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18 逃走 3

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 聖エーデル女子修道院への道程は、ビアンカとゲオルグという二人の軍人が護衛に付いてくれたお陰で順調だった。

 しいて言えば、一度イノシシのような獣に襲われたくらいである。ちなみにその獣は二人によってあっという間に撃退され、夕食のおかずになった。

 二人ともサバイバルはお手の物だ。野宿する事になっても二人の手にかかれば、幌馬車はあっという間に快適な寝床に変わる。
 有紗は何も出来なくて申し訳ない気分になった。荷台の床に毛布をひく程度の手伝いしか出来ない。

「ごめんなさい、何も手伝えなくて」
「アリサは一応護衛対象だからなぁ。ふらふら出歩くより馬車の中で大人しくしてくれた方が良いんだよ」
「そうですよ。力仕事はこの脳筋にやらせておけばいいんです」
「俺は考える筋肉だぞ?」

 ビアンカはゲオルグに少し冷たい。

 火を起こすのも食事の準備も二人とも非常に手際がいい。

 聞けば軍に入るとまず徹底的にサバイバル技術を仕込まれるそうだ。
 貴族も平民も関係なく、背嚢一つで一週間山の中を歩き続けると聞いて有紗はぞっとした。

 それはとても厳しいもので、背嚢の中の食料を一週間もつように考えて配分するだけでなく、野外で捕まえた鼠や蛇などを調理して食べる訓練もするらしい。
 ついでに一定の歩幅で歩きながら歩数を数える事を求められ、定期的に今どれくらい歩いたのかを教官に抜き打ちのように尋ねられるとか。あまりにも見当違いの答えを告げると、容赦のない鉄拳が飛んでくるらしい。



 身体は正直辛い。幌馬車はサスペンションなんて気の利いたものはなく、街中と違って道も舗装されていない為酷く揺れるからだ。
 お尻は痛いし有紗は乗り物に弱い。移動中は常にぐったりとした状態で嘔吐用の盥が手放せないが、気分はこちらに来て初めてと言っていいくらい凪いでいた。
 ビアンカもゲオルグも、それが仕事とは言え親切で、何よりも首輪の拘束が無くなったという解放感が素晴らしい。
 有紗は、ディートハルトの奴隷である事が心底嫌だったのだと実感していた。



「お、ビアンカ、暗号通信が来てる。解読してくれ」
 馬車の中の荷物を確認していたゲオルグが、一枚の紙片をビアンカに渡した。

「考える筋肉とか嘘ばっかりじゃないですか」

 ビアンカは冷たい眼差しを向けつつ紙片を受け取ると、真剣な表情で読み始めた。

「殿下が国王陛下を問い詰めたらしいです。それによると、殿下は随分とアリサに執着していたそうです」
 寒気が走り、有紗は身を震わせた。

「その通信の中で、殿下は陛下と賭けをされたそうです。アリサにとっては大変残念なお知らせになりますけど、聞きますか?」
「はい。教えてください」
「一言で言うと三年以内にアリサを探すゲームです。賭けるものは殿下の結婚。三年以内にあなたが見つからなかったら、殿下は貴族の娘を娶って、子を作ることを約束されたそうです」
「それってつまり三年逃げ切ればいいって事ですか?」
「いいえ、子が出来たら陛下はアリサを殿下に返すと……」
「それって最終的に私はあの人のところに戻されるって事じゃないですか!」
「そういう事になりますね。だからアリサにとっては残念なお知らせだと言いました」

 ビアンカの言葉に、有紗はがくりと肩を落とした。

「結局私って、結婚したくないあの人を、穏便に結婚させる為の餌として王様に使われたって事ですか……」
「ま、所詮はテラ・レイスの扱いなんてそんなもんだって事だな」

 デリカシーのないゲオルグの発言に、有紗はじめっと湿った目を向けた。

「案外逃げ回るうちに殿下の執着が薄れるかもしれませんよ?」
「いやー、逃げるものは追いたくなるのが男の習性だからな……」

 ビアンカと違ってゲオルグは実に無神経だ。

「どうしてあの人は私に執着するんでしょうか……」
「そりゃあっちの具合が相当いいからだろ。平民の俺にはわかんねーけど」
「ゲオルグ!」
 鋭いビアンカの叱責が飛んだ。

「俺にはわかんねーんだけどさ、一つ聞いていいか、アリサ」
「はい」
 ゲオルグの質問に有紗は頷いた。

「アリサはなんでそんなに殿下が嫌だったんだ? テラ・レイスの奴隷が買われる先としてはたぶん一番いい相手だぞ?」
「それは……」

 ゲオルグに尋ねられ、有紗は言葉を詰まらせた。

「奴隷として売られた女ってのはさ、娼館に売られるのでもまだマシな方だ。きつい肉体労働やらされたり、道端で汚らしい労働者のおっさん相手に体売ってる子だっている。殿下は見目もいいし地位もある。何が不満だったんだ?」

「奴隷として扱われる事自体が……私には受け入れられない事なんです。突然元いた世界からこっちに来て……希少生物だからって売り飛ばされて……」

 有紗は頭の中で考えを整理しながら答えた。

「私が元いた世界では、身分制度はありませんでした。国民は皆平等という考え方の中で育ってきて……こちらとは全然価値観が違うんです。例えばゲオルグは、お前は今日から犬だから、犬として過ごせって言われた場合、すぐにそれを受け入れられますか?」

「あー……うん、そっか……ちょっとだけわかったような気がする」

「だからゲオルグは脳筋なんですよ。デリカシーの欠けらも無い」

 ビアンカはやっぱりゲオルグには容赦ない。

「うっせーな……俺は現実主義者リアリストなんだよ。テラ・レイスってのは一度こっちに来ちまったら、もう二度と元の世界には戻れないんだろ? それならこっちの流儀に慣れるしかないじゃねーか。こっちではテラ・レイスってのはもれなく権力者に囲われる奴隷だ。なら、アリサにとって一番いいのはやっぱり殿下に囲われる事だと俺は思うぞ」

「まあ、確かにそれはそうですよね。親子ほど年の離れた汚い中年親父に囲われるよりは、殿下の方がずっといいかと」

 ゲオルグとビアンカの言う事はもっともで――有紗も頭ではわかっているのだ。でも、感情が付いていかない。

「この世界は私には凄く理不尽で……理不尽に流されるうちにあの人に買われて、……隷属の首輪で縛られた状態で無理矢理抱かれました。そんなので好きになれる訳ないじゃないですか。嫌な事いっぱい言われたし、されたし……あの人私の事穴って言ったんですよ。気兼ねなく色々できる穴だって」

 思い出すと、情けなさと悔しさと腹立たしさが湧き上がり、じわ、と涙が滲んだ。

「うわ……酷いな殿下、女の子にそれ言っちゃう?」
 ゲオルグがぼそりと呟いた。

「それにあの人凄くしつこいんです。一晩に何回もするし、痛いって言っても聞いてくれないし……」

「一晩に何回って、具体的に何回くらい……?」
「黙りなさい。下品ですよ」
 ばしん、とビアンカはゲオルグを叩いた。

「いややっぱそこは気になるよ。殿下の精力どれくらいかなーって。精力なら俺も負けてな」
「今すぐ死にますか?」

 ビアンカが手の平に魔力を集中させたのを見て、ゲオルグは慌てて沈黙した。

「まあ、でもあれだな、口で色々言われるくらいは我慢しとけ。奴隷の扱いとしてはマシな方だ」
「そうですね。ツァディー神は奴隷は温情をもって扱え、と仰られていますけど、実際は虐待する主人は結構存在します。奴隷の待遇というのは主次第なんですよ」

「わかってます。わかってるんです」

 性的な事は色々されたけど、殴られた訳じゃない。
 それはきっとこの世界の奴隷の中ではマシな扱いなのだ。

 でも。
 有紗は肩を落とした。

(何でこんな事になっちゃったのかな)

 帰りたい。
 望郷の想いと共にじわりと涙が浮かび、視界が歪んだ。


   ◆ ◆ ◆


「昨日は悪かったな、アリサ。俺も大人げなかったわ」
 翌日、馬車の上で有紗はゲオルグに謝られた。

「いえ、私も自分の考えが甘かった事を思い知らされたので……」
 有紗は首を振る。それに、昨日ゲオルグやビアンカに言われた事を元に考えて気付いたのだ。

 ディートハルトに抱かれる事自体はそこまで嫌じゃなかった。嫌だったのは奴隷として酷い事を言われたり、身体を貪られたりする事だ。

 服やアクセサリーを買ってくれて、優しいところもあった。
(ディートハルトの事は嫌いじゃない)

 むしろ――
 子供っぽくてだらしない所もあって、時々意地悪で、だけど、そんな所も魅力的に思える人だった。顔は文句無しに良かったし、所作も育ちがいいだけあってとても優雅で気品があった。

 もっと有紗の気持ちをちゃんと聞いてくれていたら。酷い事を言わないでくれたら。あんな首輪なんてなかったら。……対等の立場だったら。

 そんな仮定をする自分はきっと、ディートハルトに淡い恋をしていたのだ。

(だって凄く顔が良いんだもん)

 緩やかに波打つ金色の髪も鮮やかな深紅の瞳もとても綺麗だった。
 理想的なパーツが理想的に配置された整った顔立ちも。
 男の人なのに睫毛がすごく長くて、肌も陶器みたいだった。
 背が高くて、軍人だけあって細いのに筋肉はしっかりついていて、スタイル抜群で――

 そんな人が夢見るような眼差しで有紗を抱くのだ。心が動いても仕方ないと思う。しかも彼はこの国の王子様だ。

 だけど、彼は王子様で有紗はこの世界では奴隷にされてしまうテラ・レイスだ。
 彼に見つかったら結局また逆戻りになってしまう。

 それは嫌だと思う一方で、国王との賭けの内容を考えると、三年以内に戻るのもアリかな、なんて思ってしまう。
 有紗がいればそれでいいと言ったディートハルト。
 それは、有紗を彼の唯一にしてくれるというのと同義ではないかと気付いてしまったのだ。

 しかし、戻れば待っているのはまた奴隷としての日々だ。
 彼の気持ち次第で処遇が決まってしまう不安定な立場。飽きられたらその後どうなるかわからない、というのは怖くてたまらない。

 いけない。堂々巡りだ。
 有紗はふるふると首を振った。

 ひとまず、国王は有紗に時間をくれたのだと思うことにしよう。
 有紗は考える。

 ディートハルトの執着がこのまま薄れれば……寂しいと思う気持ちはあるけれど、きっとそれが有紗にとっては一番いい。
 もしそうでない場合、有紗は最終的には彼の元に戻されてしまう。
 ならば、どのタイミングで、どういう形で戻るのかは有紗自身にも決められる。
 前提としてディートハルトに見つからなければ、という但し書きは付くが。

 有紗は馬車の荷台から空を見上げた。
 上空には、憎らしいほどの青空が広がっていた。
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