ」

 凪はあっさりと頷いた。
 許しを得て、琴莉は思わず身を乗り出した。

「凪様、私を使い魔にしてくださいっ。私は、凪様の、使い魔になりたいです……っ」
「その前に、大事なことを確認したいんだけど」
「な、なんですか……?」

 真剣な表情を向けられ、琴莉は居住まいを正す。

「僕に近づく人に嫉妬するってことは、琴莉は僕が好きってことなんだよね?」
「…………好き?」
「もちろん、恋愛的な意味で」

 琴莉はポカンと凪を見上げた。
 凪の言葉を、頭の中で反芻する。
 何度も繰り返し、時間をかけ、漸く意味を理解して。

「ひわぁ……!?」

 顔を真っ赤にして、素っ頓狂な声を上げた。動揺し、うろうろと視線をさ迷わせる。

「そんっ、あっ、わた、私……っ」
「違うの?」
「あ、わ、す、すみません、私っ……」
「答えて、琴莉」

 凪の瞳がまっすぐに琴莉に向けられている。彼の視線に囚われ、目を離せなくなる。

「好き、です、凪様のことが……」

 全く自覚していなかったが、彼を思うこの気持ちは、そういうことなのだろう。
 嫉妬していることには気づけたが、その理由が凪に恋をしていたからだなんてわかっていなかった。
 こんな感情を抱いてしまうなんて。琴莉にはそんな資格もないのに。役に立たない、迷惑ばかりかけている自分が、烏滸がましいにも程がある。
 申し訳なさに恐縮する琴莉の体を、凪は抱き締めた。
 突然のことに、琴莉は狼狽する。

「な、凪、さま……!?」
「よかったぁ……」
「ええ……?」

 凪は琴莉を抱き締めたまま、脱力したように深く息を吐き出す。

「逃げられちゃうかと思った」
「に、逃げる、なんて、そんな……」

 凪は少し体を離し、頬を紅潮させる琴莉の顔を見下ろす。
 琴莉を見つめる彼の瞳はひどく優しかった。

「凪様……?」
「好きだよ、琴莉」
「え……」
「僕も、君のことが好き」

 凪の掌が、琴莉の頬を撫でる。
 呆然と目を見開く琴莉の顔を、凪は愛おしむように見つめていた。

「ずっと。はじめて出会ったときから。僕は琴莉のことが好きだったんだ」
「…………」
「寂しそうな顔をして、でも涙を流すことはなくて。泣くこともできなくて、自分の気持ちを吐き出せない。そんな君の色んな表情を見てみたいと思った。僕が、笑わせてあげたいって思ったんだよ」

 凪の浮かべる微笑みは、琴莉の心を包み込むように穏やかで、優しかった。

「出会ったあの日に好きだって言ったら、傷心の琴莉につけこむみたいで嫌だったんだ。僕が好きだって言えば、琴莉は僕のことが好きじゃなくても喜んで体を差し出そうとしただろうし。僕は、琴莉にも僕のことを好きになってほしかったから」

 いつの間にか琴莉の目から流れていた涙を、頬を撫でる凪の指が拭う。

「最初に言ったよね、使い魔になってほしいのは、契約したいからだって。琴莉に首輪を嵌めたい、そうすれば、もう僕から離れられないからって」
「…………」
「それは、好きだから離したくないってことだったんだよ。琴莉を僕に縛り付けたいだけ」
「…………」
「僕のものになってくれる?」

 琴莉は頬に触れる凪の手の甲に自分の掌を重ねた。
 流れる涙をそのままに、彼を見つめ、心からの笑顔を浮かべる。

「なります。私を、凪様のものにしてください。これからもずっと、凪様の傍にいたいです」

 素直な気持ちを伝えれば、凪は蕩けるように微笑んだ。そして、そっと唇が重ねられた。




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