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大丈夫じゃない
しおりを挟むそれらしい扉を順番に開けていく。遠方からの巡礼者が泊まるベッドが並ぶ部屋、ワインを収納する部屋……。
この時になって私は言いようのない不安に駆られていた。誰ひとりとしていない。聖職者のひとりでも出会ってよさそうなのに、気配がまったく感じられないのだ。
反対側の回廊まで進み、ようやく書庫が見つかった。書庫内へと足を踏み入れた私は目を瞠る。燭台に置かれた蝋燭が轟々と、尋常ではないくらい燃え盛っていた。呆然と固まっていると、開け放たれた窓から風が吹き込んで燭台が音を立てて倒れた。
すぐに駆け寄り、火を消そうと足で踏む。消えるどころか広がる一方だ。近くのテーブルにかけられていたリネンを掴んで、被せたけれどますます炎の勢いが強くなっていく。
(水……。そうだ、魔術で)
震える指先に力を込めて、水を使役する魔術文を唱えた。もう一度繰り返す……。
なにも起きない。
それはそのはず、私にはできない。混乱しすぎて正常な判断ができなくなっていた。
「けほっ……」
書庫内に煙が立ち込めていた。目は痛くて涙が滲むし、息苦しい。
きつく目を閉じて、逸る心を落ち着かせる。
(もう一度だけ……)
そっと息をつき目を見開いた、その時だった。
後ろから抱きしめられた私の耳元で魔術文が唱えられる。低い声は、らしくなく緊張していた。詠唱が終わった瞬間、書庫内すべてが氷で凍てつく。瞬きする間もないくらい一瞬のことだった。
腕が解かれ、私は助けてくれた礼を述べようと振り返る。
けれど、先に口を開いたのはユーリだった。
「貴女は、なにをしているんです……!あの場で待っているよう言ったはずだ」
「……すみません」
ユーリも大きな声を出すのか。初めて触れた彼の剣幕に気圧されて、大きく見開いた瞳からぼろっと涙がこぼれた。
はっとユーリが息をのむ。
「怒鳴ったりしてすみません。怪我はしていませんか?」
ハンカチで涙を拭う彼の手はぎこちない。
私は「大丈夫です」と頷いた。
「よかった」
緊張を解いたユーリが、震えている私を支えて書庫の外へと連れ出す。
「書庫へはなぜ?」
「燭台の蝋燭の火が気になってしまって……」
私はまだ混乱していたのだと思う。
これでは前もって火事が起きると知っていたみたいだ。慌てて口をつぐむと、ユーリはそれきりなにも尋ねてこなかった。
回廊のベンチに座った私の前にユーリが膝をつく。どんどん表情が消えていく彼に向かって、私は大丈夫だと伝えた。
「火傷をしてるじゃないですか」
「これくらい、だいじょ」
「貴女のそれは口癖ですか?痛いなら痛いと、我慢しないで教えてください」
叱られた私は謝罪の言葉を口にする。
「……すみません。ご迷惑をおかけしました」
「謝ってほしいわけではないんです」
痛ましいものを見るように顔をしかめられ、なにも言えなくなる。徐にユーリが立ち上がったので、私もそちらを向いた。
オーブリー殿下とルルーシュ様、護衛の近衛騎士数名、そして大司教を含む聖職者たちだった。
「これはどういう状況だ」
「ピアニー……!」
「待ちなさい、ルルーシュ」
立とうとした私を、オーブリー殿下がそのまま座っているよう手で示し、こちらへ駆けて来ようとしたルルーシュ様を押しとどめた。
「ユーリ」
「は。予想どおりです」
ユーリが胸元からなにか取り出して、オーブリー殿下に手渡した。台帳のようなものだ。
すると、大司教が騒ぎ始めた。
「どうしてそれを……!」
「ようやく提出された帳簿は塗り潰しが多くて、意味をなさないから拝借したよ。ああ、なるほど。貴族派からかなりの額が入金されている。公開できない後ろめたい理由でもあるのかい?」
帳簿をめくるオーブリー殿下に大司教が手を伸ばそうとして、当然ながらすぐに騎士たちに阻まれた。
「高貴なるローゼンガートルードの王太子殿下ともあろうお方が、泥棒のような真似をなさるとは。教会の建物内は聖域、権力や法の支配からは不可侵。裁判所も国王陛下も、手出しはできないとよくご存じのはず」
「お前、僕を馬鹿にしてるな」
オーブリー殿下がゆったりと微笑む。
まったく笑ってはいない冷たい目に、ゾクっとした私は胸元のマントをぎゅっと掴んだ。
「なるほど聖域か。ではこの場でお前を叩き斬っても神は赦してくださるかもな。お前に煩わされるのはうんざりしていたからよい機会だ。言っておくが簡単には終わらせないよ。僕はすごく腹が立っているからね」
誰からも慕われる、穏やかな王太子殿下の口から出てきた言葉とはとても思えない。冷酷な一面を目の当たりにした大司教は蒼白になっていく。
底知れぬ恐怖を感じ震える私を、ユーリがマントでぐるりと包み直した。
別に寒いわけではない。オーブリー殿下が怖いだけなのだけれど、それは絶対に言ってはいけない。
「やましいことなど、なにも。おいっ……!」
険しい視線を一身に受ける大司教が唐突に私を指差して怒鳴りつけた。
「そこの女、お前が書庫に火をつけたのだろう」
すぐには理解できずに私は瞬きする。
「……私は」
関係ないと言いかけた時。
「喚くな。お前と言ったか?ふざけた発言は慎め、話しかけるな、彼女を視界に入れるな」
聞いた者を凍りつかせてしまうような底冷えする声に、私は周囲をゆっくり見回した。
目が合ったオーブリー殿下がにこっと微笑んで口元に人差し指を当てる。私は開いたままだった口を閉じた。
次に騎士たちに目を向けたけれど、彼らは一様に首を横に振るばかり。ルルーシュ様は愉しげに口角を吊り上げた。
残された可能性に、私はユーリの綺麗な横顔をじっと見つめる。
(まさか、ユーリ……?)
彼はこれまで一度だって私の前で態度を崩したことがない。いつも丁重すぎるくらいだった。
戸惑う私と振り向いたユーリの視線が重なる。冷たい緑の瞳が温度を持ち始めたように見えるのは、私がどうかしているせいだろうか。
再びユーリが前を向くと、大司教はぐるんっと勢いよく顔を背けて、私が視界に入らないようにした。騎士たちも心なし視線を伏せている。
「案内する場にいなかったその女……ではなく、彼女がなにか細工したに違いない。素直に告白すれば罪は赦されるだろう」
帳簿の件からえらく飛躍したものだ。まさかの放火魔扱い。考えてみると、ちょうど現場に居合わせた私は怪しいかもしれない。
小説にはなかった展開に頭が痛くなってくる。
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