ご主人様の枕ちゃん

綿入しずる

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Ⅱ‐回青の園

甘露

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第十一の月 十五日
今日は仕事ができなくなって、とても申し訳なかった。
こんなのは初めてだ。
頭痛がする。きもちわるい。色々ゆれている気がする。動くと頭が痛い。文字もうまく書けない感じがする。昨日の夜の記憶は最後までない。
でも、ご主人様はとてもきげんがいい。薬酒が効いたのかもしれない。俺はこんななのに、強さってこんなに差があるものなんだ。飲んでいる最中はこんなじゃなかったと思うんだけど……


 以前は座るにも寝るにも硬い床の上、敷物さえない場所だったが、近頃は毛皮や綿が効いたクッションの上が多くて、物によってはふわふわとして逆に身が落ち着かないことさえある。自分の体まで軽く、やわらかくなってきた気がする。
 今も、そんな感じだ。
 ふわーとして、体が浮いているようで……気持ちがいい。なんだか幸せ。クッションに囲まれ埋もれて、俺までクッションの一部になってしまったよう。枕という仇名も、今ならもっとすんなり入り込んできそうだ。
 瓶を抱えて壁や天井を眺めていると、火の影が揺れて綺麗だった。柱の装飾が模様を作り変え、何かの影が踊るのにぼうっとして見入る。
 ――ああ、幸せだな。幸せだ。
 満ち足りている。とても贅沢で、いっぱいになっている。こんなのあっていいんだろうか。
 クッションに背を押され、ごろりと寝返りを打つのさえ心地よい。けれど、何か変だ。
 横になった視界、豪奢な部屋に、一人だ。
 ……何か足りない。気がつくとじわじわと不安になってきた。何かしなければいけないような気がする、逸る心地。
 ――居ない。
 起き上がって見ても人影はない。さっきまで居たのに、部屋の中は静まりかえって、火鉢も静かに燃えていた。
 俺が冷やして渡した玻璃ガラス杯が空になって銀盆の上に残っている。瓶や甕は周りに幾つもあり、酒もまだ残っているけれど、飲んで、俺にも飲ませてきた人が居ない。
 誰も居ない、あの人が居ない。
 以前に一人売れ残ったときはこんな気持ちにはならなかった。捨て置かれたって、別に、どうでもよかった。けれど今は。
「……」
 座り直して瓶を抱える。
 大丈夫。此処で待っていればいいはずだから。そうしたら帰ってくる。俺はちゃんと待っていればいいんだ。最初の頃にそう言われたから。最近はやることもできることも増えたし、待っているのはそんなに苦じゃない。
 そうだ、行儀よくしていないと。酒も冷やして。そう。ちゃんと座って、酒を抱えて。美味しく飲めるように冷やすのだ。
 束の間の不安は、そうして満ち足りた自信に変わる。大丈夫、買われてから覚えたことは本当に多いし、冷やすことなら、凍らせることなら、他の奴隷に引けを取らない。俺はちゃんと待っていればいい。
 そうすればほら、扉が開く音、足音。いつもの歩調。
「おかえりなさい」
 ああよかった。ご主人様だ。部屋着の青い衣を翻し、こっちに歩いてきて、俺の顔を見て笑う。上から手を置いて髪を混ぜるように撫でて、それからすぐ横に座り込む。ほっとしたら少し力が抜けて、ふうっと床に引かれている心地がして体が傾ぎそうになる。
 主人の足が見えて――思いついてそっと触れる。撫でて、前に教えられたように凭れかかってみると、胸に受け止められた。顔が近くて金の瞳が綺麗だ。夜の闇の中の所為か火の色を映しているからか、昼より濃い色に見える。
「随分熱烈な歓迎だな。便所に行っただけでこれなら、散歩にでも出てきたらどうなることやら」
 笑いまじりの声。肩に回されて腕を擦る掌が温かい。
 玻璃杯を取り上げ差し出してくるのに、抱えていた瓶の栓をとって傾けた。香る濃い蜜色は方々からの見舞いの品だという薬酒の一つだ。
 薬と言うから不味いのかと思ったら、これは甘くて口当たりがよくて美味しい物だった。主人ももう何杯目か、それぞれ作ったところで味の違うのを味見して、もう一巡はしただろうか。
「ああ、凄まじくよく冷えている。――態度はこんなだと言うのに」
 傾けた瓶からとろりと半分凍った酒が落ちる。笑いに、凭れた胸が揺れる。肩越しに延ばされた指が頬を摘まんだ。褒める言葉と一緒にくすぐったくて心地よくて、うつされたように俺まで笑ってしまう。
 氷精ヒエムの力は絶好調だ。なにせなんだか気分がよくて体が軽いのだ。今ならきっと、本当に泉だって、一息で凍りつかせることができる。
 ――ああ。
 ご主人様の横はさっきよりもっと満ち足りて気分がいい。ずっとこうしていたい。
 ――凍らせてしまいたい。この時間を、留めたい。
 ああでもそうすると、こうして触れてもらうことも、笑いかけてもらうこともないのだとすぐに思い留まった。近づく顔。相変わらずとても綺麗で、酒の匂いもしたがいつものいい香りもした。
「ん……」
 酒を含んで、味を残した口での接吻ももう何度目か。
 甘い。甘くて、俺には温い。ご主人様の温度だ。――やはりこれを冷やすのは惜しい。
 すぐに引いていく舌を追いかけるとまた笑われた。笑いっぱなしだ。唇の端を吸われて顎を引く。
「これが好きか?」
「はい」
「よしよし、お前も飲め」
 ご機嫌に俺にも杯を握らせて、瓶に手を添え傾ける。
 注がれた酒がきらきらと灯りを弾く。呷るとまた一段、体が軽くなるようだった。

「あの、ハリュール様」
 昼過ぎ、仕事の中継ぎの折に見かけた姿に、ビリムは意気込んで声をかけた。気になって――不安で仕方がなかった。
「ハツカは余程悪いんですか? まさか旦那様のがうつったとか……」
 つい先日まで、旦那様――アルフが風邪で寝込んでいたことは一奴隷の耳にも入っていた。そして今日、今度は同僚のほうの姿が見えない。一番近くで看病していたとも聞いている。体調不良で休ませるのだと監督役に言われたときは、ビリムの顔色も悪くなった。
 振り返り足を止めたハリュールは盛大に溜息を吐いた。ビリムの身が竦んだ。
 求められて歌を披露することもあって案外に気安い間柄だったがこれは不興を買ったかと、怯えるビリムに首を振る。横に。
「体調は悪いが、心配要らん。酒が過ぎたんだ」
 ビリムは、今度はきょとんとした。
 妖精憑きネ・モは大抵、酒に強い。飯がとられて体が育たぬ、と言われるのと同様に、妖精が飲むから酔いが回りづらいのだと言われている。だがどうやらそれを上回って、酒が注がれた。
 面食らうビリムを前に、ハリュールは整った顔も渋く顰めて、呆れた風を隠さない。今廊下に居るのは、ビリムと、彼を連れて歩いていた使用人だけだった。
「旦那様が好きに飲ませるから……頂いた薬酒が全部手つきだぞ、十もあったのに」
 口振りは完全に愚痴だ。
 ジャルサの加護はそこにまで及ぶのか、単に強すぎるだけかは定かではないが、アルフは酒豪だ。
 酒豪だが、気分がよくなってくると自分よりも他人に飲ませたがる。それも、同じく強い部類のハリュールでさえ付き合いきれないほど。仕え始めの頃、それで酔い潰された記憶が彼にはあった。醜態を晒したし二日酔いでも酷い目に遭った。今後の宴会での過ごし方を学ぶという意味では経験値だったが、もう二度とと思ったものだ。
「起き上がれないなどと言うから、それこそまた風邪か病かと焦ったのに。妖精憑きが二日酔いだなんて聞いたことが無い」
 王都からの連絡が戻ってきて、妻も子も――娘は一時熱を出したがそれもすぐに下がって――無事、健康だと伝えられた後だったから、然しもの大臣も気が緩んだに違いないが、それにしても飲みすぎ飲ませすぎだった。
「懲りただろうが今度はあれにも飲み方を教えなければ……飲み方というより断り方だ、第一旦那様が飲ませなければいいんだが、あの分じゃまたやりそうだ。ましてやヌハス老やナフラ女史が居ないと小言を垂れてやるのが俺しかいない……これだから南の屋敷はやりづらいったらありゃしない」
 その旦那様のほうがぴんぴんしていて、むしろいつもより快調に仕事を捌いているのは勿論、ハリュールにとって幸いなことではあったが。言う間に眉間の皺が深まった。
 これは他のことでも鬱憤が溜まっているな、とビリムは察した。そして今度のこの流れは彼にも覚えがあった。はあ、と盛大な溜息。向けられる視線。まだ愚痴を言い足りない、気安い話し相手がほしくて堪らない、そういう顔だった。
「……こいつ、今晩部屋に寄越してくれ」
 出番だ。畏まりました、と使用人のほうが返すのに、ビリムも頭を下げて応じた。
 結局、ハリュール自身も酒で払拭しがちだ。他の娯楽には手を出しづらいというのもあるけれども、飲んで愚痴って歌わせて、それで気を晴らすのが定番だ。だからこういうときはビリムが酌をする。
 踵を返して足早に去っていくハリュールを尻目に、ビリムは随分軽くなった気持ちで同僚のことを考えた。今も苦しんでいるかもしれないハツカには悪いが、想像するのが二日酔いの姿になると心配の質がまったく違った。まあ明日には顔を出してくるだろう。酔うほど飲んだ酒についてどんな感想を言うか、どんな顔をしているか、見物だった。
 一転、鼻歌でも歌いそうになるのを押しとどめて、次の仕事場へと向かう。午後の雪払いも、後に楽しみが待っていると思えば苦ではない。久しぶりの酒は彼にとっても喜ばしかった。
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