役立たずと蔑まれ、食糧難の辺境へ追放された引きこもり令嬢、前世の経営シミュレーション知識で極寒の地を美食の都に変えてしまう

旅する書斎(☆ほしい)

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マルタが待つ厨房へ、私は急いで戻りました。
彼女は、心配そうな顔で私を迎えます。
その表情には、期待の色も混じっていました。
「アニエス様、会議はいかがでしたか。」
マルタは、少し不安そうに尋ねます。
「ええ、うまくいったわ。これから王都の方々をもてなす、その準備を始めましょう。」
私の力強い言葉に、彼女はこくりと頷きました。
その目にはもう、迷いの色は見えません。
「はい、アニエス様。このマルタは、アニエス様の剣となり盾となります。どのような命令も、お申し付けください。」
「ふふ、そんなに気負わないで。これは戦いではなくて、私たちの腕の見せ所よ。」
私たちは、互いに顔を見合わせました。そして悪戯っぽく、にっこりと笑い合います。
厨房の料理人たちも、私たちの様子を固唾をのんで見守っていました。
では、最低の贈り物から、準備を始めましょうか。
私は厨房の隅にあった、忘れられたような大きな樽を指差します。
それは塩の量を間違えた、失敗作の漬物が入っている樽でした。
「マルタ、これを一番立派な樽に詰め替えて。見た目だけは、最高級品に見えるようにお願いね。」
「かしこまりました。この鼻が曲がりそうな、特別な一品をですね。」
マルタは、私の考えを完全に理解したようです。
その口元は、楽しそうに歪んでいました。
私たちは、すぐに作業に取り掛かります。
若い料理人二人がかりで、樽の重い蓋を開けました。
その瞬間、強烈な発酵臭が、厨房中に爆弾のように広がります。
近くにいた若い料理人が、うっと呻いて壁際に座り込みました。
他の者たちも、思わず鼻と口を手で覆います。
「ひどい匂いだ、これが本当に食べ物なのですか。」
青い顔の料理人が、涙目で私に尋ねました。
「ええ、食べ物よ。一応は、食べられるわ。栄養だけは、たっぷりあるはずだから。」
私は、平然とした顔でそう答えます。
樽の中を覗き込むと、どす黒い紫色のカブの塊が重なっていました。
水分が抜けきって、まるで老人の肌のようにしなびています。
これを火ばさみで、一つずつ丁寧に運び出しました。
そして職人に用意させた、美しい木目の新しい樽へ詰めていきます。
その樽には、ヴァインベルク辺境伯家の紋章が見事に彫られていました。
隙間ができないように、私たちはぎっしりと詰めます。
私たちの誠意が、相手にまっすぐ伝わるようにと。
「よし、こんなものでしょう。」
樽を一杯に満たすと、私は厳重に蓋をしました。
その上から熱で溶かした、封蝋をたっぷりと流します。
最後に私の実家である、ヴェルフォール公爵家の紋章が入ったリボンを飾りました。
この嫌がらせは、誰からのものかはっきり分かるようにしなければ意味がありません。
「まあ、なんて立派な贈り物でしょう。これなら王太子殿下も、きっとお喜びになりますわ。」
マルタが、うっとりとした表情でそう言いました。
見た目だけは王家に贈るにふさわしい、最高級の品です。
その恐ろしい中身を知っている私たちは、込み上げる笑いをこらえるのに必死でした。
「さて、次は最高の贈り物の準備よ。」
私はパンと手を叩き、気持ちを切り替えます。
そして、城の地下貯蔵庫へと向かいました。
そこには先日解体したばかりの、霜降りトロールの肉が吊るされています。
部位ごとに、丁寧に分けられていました。
ひんやりとした清浄な空気の中、肉は最高の状態へと熟成が進んでいます。
「うーん、素晴らしい出来栄えね。まるで宝石みたいだわ。」
私は一番大きくて見事な、霜降りのロースの塊を指差します。
美しいピンク色の赤身に、乳白色の脂が細かく均一に入っていました。
その様子は、まるで大理石の模様のようです。
「これを、王太子殿下への公式な献上品にしましょう。見た目も華やかで、分かりやすい美味しさよ。これなら、誰も文句はつけられないわ。」
「はい、アニエス様。さすがのお目利きです。」
次に私は、それより少し小ぶりなヒレ肉の塊をいくつか選びました。
ロースほどの、派手な霜降りはありません。
しかしその肉質は、最も柔らかく繊細な深い味わいを持つ最高の部位です。
「そしてこちらが、私たちの本当の切り札よ。これを王都の本物の食通たちに、こっそりと届けるの。違いの分かる人にこそ、本物の価値は伝わるものだから。」
「なるほど、味の分かる方をまず味方につけるのですね。」
マルタは、私の戦略に深く感心したように頷きました。
私たちは選んだ二種類の肉を、分厚い麻の布で丁寧に包んでいきます。
王都までの長い旅路で、貴重な肉の鮮度が落ちては元も子もありません。
特別な工夫を、凝らさなければなりませんでした。
私は岩塩と数種類の乾燥ハーブを、石臼で細かくすり潰していきます。
ローズマリーの、清涼な香り。
タイムの、爽やかな香り。
そしてセージの、落ち着いた香りが混ざり合います。
厨房に、心地よい芳香が漂いました。
「アニエス様、この良い香りの塩は何に使うのですか。」
若い料理人が、興味深そうに尋ねてきます。
「これは、味付けのためではないの。ハーブには、雑菌の繁殖を抑える不思議な力があるのよ。これをお肉の表面に薄くすり込むことで、腐敗を防ぎます。そして旨味を、内側にぎゅっと閉じ込めることができるの。」
「まあ、ハーブにそのような力が。アニエス様は、本当に物知りですわね。」
「趣味、ですので。」
私はいつもの決まり文句を、少しだけ照れながら口にしました。
作業を進めていると、会計官のボードワンさんが息を切らせて厨房に駆け込んできます。
その手には、ずっしりと重い羊皮紙の束が大切そうに抱えられていました。
「アニエス先生、できましたぞ。ご依頼の報告書が、ついに完成いたしました。」
彼は、興奮で顔を上気させながら私にその束を差し出します。
私はそれを受け取って、中身を一枚一枚丁寧に確認しました。
そこには私の考案した、複式簿記の様式でヴァインベルク辺境領の財政状況が書かれています。
その危機的な状況が、これでもかというほど詳細に書き連ねられていました。
美しい曲線を描くグラフや、項目ごとに色分けされた表がふんだんに使われています。
誰が見ても一目で、この領地がいかに貧しいか分かるようになっていました。
今回の食料献上が、どれほど非人道的な仕打ちであるかも手に取るように分かります。
「素晴らしい出来栄えです、ボードワンさん。これほどの資料を突きつけられたら、王宮の役人たちもぐうの音も出ないでしょう。」
「へっへっへ、先生にそう言っていただけると頑張った甲斐があったというものです。これも先生の編み出された、革命的な簿記のおかげですぞ。」
ボードワンさんは、自分の仕事に心から満足しているようでした。
彼も今や、私の最も頼もしい共犯者の一人です。
報告書の準備も、完璧に整いました。
後はこれらの品々を、王都へ無事に届けるだけです。
そこへ重い鎧の擦れる音を響かせながら、ゲルトさんがやってきました。
「アニエス様、ご報告いたします。特使の人選が、滞りなく完了いたしました。レオニール様のご指名により、騎士団の副団長であるバルトルト殿がその大役を仰せつかりました。」
バルトルト殿は、四十代半ばの寡黙で実直な騎士のはずです。
誰よりも、口の堅いベテランだと聞いています。
先代の辺境伯の頃から、この地に仕えていると聞きました。
レオニール様の信頼も、騎士団の誰よりも厚い人物です。
人選としては、これ以上ないくらい申し分ないでしょう。
「分かりました。それで、肝心な輸送の準備はいかがですか。」
「はっ、霜降りトロールの肉を最高の状態で運ぶため特別な荷馬車を用意しております。荷台は分厚い木材で、二重構造になっております。その壁の間に、大量の氷雪をぎっしりと詰め込みました。これで王都までの十日間、中の温度を一定に保つことが可能かと。」
氷雪を、断熱材にした天然の冷蔵馬車ですか。
なるほど、ゲルトさんもなかなか考えましたね。
「護衛の騎士も、騎士団の中から選りすぐりの者たちを三十名選びました。輸送ルートは、比較的安全な街道を選んでおります。万が一の盗賊や、獣の襲撃にも備えは万全です。」
「頼もしい限りですわ、ゲルトさん。」
「はっ、アニエス様の素晴らしい知恵と我々を信じてくださる勇気に、我々武人が遅れを取るわけにはいきませぬ。」
彼は、力強く胸を張ってそう言いました。
皆が、それぞれの持ち場で自分の役割を誇りを持ってこなしてくれています。
私は、本当に素晴らしい仲間に恵まれました。
全ての準備が、着々と整っていきます。
最低の贈り物と、最高の贈り物。
同情を誘う報告書と、最強の護衛騎士団。
私たちの反撃のための駒は、全て盤上に美しく揃いました。
後は特使であるバルトルト殿に、最後の仕上げをお願いするだけです。
私は、彼に渡すためのもう一つの重要な武器を準備していました。
それは霜降りトロールの肉を、最も美味しく食べるための調理法を記した一枚の羊皮紙です。
誰が焼いても、簡単に最高のステーキが焼けるように書き記しておきました。
鉄板の熱し方から、肉の厚さに合わせた焼き時間まで細かく書いてあります。
岩塩を振る、絶妙なタイミングまで丁寧に記しました。
そしてその羊皮紙の、一番下の隅に私は小さな文字で一言だけこっそりと書き加えます。
王都の、自称食通たちが思わず喉から手が出るほど欲しくなるような魔法の言葉を。
出発は、明日の早朝に決まりました。
その夜、私はレオニール様の執務室を訪ねます。
彼は、机の上の山積みの書類から顔を上げて私を迎えました。
「ああ、準備は全て終わったか。」
「はい、全て順調です。あとは、明日の出発を待つだけになりました。」
私たちは、しばらく無言のまま穏やかな時間を過ごします。
暖炉の炎が、ぱちぱちと爆ぜる音だけが部屋に響いていました。
やがて彼が、ぽつりと独り言のように呟きます。
「すまないな、お前がこの地に来てから厄介事を背負わせてしまって。」
「いいえ、わたくしが好きでやっていることですから気になさらないでください。」
私は、静かに首を横に振りました。
「それにわたくしは、もうヴェルフォール公爵家の人間ではありません。このヴァインベルク辺境伯の妻、アニエス・ファルケンですもの。この土地と、ここに住む大切な人々を守るのは当然の務めですわ。」
私の言葉に、彼は少しだけ驚いたような顔で目を見開きました。
そしてふっと、本当に優しく少しだけ照れたように微笑みます。
「そうか、俺は本当に頼もしい妻をもらったらしいな。」
その、飾り気のない実直な言葉と、滅多に見せない優しい笑顔に、私の心臓がとくんと、大きく、そして温かく跳ねました。
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