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10.教会の白壁

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 ザゴラからリヴァディアに戻って半月ほど、アシェル殿下は特段いつもと違う行動を起こされることはなかった。
 
 ザゴラが近いうちに攻めてくるのでしょうか? とお聞きしたら、「あぁ」と答えてはいただいたが、殿下がどうするおつもりなのかは伺うことはできなかった。
 ザゴラの整然と並ぶ軍隊と、オレウス大臣の余裕の笑みを思い浮かべると、今までザゴラの侵撃を食い止められていたのは奇跡に等しいとさえ思えてくる。
 今何か手を打たなければ、今度こそ我が国はザゴラの大軍の前にひれ伏すこととなるに違いない。
 殿下は必ずきっと、何か考えていらっしゃると思うのだが、今日も今日とて、いつもの仮面パーティーに来て、立ち飲みの席で何をするでもなく酒を飲んでいる。

「ミスター・バタフライ」
 ふと後ろからかかった聞き覚えのある声に、殿下が振り返った。
「エメラルド、君を待っていた」
 歓待の光を湛えたアシェル殿下の眼差しに、エメラルドが口元に少し笑みを浮かべた。
「あちらで話しましょう」
 エメラルドは、ホール奥のソファー席に殿下を導いた。

 分厚いカーテンで仕切られたソファー席へ入っていった二人を、少し離れた場所から見守る。
 もしかしたら、アシェル殿下はザゴラの問題をエメラルドには、話したのかもしれない。
 俺には何も……
 何かがチクリと自尊心を傷つける。

 なぜ俺には何も話してくれないのだろうか。
 もしや、アシェル殿下はオレウス大臣と組んで、リヴァディアを裏切るおつもりなのだろうか? だから融通の効かない俺には何も話してくれないのだろうか……
 
 鬱々とした気持ちで酒に口をつけていると、少し明るい表情をした殿下がソファー席から出てきた。
「屋敷に戻る」
 そう告げた殿下は、いつもの娼館コースは辿らず、珍しく早い時間に帰宅した。


 帰宅後、執務室に呼ばれた俺は、そのままの格好で二階の部屋へ向かった。
 扉をノックして部屋に入り、アシェル殿下の執務机の前に立つ。

「二日後、本教会に潜り込む。着いてこい」
 アシェル殿下の声はいつも通りの落ち着いた声だ。
「イオニア教本部ですか?」
 なぜ急に教会施設なのか、全く理由が分からない。
 エメラルドとの会話に起因するのだろうか?
 
「教会がザゴラの人間を多数匿っている可能性が高い」
 思いもよらない話に、殿下を見返す。
「オレウス大臣は、リヴァディア国内に足掛かりがあると匂わせていた。雑務手伝いとして潜り込む。準備しておけ」
 アシェル殿下は話はもうこれで終わりだと言わんばかりに、先ほどまで書きかけていた何かの書状に目を戻した。
 俺は承知した旨を告げて、執務室を後にした。
 
 自室に戻りながら、俺の心は久しぶりに晴れやかになっていた。
 アシェル殿下は最も脅威のある事案へ、取組んでおられた。
 一瞬でも、殿下の裏切りを心配した自分が恥ずかしい。

 アシェル殿下の御身をお守りしながら、俺もザゴラへの対策に貢献できる。これまでの悶々とした焦りをやっと打破できる。
 俺は少し興奮状態にあったのか、なかなかこの日は眠りにつくことができなかった。

   ※

 二日後、アーバスノット辺境伯の使いという者に付き添われ、イオニア教会の裏口に向かったのは、昼を過ぎた頃だった。
 
 アシェル殿下に教えていただいたところによると、エメラルド殿はアーバスノット辺境伯の嫡男、エドワード卿その人だということだ。
 アーバスノット家といえば、ザゴラとの国境を守る屈指の軍門貴族だ。アーバスノット家にザゴラの情報が伝えられたというのならば、若干心の平穏が保たれる。

 エメラルド殿はザゴラとの国境を通過した者の記録を見て、イオニア教会が発行した入国手形がやたらと使われていることに気がついたらしい。
 アシェル殿下ご自身が潜り込む以外の方法はないのだろうかとも思ったが、事態は緊迫しているのかもしれない。それに、アシェル殿下はご自分の目で見た感覚を大事にされる傾向にあることを、俺は最近理解した。

「ついてきなさい」
 教会の裏口で待っていた白い装束を着た教会の男が、俺と殿下の前を歩き始めた。
 ひなびたレンガの道の横には、石の塀に仕切られた薬草園らしきものがいくつも続き、何人か籠を手にした青年がその葉を摘んでいる。

 薬草園横に建てられた白い壁の長屋の中に案内されると、「この部屋を就寝に使いなさい」と指示された。
 部屋に入ってみると、狭い室内に粗末なベッドが二つ壁際にあるだけだった。

 着替えなど布包み一つで収まる荷物を部屋に置くと、さっそく作業場に連れて行かれた。
 細身の殿下は薬草の手入れや加工を行う施設に向かい、俺は敷地内の新しい建物を建てている現場に連れて行かれた。

 俺が連れて行かれたのは、六人の作業員がいる収蔵庫を建てる現場だった。
 そこで黙々と地面をならす作業をしながら、俺はすぐに気がついた。
 三人の作業員は、明らかに軍人だ。
 鍛え上げられた均整の取れた体躯。妙に落ち着いた目。
 騎士団によくいるタイプの人間だ。

 早速の収穫に喜びを覚えながら一日目の作業を終えると、現場監督のジョージが食堂まで案内してくれた。
 五十人ほどの人間が、古びた木の長テーブルに所狭しと座って夕食にありついている。
「ウィル君はここに来る前は何をしていたんだい?」
 プレートに盛られた大盛りの芋と野菜のおかずを食べながら、ジョージが聞いてきた。
「屋敷の警備です」
「なるほど。どうりで鍛えた体をしているわけだ。僕はプエリンコの街で大工をしてたんだけどね。教会から礼拝堂を建てたいと呼び出されてね」
 人の良さそうなジョージは、おそらくザゴラの人間ではないだろう。もう少し様子を見て、工事の規模など後で聞き出しておこう。
 
 ジョージと当たり障りのない会話をしつつ、夕飯を食べていると、隣の席に体格の良い三人の男が座った。

「今夜はセトちゃんにしようかなぁ」
 塊肉を口に運びながら、髭の生えた男がぼやくと、周りの男が行け行け、と下品に囃し立てた。
「今日、極上の美人が新しく入ってきたらしいぜ」
「そうそう、透けるような色白の肌に、青い目の」
 思わずピクリと聞き耳が立つ。
 こいつら殿下に対して、不埒なことを考えてはいないか?
 
「この教会、マジ綺麗な男が多いよなぁ」
 ゲラゲラと笑う男達に、若干焦りの感情が湧く。
 
 今、食堂内に殿下はいらっしゃらない。もう、部屋に戻られたのだろうか?
 殿下は腕も立つので、そう簡単には襲われないと思うが、多勢に無勢だとどうしようもない。
 俺は急いで目の前の食事を平らげると、ジョージさんへの挨拶もそこそこに、急いで部屋に戻った。
 
 薬草園横の長屋に戻ると、部屋で殿下が上半身を濡れた布で拭いていた。
「アッシュ。無事か?」
「ウィル、どうした?」
 少し驚いた目でこちらを見る殿下に、ひとまずほっとする。
 食堂で見かけた男を漁っている奴等のことを告げると、殿下は笑って大丈夫だと答えた。
 
 少し安心した俺は、本題の土木作業の現場にいたザゴラ兵らしき男のことを殿下に報告した。
「なるほど。私がいた薬草園に、怪しい人間はいなかった。あそこでは教会内の噂話くらいしか情報が手に入らない。兵士が潜り込んでいるならば、力仕事が必要な場所だろう。ウィルが頼りだ」
 殿下にじっと見つめられて、頷く。
 殿下のお役に立てることが、嬉しい。
「私は教会の首謀者の目星をつけなくてはな……」
 考えこむ殿下に、注意を促す。
「一人きりになってしまう場所には行かないように」
「あぁ」
 殿下の空返事に、不安が拭えない。
「大人数で襲われたら、どうにもできない」
「わかっている。心配性だな」
 殿下が大丈夫だと俺の腕を叩いた。
 
 いや。わかっていないような気がする。
 教会内では、いつも殿下の側にいれる訳ではないのが辛い。
 お命を狙われる様なことはない思うが、殿下の体が穢される様なことがあってはならない。

「護身の確認をしよう」
 真剣に訴えると、殿下はしょうがないな、と話を聞いてくれた。
「常に危険なものへの警戒を解かないように」
 俺の話に、殿下が軽く頷く。
「トラブルからは逃げることが最優先だ。次に隠れること。闘うのは最後の選択肢だ」
「男らしくないな」
 そう笑う殿下に、くだらないチンピラに関わる必要はないと、念を押す。

「腕を掴まれた時は、逃げようと遠ざかっても振り解くことはできない。逆に体を近づけつつ、振り解くんだ。」
 殿下の腕を片手で掴んで、実演させる。
「おぉ。ウィルの握力でも振り解くことができるな」
 殿下が感心している。

「相手に馬乗りになられるようなことがあったら、そこも逃げるチャンスだ」
 殿下を壁ぎわの硬いベッドに寝かせ、その上に乗り上げる。
「男の急所を潰すつもりで、殴りこんで」
「実演してもいいのか?」
 殿下が俺の下でおかしそうに笑っている。
「潰さない程度なら……」
 思わずこちらも笑いが漏れる。
 殿下が俺の股間に向かって拳を振りかざし、コツンと当てた。

「相手が痛みに怯んだら、逆に相手を床に抑えこむように」
 ゴロンと大勢を変え、殿下を俺の上に乗らせる。
「自分の急所をガードしつつ、相手の目鼻を殴りつけて」
 俺の上にまたがる殿下を見上げると、殿下が悪戯いたずらな笑みでこちらを見下ろしている。

「お前の顔を殴りつけることなんて、できないな……」
 殿下がそう言いながら、俺の髪をかき上げる。
「こんな男前だからな」
 殿下が白い指でツツと俺の首筋をなぞった。

 ゾワっとした快楽が全身を駆け抜け、鼓動が跳ね上がる。
 慌てて殿下の腕を掴み、それ以上触れられないように手を遠ざける。
「講義は、終わりだ」
 俺の余裕のない様子に殿下が笑う。
「ふふ。そうか。参考になった」

 殿下は俺の上からすぐに降りてくれたが、まだ胸の鼓動が速い。
 何をやっているんだ、俺は。
 明日もやるべきことは沢山ある。
 殿下の守衛にも集中力を切らしてはいけない。

 俺は深く息を吐き、ざわつく心を気力で鎮めた。
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