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第2章 惹かれ合う二人
20話 縮まる距離、募る不安⑷
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「メアリ、君が気に病むことはない」
「伯爵様」
「エドガーだ」
「えっ?」
「エドガー・レナルド・フォーサイス。エドガーと呼んでくれ」
レイウォルド伯爵――エドガーの銀の瞳がレインリットを捉える。この目に捕まると心が騒めくので苦手だった。立ち上がり、すぐ側まで近づいてきていたエドガーが、手袋をつけたレインリットの右手を取る。ただそれだけのことなのに、心臓が痛いほど鳴り響いた。
「メアリ……何が君をそこまで追い詰める? その瞳に潜む憂いを、どうやったら晴らすことができるんだ?」
手袋の上から手の甲を撫でられ、レインリットの身体に経験したことがないような痺れが走る。昨夜、酔っ払いの一人に手を掴まれた時には嫌悪しかなかった。エドガーに触れられると、くすぐったいような、変な気分になる。
「君たちが何故二人で逃げなければならなくなったのか、本当の理由を聞かせてくれないか」
答えないレインリットに、真剣な表情のエドガーが低い声を出す。この諭すような声が、素直になれと言っているように耳に響く。
クロナンの追っ手に怯える日々は、思いのほかレインリットの神経をすり減らしていた。助けを求めようにも、知らない土地に知らない人たちの中では誰に頼ってよいのかすらわからない。元家令のマクマーンの行方も知れず、このままエーレグランツという大都市に飲み込まれてしまうかもしれない、という漠然とした不安が常につきまとっている。
そろそろとエドガーに目を移したレインリットは、鳴り止まない心臓を隠すように両手で胸を押さえた。
「私がどこの誰であるか、聞かないでいてくれますか?」
レインリットは震える声で続ける。
「もし、何かあってたとしても、私たちのことは名前すら知らなかったとおっしゃってください」
「そんなに危険な状況なのか? それならば尚のこと力になりたい」
エドガーの手に力が入り、掴まれたままのレインリットの手に痛みが走る。それでも、約束してくれるまで譲れなかった。
「私たちに関わることで、伯爵様にこれ以上……」
「エドガーだよ、メアリ」
エドガーに遮られ、レインリットは言葉に詰まる。
「君にはそう呼ばれたい。何故とは聞かないでくれ……自分でもよくわからないんだ」
急に声を落として拗ねたように吐き捨てたエドガーは、頬を赤らめて睨みつけるようにレインリットを見た。照れているのだろうか。エドガーはどこか子供っぽい仕草で髪をかき上げる。
「エ、エドガー、様」
レインリットがそう呼ぶと、エドガーは満足したのか、大きく頷いて表情を緩めた。その微笑みに、レインリットは顔が熱くなるのを感じた。
「なんだい、メアリ」
「エドガー様は、ずるくていらっしゃいます」
「私がずるい?」
「何故、見ず知らずの、怪しい身なりの私たちに、そこまでしてくださるのです」
気まぐれだとか、慈善家だとか、そんなことでは言い表わせないくらいに心を砕いてもらっている。何か明確な理由があるのでは、と思っていたレインリットに、エドガーは意外なことを話し出した。
「君は知らないだろうけれど、私はこれでも社交界では引く手数多でね。話題に富んでいて、洗練されていて、色男、なんて言われているが、本当は田舎で馬を駆っている方が好きな、地味な男さ」
恥ずかしいのか、あらぬ方向を向くエドガーは、耳まで真っ赤になっている。
「社交界の華やかな舞台より、どんなに着飾った女性より……私は、腕の中に落ちてきた君の方が気になるんだ。目の前で泣くのを我慢している健気な女性を助けたい、と思うことは、そんなにおかしなことだろうか」
再びエドガーがレインリットに目を合わせてきた時、大きな緑色の瞳からほろりと涙が溢れ出た。エドガーの前で泣いてしまうのは二度目だ。旅の途中でどんなに辛くても泣いたことはなかったというのに、エドガーにかかればあっという間に弱くなってしまう。家族以外の異性からこんなに心乱されることなどなかったレインリットは、その優しさにすがりつきたくなった。
「君たちを困らせるようなことはしない。少しずつでもいいから、私に話してくれ」
昨夜とは違い、ハンカチーフで直接涙を拭ってくれたエドガーは、レインリットに「泣かないで」とは言わなかった。そろそろと背中に手を回してきて、労わるように撫でてくれる。温かな腕が心地よい。仄かに香るエドガーの匂いを、もっと嗅いでいたくなる。
泣き止むまでそうしてくれていたエドガーに、頑なだったレインリットの心が次第に溶けていった。
「エ、エドガー様、きちんと、お話しします」
もうこれ以上、エドガーに対して嘘をつきたくない。体調を崩してしまったエファのこともある。レインリットのために人生を投げ打ってくれた彼女のためにも、これ以上嘘をつき通せとは言えない。そして真摯な姿勢で手を差し伸べてくれるエドガーにも、誠実に向き合うべきだ。
「出自については、やはり話せません。でも、それ以外のことであれば、なんなりとお聞きくださいませ」
レインリットは、決意を秘めてエドガーの手を取った。
「伯爵様」
「エドガーだ」
「えっ?」
「エドガー・レナルド・フォーサイス。エドガーと呼んでくれ」
レイウォルド伯爵――エドガーの銀の瞳がレインリットを捉える。この目に捕まると心が騒めくので苦手だった。立ち上がり、すぐ側まで近づいてきていたエドガーが、手袋をつけたレインリットの右手を取る。ただそれだけのことなのに、心臓が痛いほど鳴り響いた。
「メアリ……何が君をそこまで追い詰める? その瞳に潜む憂いを、どうやったら晴らすことができるんだ?」
手袋の上から手の甲を撫でられ、レインリットの身体に経験したことがないような痺れが走る。昨夜、酔っ払いの一人に手を掴まれた時には嫌悪しかなかった。エドガーに触れられると、くすぐったいような、変な気分になる。
「君たちが何故二人で逃げなければならなくなったのか、本当の理由を聞かせてくれないか」
答えないレインリットに、真剣な表情のエドガーが低い声を出す。この諭すような声が、素直になれと言っているように耳に響く。
クロナンの追っ手に怯える日々は、思いのほかレインリットの神経をすり減らしていた。助けを求めようにも、知らない土地に知らない人たちの中では誰に頼ってよいのかすらわからない。元家令のマクマーンの行方も知れず、このままエーレグランツという大都市に飲み込まれてしまうかもしれない、という漠然とした不安が常につきまとっている。
そろそろとエドガーに目を移したレインリットは、鳴り止まない心臓を隠すように両手で胸を押さえた。
「私がどこの誰であるか、聞かないでいてくれますか?」
レインリットは震える声で続ける。
「もし、何かあってたとしても、私たちのことは名前すら知らなかったとおっしゃってください」
「そんなに危険な状況なのか? それならば尚のこと力になりたい」
エドガーの手に力が入り、掴まれたままのレインリットの手に痛みが走る。それでも、約束してくれるまで譲れなかった。
「私たちに関わることで、伯爵様にこれ以上……」
「エドガーだよ、メアリ」
エドガーに遮られ、レインリットは言葉に詰まる。
「君にはそう呼ばれたい。何故とは聞かないでくれ……自分でもよくわからないんだ」
急に声を落として拗ねたように吐き捨てたエドガーは、頬を赤らめて睨みつけるようにレインリットを見た。照れているのだろうか。エドガーはどこか子供っぽい仕草で髪をかき上げる。
「エ、エドガー、様」
レインリットがそう呼ぶと、エドガーは満足したのか、大きく頷いて表情を緩めた。その微笑みに、レインリットは顔が熱くなるのを感じた。
「なんだい、メアリ」
「エドガー様は、ずるくていらっしゃいます」
「私がずるい?」
「何故、見ず知らずの、怪しい身なりの私たちに、そこまでしてくださるのです」
気まぐれだとか、慈善家だとか、そんなことでは言い表わせないくらいに心を砕いてもらっている。何か明確な理由があるのでは、と思っていたレインリットに、エドガーは意外なことを話し出した。
「君は知らないだろうけれど、私はこれでも社交界では引く手数多でね。話題に富んでいて、洗練されていて、色男、なんて言われているが、本当は田舎で馬を駆っている方が好きな、地味な男さ」
恥ずかしいのか、あらぬ方向を向くエドガーは、耳まで真っ赤になっている。
「社交界の華やかな舞台より、どんなに着飾った女性より……私は、腕の中に落ちてきた君の方が気になるんだ。目の前で泣くのを我慢している健気な女性を助けたい、と思うことは、そんなにおかしなことだろうか」
再びエドガーがレインリットに目を合わせてきた時、大きな緑色の瞳からほろりと涙が溢れ出た。エドガーの前で泣いてしまうのは二度目だ。旅の途中でどんなに辛くても泣いたことはなかったというのに、エドガーにかかればあっという間に弱くなってしまう。家族以外の異性からこんなに心乱されることなどなかったレインリットは、その優しさにすがりつきたくなった。
「君たちを困らせるようなことはしない。少しずつでもいいから、私に話してくれ」
昨夜とは違い、ハンカチーフで直接涙を拭ってくれたエドガーは、レインリットに「泣かないで」とは言わなかった。そろそろと背中に手を回してきて、労わるように撫でてくれる。温かな腕が心地よい。仄かに香るエドガーの匂いを、もっと嗅いでいたくなる。
泣き止むまでそうしてくれていたエドガーに、頑なだったレインリットの心が次第に溶けていった。
「エ、エドガー様、きちんと、お話しします」
もうこれ以上、エドガーに対して嘘をつきたくない。体調を崩してしまったエファのこともある。レインリットのために人生を投げ打ってくれた彼女のためにも、これ以上嘘をつき通せとは言えない。そして真摯な姿勢で手を差し伸べてくれるエドガーにも、誠実に向き合うべきだ。
「出自については、やはり話せません。でも、それ以外のことであれば、なんなりとお聞きくださいませ」
レインリットは、決意を秘めてエドガーの手を取った。
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