春は、ばあばのレシピから香る

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第三章

空のレシピ

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 陽の落ちるのが一段と早くなった。

 まだ五時前だというのに、帳場の窓から差し込む光はすっかり夕暮れの色に変わっていた。
 こよりは伝票の整理を終え、ぽつんと一息つくと、帳面棚に目をやった。

 棚の中ほど、和綴じの古いノートが数冊並んでいる。

 どれも祖母の手によって、何十年も大事に使われてきたものだ。

 そのうちの一冊を、こよりは自然と取り出していた。

 「ふじのや 菓子帳」
  
 墨の筆跡でそう書かれた表紙。
 以前、祖母から「見たいなら見な」と手渡されたときのことを思い出す。

 その時、こよりはたしかに“春のページ”が白紙になっているのを目にした。

 けれど、そのときは深く考えなかった。
 ただ、祖母の言葉の調子がどこかよそよそしかったのだけ、妙に記憶に残っていた。


 火を落とした台所で、こよりはノートを膝に乗せたまま、頁をゆっくりと繰った。

 ——夏:葛まんじゅう、水無月、氷室
 ——秋:栗蒸し羊羹、柿羊羹、銀杏餅
 ——冬:芋ようかん、味噌まんじゅう、雪平
 
 筆の運びはたしかで、文字の隙間には調整のメモや「○○年○月改訂」などの付記もあった。

 ところどころ、祖母の筆跡らしい癖字も混ざっている。

 その一つ一つを眺めながら、こよりの鼻の奥には、それぞれの和菓子が持つ匂いがふわりと蘇る。

 葛まんじゅうの冷たく澄んだ甘み。
 柿羊羹の濃厚な秋の香り。
 味噌まんじゅうのほんのり焦げた皮の香ばしさ。

 香りが記憶と結びつくのは、昔からのこよりの性分だった。


 そして——
 「やっぱり、春だけが……」
 
 “春”と墨で記された見出しの先には、真っ白な和紙が広がっていた。

  前に見たときと、何ひとつ変わっていない。

 桜もちのレシピもない。
 うぐいす餅も、花見団子も、何も。

 まるで誰かが意図的に「春」という季節だけを帳面から抜き取ったように、ぽっかりと空白が口を開けていた。

 よく見ると、和紙の間に一枚だけ薄く挟まれているものがあった。

  こよりは指先でそれをそっとつまみ上げる。

 ——押し花。

 淡い桜の花びらだった。

  色はもう褪せかけているけれど、輪郭はきれいなままで、かすかに香りが残っている気がした。


 その夜、食後に湯呑を持って茶の間に戻ってきたこよりは、ストーブのそばで湯たんぽを用意している祖母の背中に、ためらいながら声をかけた。

 「ばあちゃん……あのさ、レシピ帳、また見てたんだけど」
 
 八重は手を止めずに応える。

 「見たって何もないだろ」
 
 「うん。やっぱり春のページだけ、真っ白だった」
 
 「……そうだね」
 
 短い肯定。
 それだけで、祖母は話を終わらせようとしていた。


 「なんで? 春のお菓子、たくさんあるじゃん。なんでそこだけ、何も書いてないの?」
 
 八重は湯たんぽの栓をきつく締めながら、少しだけ目を細めた。

  その横顔には、どこか触れてはいけないものを抱えているような陰があった。

 「昔のことだよ。忘れた」
 
 「でも——」
 
 「忘れたの」
 
 それきり、祖母は立ち上がり、布団のある部屋へと湯たんぽを運んでいった。

  その背中を見つめながら、こよりは茶の間に取り残されたような心地になった。


 夜。

  自室の布団にくるまりながら、こよりは押し花の感触を思い出していた。

  たしか、あれと似たものを昔拾ったことがある。

 春の河原。
 祖母と一緒に散歩した帰り道。

 そのときの桜は、満開ではなかった。

  風に舞う花びらを、こよりが夢中で追いかけて、ひとひらだけ大事そうにポケットへしまった。

  家に帰ると、祖母がそれを新聞紙に挟んで、文鎮を乗せてくれた——。

 あの押し花は、もしかして……。


 祖母の言葉は、何かを“思い出さないようにしている”ようにも聞こえた。

 その沈黙の奥に、春の空白の理由がある気がしてならない。

 こよりは決意も曖昧なまま、胸の奥に芽生えた違和感をそっと抱きしめた。
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