Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第2章 ADAGIO

op.08 おもちゃの交響曲(5)

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「あれ、リチェルは?」

 先程からリチェルの姿が見えないことにヴィオが気付いたのは、楽団の待合室に案内されてしばらくしてからだった。

「リチェルさんなら少し前に村長の奥さんが連れて行ったよ?」
「もうすぐ出番なんだがな」
「それまでには連れて帰ってくる、って言ってたけど」

 アルの言葉に、それなら良いんだが、とヴィオは答える。

 初めての舞台だから直前にバタバタすると緊張するだろう。
 リチェルは予想外の出来事に強いとは言えないので、大丈夫だろうかと心配しているとちょうど夫人がリチェルを連れて帰ってきた。

「あら、ごめんなさい。お待たせしたかしら」

 夫人の後ろから、リチェルが遠慮がちに顔を出す
 その衣装が、普段着ているものから変わっていた。

「ほら、見て。可愛いでしょう? 私の娘時代の物なんだけど、折角の舞台だから着てもらったの」

 夫人がふふ、と笑う。

 リチェルが着ている衣装は村の伝統刺繍を施した物で、白いブラウスにベスト、青いスカートという今日の祭でもよく目にした配色の衣装だった。
 村長夫人の物と言うこともあって、あしらわれた花の刺繍は色鮮やかな糸が贅沢に使われている。

「あの、ごめんなさい。急にいなくなってしまって……」

 消え入りそうな声でリチェルが頭を下げる。

「リチェル姉ちゃん可愛い!」
「本当だー! すっごく可愛い~!」

 真っ先に反応したリートとリリコがリチェルの所に駆けていく。
 双子に両手を引かれて、少しホッとしたのかリチェルが笑う。夫人は満足そうに笑って、服は後で返してくれたら良いから、と待機場所から足早に出て行ってしまう。きっと他にも仕事があるのだろう。

「リチェルさん、すっごく似合ってるね!」
「よくお似合いですよ」
「ありがとうございます」

 アルとソルヴェーグにも褒められて恐縮したようにリチェルは頭を下げる。
 普段着ている服が落ち着いた色合いのものだからか、リチェルが色鮮やかな物を身につけているのは珍しい。

 じっと見ていると、こちらを向いたリチェルと目が合った。

「あ、あの……」
「あぁ、似合ってるな」

 そう言って笑うと、リチェルは照れたのかお礼を言ってうつむいた。そう言えばこういう反応を見るのも珍しいな、と思う。

(まぁいい傾向だとは思うが……)

 元々着飾るという概念がなかったのだから、少しずつそういった事に興味が出てくるのは良いことだろう。
 
 以前は男装していたのが今となっては嘘のようだと思う。
 そう思うくらいには出会った時よりリチェルは女性らしくなってきたし、実際衣装もよく似合っている。

 と、不意にジャケットを引っ張られた。何かと視線をやると、リリコがジト目でヴィオを見上げている。

「……どうした?」
「ヴィオ兄ちゃん、リリコは?」
「え?」
「リリコは似合ってる?」

 ジリ、と詰め寄る声に六歳の女の子とは思えない圧がある。

「似合っている、と思うが……」
「もー! そうだけどそうじゃないのー!」

 オンナゴコロが分かってないんだからぁ! とリリコが声を上げて地団駄を踏む。全く意味が分からない。

「リリコ。ヴィオ兄ちゃんが困ってる」
「お子様リートは黙ってて!」
「同い年だろ⁉︎」
「ヴィオお兄ちゃんはやり直しして!」

 助けを求めるようにソルヴェーグに視線をやると、微笑ましいものを見るかのように笑われた。
 経験上こういう顔をしている時の老執事が助けてくれないのを、ヴィオはよく知っている。

「リチェ……」
「ヴィオ君、それは火に油を注ぐやつだよ」
 
 珍しくアルが冷静にコメントをした。確かにリチェルはリチェルで状況が把握できていないのかキョトンとしたままだ。

 幸いリリコからリテイクを要求される前に、そろそろ出番ですよと声がかかり、不満げにしながらもリリコはヴィオを解放してくれたのだった。



   ◇



 舞台の脇に立った瞬間、足がすくんだのが分かった。

 小さな舞台だけど、村中の人達が集まる舞台の前は人で溢れている。リートとリリコが人がいっぱいー! とはしゃいだ声を上げているのをリチェルは素直にすごいと感じた。

 呼吸が浅くなって、心臓の音が大きく内側に響いている。

 大丈夫かな。
 本当に大丈夫だろうか。
 上手くできるだろうか。

 そんな疑問が心の中をぐるぐると渦巻き始めた瞬間、リチェル、と名前を呼ばれて、リチェルは顔を上げた。

「大丈夫だ。落ち着いて」

 静かな声だった。
 気持ちをほぐすように、リチェルはポロリと素直な気持ちをこぼす。

「緊張、しちゃって……。上手く歌えるかしら……」
「誰だって最初は緊張する」
「ヴィオも?」
「あぁ。最初は緊張したよ」

 その言葉に安心する。ヴィオ程の人でも緊張したのであれば、リチェルが緊張するのなんて当たり前だ。

「大丈夫だ。練習した時間はリチェルを裏切ることはないから」
「……うん」

 ヴィオの言葉にこくりと頷いた。

 最初の出番はヴィオとアルの二人で、もうすぐに呼ばれるのにヴィオは落ち着いたものだった。そばにいるとその落ち着きが伝播してくるようで、リチェルは張り詰めていた息を吐き出した。

「それではこの次はハルモニア楽団のみなさまによる演奏です」

 舞台を仕切っている青年の声が舞台の脇に響いた。

「いってらっしゃい」
「…………」

 ────ポン、と頭に触れるか触れないか、優しく一瞬手が触れた。あぁ、と頷いてヴィオがアルと舞台に出ていく。

 その後ろ姿を見送って、触れられた頭に手をやった。

(あ……)

 怖くなかった。
 その事に自分でも驚く。
 
 拍手が響く。アルとヴィオが舞台の上で礼をしていた。
 
 
 一呼吸おいて、ささやかにピアノの和音が落ちた。
 柔らかく吐息をつくように、ヴァイオリンの音が入りこむ。
 
 
 静かなのに明るくて、派手さはないのに気持ちが惹き込まれる。

 ブラームスのヴァイオリンソナタ第一番ト長調。
 通称『雨の歌』、演奏されるのはその第一楽章だ。

 目を閉じると思い浮かぶのは決して明るい風景ではないのに、暗さを感じさせない。日の差さない窓辺で微睡む時間を多幸感で満たしてくれる。
 
 そんな美しいメロディーが折り重なるように空気に溶け込んでいく。


 触れられた箇所がじんわりと熱を持っている。

 不用意に伸ばされる手はいつも怖かった。
 どこにも行けなかったあの頃とはもう違って、その熱は少しも不快じゃなくて、むしろ心を満たすような。だけど少しだけ胸の奥に痛みを残すような、そんな──。

 
 明るいメロディーはのびのびと自由を歌い上げるようだった。

 第二主題が終わると、メロディーは少し不穏な音を奏で始める。
 メロディーはドラマティックに展開していき、盛り上がりを歌い上げるヴァイオリンに寄り添うように、重なるようにピアノ伴奏がついていく。


 そっと手を下ろして、リチェルは目を閉じた。
 演奏に耳を澄ませる。

 高らかに歌うメロディーはやがて何事もなかったかのように、第一主題に戻ってくる。息をついた。

 表情豊かに変わる曲調に心を委ねて、少しずつ気持ちを落ち着けていく。

(うん、大丈夫)

 終わりに向かって駆け上がったバイオリンの音色がその勢いのまま最後の音を奏でた。

 一呼吸置いて、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

 礼をしたヴィオの瞳が一瞬こちらを向いた。
 だから大丈夫、というように笑って見せる。

 もう、大丈夫だ。

 進行係の青年の声が次の演奏の案内をしてくれる。
 その声に促されるようにリチェル達は舞台に出た。リートやリリコが前に出ると、村の人たちが『がんばれ~!』と温かく声援を送ってくれる。

「失敗すんなよ~!」
「しないよ!」

 意気揚々と出ていくリリコと違って、直前になって手足が一緒に出そうな程緊張していたリートは慣れ親しんだ村人達の茶化すような声に、軽口を返しながら緊張が少し解けたようだった。
 
 
 『Harmonia』とヴィオが題した曲は、ルフテンフェルトの穏やかでのどかな空気を思わせる長調の曲だ。
 ヴァイオリンとチェロの牧歌的な曲調に、まるで子どもが野原を跳ね回るようにピアノが入りこむ。

 ブラームスのヴァイオリンソナタ第一番とは全く趣きの異なる、お日様と野原、そこにふく風を彷彿とさせるような始まり。
 のびのびと青空を歌い上げたメロディーは、やがて夕暮れの気配を帯び始める。

 リチェルがスッと息を吸う。
 夕暮れのメロディーに溶け込むようにソプラノが優しく響いた。

 陽が沈んでも遊び回る子ども達に帰っておいで、と優しく促す歌詞は、きっと今までこの村でたくさんの母親達に歌われてきたのだろう。

 月が出ているよ、小鳥も梢でお休みよ。

 追いかけるようにリートとリリコのコーラスが入る。

 やがて夜は更け、一日は終わり、またいつものように朝がやってくる。第一主題をささやかにヴァイオリンの音色が歌い上げて、最後の一音が鳴り響いた。

 
 一拍置いて、大きな拍手が鳴り響いた。

 詰めていた息を吐き出す。
 リートとリリコが嬉しそうに手を振って、振り返るとヴィオが微かに笑って頷いた。

 トクトクと心臓が鳴っている。

(終わったんだ……)

 夢見心地のまま、リチェルはスカートの裾を持って深く頭を下げた。





 ◇




「楽しかったぁ!」
「みんなすっごく喜んでたね!」

 舞台の裾に引っ込むと、リートとリリコが興奮したように声を張り上げた。
 同じく下がってきたソルヴェーグにとってもお上手でしたよ、と褒められて二人とも嬉しそうな笑みを隠さない。

「ところでハルモニア楽団というのは……」

 ごく自然に呼ばれたからそのまま聞いていたが、ヴィオには覚えがない。
 ヴィオの声が聞こえたのかリートとリリコがハイハイ! と元気よく手を上げた。

「ボクとリリコが決めたのー!」
「ヴィオお兄ちゃんの曲のタイトルからつけたのよ! 良いでしょ!」
「あぁ……、ありがとう」

 そう若干たじろぎながら口にすると、二人は自慢げに胸を張ってみせた。
 向こうで緊張の糸が切れたみたいに呆然としているリチェルに『お疲れ様』とヴィオが声をかけると、リチェルが振り向く。
 
「わたし、ちゃんと出来てたかしら?」
「あぁ、すごく良かったよ」

 本番前に緊張していたのが嘘みたいに伸びやかな歌声だった。リチェルがホッとしたように笑う。

(むしろ問題があったのは──)

 チラリとヴィオがアルの方を見る。

 聴いている人達に分かるようなミスはしていない。
 だけど演奏中に何度か揺れたメロディーはそのままアルの心情をあらわしているようだったと思う。自覚はしているのか、アルはヴィオと目が合った瞬間、気まずそうに目を逸らした。

「みなさん、お疲れ様です!」

 と、村長の次男であるテオが待合に入ってきた。
 もう儀礼用の衣装は身につけておらず、刺繍の入った村人のみんなと同じような服に着替えている。

「リートもリリコも上手だったぞ! 来年は二人で出演してもらおうかな」
「えへへ」
「でしょ?」

 テオが遠慮なくリートとリリコの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。双子から目を上げたテオが、ヴィオに目を向けた。

「演奏いただいた方に家で軽食を振る舞っているんです。良かったらこの後どうぞお越しください」
「やったぁ!」
「わーい!」

 特に断る理由もないので、礼を言って村長の厚意に甘えることにした。
 喜んで双子がテオの後ろをついていく。その姿を見て、ヴィオは小さく息をついた。

 あの二人を取り巻く状況は決して良いとは言えない。何とかしてやりたい気持ちはあるが、ヴィオにもそこまで関われる余裕はない。

「ヴィオ様」

 後ろから近づいてきたソルヴェーグに声をかけられて頷く。

「明日には発とう。長居したからな」
「そうですな。ここを発つ前に出来る限りの協力はしましょう」

 驚いたようにソルヴェーグを見ると、老執事は穏やかに微笑んだ。
 それは口には出せないヴィオの気持ちを、可能な限り汲んだ言葉だった。ヴィオも軽く微笑んで、あぁ、と短く返事をする。

 前を歩く双子はテオにじゃれついている。
 リートとテオの髪色は同じオレンジがかったブロンドだからだろうか。その様子はさながら歳の離れた兄弟妹のようだった。






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