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例えば
しおりを挟むふわふわと、髪や頬を撫でられる感触に身じろぎした。
なにをしていたんだったか、ぼんやり思案する。浴室を出て、ユーリを待っていて、いつの間にか眠ってしまったみたいだ。
「目が覚めましたか?」
不意に上から声をかけられて、瞬きしながら顔を向けると、私を見下ろしているユーリと目が合った。馬車の時と同じ、膝枕だ。
慌てて身を起こしたはずみで肩からずれ落ちたブランケットをユーリが掛け直す。肩に置かれた手が、ゆっくり外された。
「着替えをどうぞ。オルタンス男爵令嬢から色々と預かっています。……その、下着だと。俺はドレスのことしか考えていなかったので、貴女を困らせるところでした」
「お手数をかけまして……」
恥ずかしがるユーリを見ていたら、私まで恥ずかしくなってきた。ふと、ブランケットの中はなにも身に付けていないのだと思い出して、二度頬が熱くなる。
持っていた本を閉じたユーリが立ち上がった。
テーブルに置かれた着替えを見ていた私はユーリへと視線を戻す。
「手伝いが必要?」
「……いえ、ひとりでできます」
「俺は眠り姫に紅茶を淹れてくるので、用があれば呼んでください」
そういえばユーリの前で、何度も寝入ってしまった。私の警戒心はどこに行ってしまったのか。とはいえ、ユーリは私の裸を見ても顔色ひとつ変えなかったのだから、変に意識するのは勘違いもよいところだ。
着替えを終えたところで、茶器を手に持ったユーリが部屋に戻ってきた。
「ここを出て、すぐ騎士団に向かいました」
隣にユーリが腰かけて、テーブルにカップを静かに並べる。
仕事が早いですね、と声をかけられる空気ではないので私は黙って頷いた。
「つまずいた貴女をヴェリテ伯爵令嬢が庇おうとして、ふたりで噴水池に落ちた。ヴェリテ伯爵令嬢が自力で這い上がり、貴女を助けようとしたところに俺が駆け付けた。ここまで合っていますか?」
「ええと、はい」
「……わかりました」
わかりましたと言いながら、妙な間が納得していないと雄弁に語っている。
私も、ヴェリテ伯爵令嬢の話には違うのではと思う点が……。でも感じ方は人それぞれ、同じものを見ていても意見に食い違いが生じるものだ。あの時は私も彼女も動転していたから、余計にそうだったのではないか。
膝に置いた私の手をユーリが握った。
「別れろと言われた……?」
ぎょっと目を大きく見開いた私を見つめるユーリが眉を寄せる。
「それについて、貴女はなにも反論しなかった」
「アークレヒト公子様。それは、ですね」
説明しかけた私の唇に、もどかしそうにユーリの人差し指が押し当てられた。
「俺の代わりに他の男を紹介すると言われて、なにを考えたんですか?」
「え、そんなことまで話したんですか……」
惚けたように訊き返したことが気に入らなかったのか、ユーリがますます眉を寄せる。
「婚約を早まったと後悔した?俺以外の誰を想像したんですか?……いや、聞きたくないので絶対に言わないでください」
意味がわからない……。
ユーリの様子がどこかおかしいのは、ヴェリテ伯爵令嬢から噴水池でのやり取りを聞いたことが原因なのはなんとなく理解できた。
私を見つめる緑の瞳は薄っすら潤んでいて、私より身分が上で体格も大きい彼に、こんなことを思ってはとても失礼なのだけれど、まるで捨てられた仔犬みたいだ。
だから思わず頭を撫でてしまった。
ユーリが大きく目を瞠り、もの問いたげな眼差しを私に向ける。けれどすぐに思い直したのか、私を睨みつけた。
「……ピアニー。俺は怒ってるんです」
「はい、すみません」
銀髪は想像どおりやわらかくて、怒っていると言ったユーリの瞳は濡れていて、こんな時だというのに頬が緩んでしまう。
次の瞬間、ユーリが私の肩に顔をうずめた。
「どう叱ってやろうか考えていたのに、貴女って人は……」
「お断りしたんです」
ぐりぐりと肩に額を押し当ててくるユーリの頭を、よしよしと撫でながら事実を告げた。
「だが迷った。部外者が口を出すなと突っぱねなかった」
「……それは、後ろめたさがあるからです。私があるべき未来を壊しているのではないか。私がいなければ、もしかしたら貴方と彼女が婚約していたかもしれない。そう思ったら、言い返せませんでした」
ユーリがなにも言わないことをよいことに、私は彼の銀髪に指を滑らせていた。
「……あるべき未来とは?」
「え……?」
はっと我に返った私は手を離し、顔を上げたユーリから目を逸らした。
「た、例えばの話ですよ」
「例えばね」
誤魔化したけれど不味かったかも。
痛いくらいの視線を感じる。不意に顎を掬われて、ユーリと視線が絡み合った。
「キスを。さっきまた間違えた」
「ま、間違えてません」
「いや、間違えた。だから貴女からしてください」
急に話が変わり困惑したけれど、迷ったのは一瞬だった。端正な顔を直視しないようにして、ユーリの唇の端に触れるだけのキスを落とす。そしてすぐ離れようとした後頭部に、手を添えられた。
互いの瞳の奥まで見える距離に私は完全にうろたえていた。ただしあくまでも平静を装い、ユーリを見据えて彼の出方を待つ。
……無理だ。所詮私はうさぎで、彼はサラマンドル。先に目を逸らした私は呆気なく捕食、というかユーリの膝上に引き上げられた。
「ユ、ユーリ……」
「はあっ……。今は呼ばれたら不味いな」
呼べとか呼ぶなとか。この人はどうしろというのだ。
深く息をついたユーリが悩ましげな表情を浮かべた。
「どう話せばいいのか……。俺は、貴女が触れられたくないことを無理に暴くつもりはありません。誰にだって隠しておきたいものがひとつやふたつはある」
「なにをおっしゃっているのか、よくわかりません。……貴方にも隠しごとがあるのですか?」
思わず訊き返してしまい、「私にはありませんけど」と言い添える。問われたユーリは困ったように笑んだだけだった。
「例えばの話として心に留めてほしい。お願いです、俺を貴女の世界から追い出さないでください。貴女は自分をぞんざいに扱いすぎだ。俺が見つけなければどうなっていたか……」
「すみません」
「謝らないでいいから。俺を貴女の婚約者でいさせてください」
そう話したユーリは必死な様相をしていて、いつも涼しい顔をしている彼らしくない。
「私がいなくなったら、新しい婚約者を探さなければならないから……?」
「どう思ってくれてもいいですよ」
ぎゅっと抱きしめられて、それ以上なにも言えなくなる。知った香水の匂いと温もりが落ち着く。そして同時に、私を酷く落ち着かなくさせる。
「……私たち、婚約したばかりです。こういうことをするのは、ちょ、ちょっと、なにをなさるんですか?」
距離を置こうとしたのに、腰に腕を回され抱き寄せられた。
「それは、早く婚姻したいということですか?」
「違います」
「即答されると傷つくな……。心配しないで。ここではなにもしません」
「……ここでは?」
「こちらのことです」
クスッと笑ったユーリが抱擁を強くしたものだから、私はまた落ち着かなくなった。
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