7 / 15
第三章
空のレシピ
しおりを挟む
陽の落ちるのが一段と早くなった。
まだ五時前だというのに、帳場の窓から差し込む光はすっかり夕暮れの色に変わっていた。
こよりは伝票の整理を終え、ぽつんと一息つくと、帳面棚に目をやった。
棚の中ほど、和綴じの古いノートが数冊並んでいる。
どれも祖母の手によって、何十年も大事に使われてきたものだ。
そのうちの一冊を、こよりは自然と取り出していた。
「ふじのや 菓子帳」
墨の筆跡でそう書かれた表紙。
以前、祖母から「見たいなら見な」と手渡されたときのことを思い出す。
その時、こよりはたしかに“春のページ”が白紙になっているのを目にした。
けれど、そのときは深く考えなかった。
ただ、祖母の言葉の調子がどこかよそよそしかったのだけ、妙に記憶に残っていた。
火を落とした台所で、こよりはノートを膝に乗せたまま、頁をゆっくりと繰った。
——夏:葛まんじゅう、水無月、氷室
——秋:栗蒸し羊羹、柿羊羹、銀杏餅
——冬:芋ようかん、味噌まんじゅう、雪平
筆の運びはたしかで、文字の隙間には調整のメモや「○○年○月改訂」などの付記もあった。
ところどころ、祖母の筆跡らしい癖字も混ざっている。
その一つ一つを眺めながら、こよりの鼻の奥には、それぞれの和菓子が持つ匂いがふわりと蘇る。
葛まんじゅうの冷たく澄んだ甘み。
柿羊羹の濃厚な秋の香り。
味噌まんじゅうのほんのり焦げた皮の香ばしさ。
香りが記憶と結びつくのは、昔からのこよりの性分だった。
そして——
「やっぱり、春だけが……」
“春”と墨で記された見出しの先には、真っ白な和紙が広がっていた。
前に見たときと、何ひとつ変わっていない。
桜もちのレシピもない。
うぐいす餅も、花見団子も、何も。
まるで誰かが意図的に「春」という季節だけを帳面から抜き取ったように、ぽっかりと空白が口を開けていた。
よく見ると、和紙の間に一枚だけ薄く挟まれているものがあった。
こよりは指先でそれをそっとつまみ上げる。
——押し花。
淡い桜の花びらだった。
色はもう褪せかけているけれど、輪郭はきれいなままで、かすかに香りが残っている気がした。
その夜、食後に湯呑を持って茶の間に戻ってきたこよりは、ストーブのそばで湯たんぽを用意している祖母の背中に、ためらいながら声をかけた。
「ばあちゃん……あのさ、レシピ帳、また見てたんだけど」
八重は手を止めずに応える。
「見たって何もないだろ」
「うん。やっぱり春のページだけ、真っ白だった」
「……そうだね」
短い肯定。
それだけで、祖母は話を終わらせようとしていた。
「なんで? 春のお菓子、たくさんあるじゃん。なんでそこだけ、何も書いてないの?」
八重は湯たんぽの栓をきつく締めながら、少しだけ目を細めた。
その横顔には、どこか触れてはいけないものを抱えているような陰があった。
「昔のことだよ。忘れた」
「でも——」
「忘れたの」
それきり、祖母は立ち上がり、布団のある部屋へと湯たんぽを運んでいった。
その背中を見つめながら、こよりは茶の間に取り残されたような心地になった。
夜。
自室の布団にくるまりながら、こよりは押し花の感触を思い出していた。
たしか、あれと似たものを昔拾ったことがある。
春の河原。
祖母と一緒に散歩した帰り道。
そのときの桜は、満開ではなかった。
風に舞う花びらを、こよりが夢中で追いかけて、ひとひらだけ大事そうにポケットへしまった。
家に帰ると、祖母がそれを新聞紙に挟んで、文鎮を乗せてくれた——。
あの押し花は、もしかして……。
祖母の言葉は、何かを“思い出さないようにしている”ようにも聞こえた。
その沈黙の奥に、春の空白の理由がある気がしてならない。
こよりは決意も曖昧なまま、胸の奥に芽生えた違和感をそっと抱きしめた。
まだ五時前だというのに、帳場の窓から差し込む光はすっかり夕暮れの色に変わっていた。
こよりは伝票の整理を終え、ぽつんと一息つくと、帳面棚に目をやった。
棚の中ほど、和綴じの古いノートが数冊並んでいる。
どれも祖母の手によって、何十年も大事に使われてきたものだ。
そのうちの一冊を、こよりは自然と取り出していた。
「ふじのや 菓子帳」
墨の筆跡でそう書かれた表紙。
以前、祖母から「見たいなら見な」と手渡されたときのことを思い出す。
その時、こよりはたしかに“春のページ”が白紙になっているのを目にした。
けれど、そのときは深く考えなかった。
ただ、祖母の言葉の調子がどこかよそよそしかったのだけ、妙に記憶に残っていた。
火を落とした台所で、こよりはノートを膝に乗せたまま、頁をゆっくりと繰った。
——夏:葛まんじゅう、水無月、氷室
——秋:栗蒸し羊羹、柿羊羹、銀杏餅
——冬:芋ようかん、味噌まんじゅう、雪平
筆の運びはたしかで、文字の隙間には調整のメモや「○○年○月改訂」などの付記もあった。
ところどころ、祖母の筆跡らしい癖字も混ざっている。
その一つ一つを眺めながら、こよりの鼻の奥には、それぞれの和菓子が持つ匂いがふわりと蘇る。
葛まんじゅうの冷たく澄んだ甘み。
柿羊羹の濃厚な秋の香り。
味噌まんじゅうのほんのり焦げた皮の香ばしさ。
香りが記憶と結びつくのは、昔からのこよりの性分だった。
そして——
「やっぱり、春だけが……」
“春”と墨で記された見出しの先には、真っ白な和紙が広がっていた。
前に見たときと、何ひとつ変わっていない。
桜もちのレシピもない。
うぐいす餅も、花見団子も、何も。
まるで誰かが意図的に「春」という季節だけを帳面から抜き取ったように、ぽっかりと空白が口を開けていた。
よく見ると、和紙の間に一枚だけ薄く挟まれているものがあった。
こよりは指先でそれをそっとつまみ上げる。
——押し花。
淡い桜の花びらだった。
色はもう褪せかけているけれど、輪郭はきれいなままで、かすかに香りが残っている気がした。
その夜、食後に湯呑を持って茶の間に戻ってきたこよりは、ストーブのそばで湯たんぽを用意している祖母の背中に、ためらいながら声をかけた。
「ばあちゃん……あのさ、レシピ帳、また見てたんだけど」
八重は手を止めずに応える。
「見たって何もないだろ」
「うん。やっぱり春のページだけ、真っ白だった」
「……そうだね」
短い肯定。
それだけで、祖母は話を終わらせようとしていた。
「なんで? 春のお菓子、たくさんあるじゃん。なんでそこだけ、何も書いてないの?」
八重は湯たんぽの栓をきつく締めながら、少しだけ目を細めた。
その横顔には、どこか触れてはいけないものを抱えているような陰があった。
「昔のことだよ。忘れた」
「でも——」
「忘れたの」
それきり、祖母は立ち上がり、布団のある部屋へと湯たんぽを運んでいった。
その背中を見つめながら、こよりは茶の間に取り残されたような心地になった。
夜。
自室の布団にくるまりながら、こよりは押し花の感触を思い出していた。
たしか、あれと似たものを昔拾ったことがある。
春の河原。
祖母と一緒に散歩した帰り道。
そのときの桜は、満開ではなかった。
風に舞う花びらを、こよりが夢中で追いかけて、ひとひらだけ大事そうにポケットへしまった。
家に帰ると、祖母がそれを新聞紙に挟んで、文鎮を乗せてくれた——。
あの押し花は、もしかして……。
祖母の言葉は、何かを“思い出さないようにしている”ようにも聞こえた。
その沈黙の奥に、春の空白の理由がある気がしてならない。
こよりは決意も曖昧なまま、胸の奥に芽生えた違和感をそっと抱きしめた。
0
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
十年目の結婚記念日
あさの紅茶
ライト文芸
結婚して十年目。
特別なことはなにもしない。
だけどふと思い立った妻は手紙をしたためることに……。
妻と夫の愛する気持ち。
短編です。
**********
このお話は他のサイトにも掲載しています
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる