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第2章 ADAGIO
【幕間】夜想曲Ⅱ
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『少しお話をしてもいいですか?』
そうリチェルがソルヴェーグに声をかけたのは、ヤンの案内でルフテンフェルトに向かう最初の夜のことだった。
タイミング的に、偶然ではなくソルヴェーグが部屋を出てくるのを待っていたのだろうと分かった。構いませんよ、と頷いたソルヴェーグにリチェルはホッとした表情を浮かべた。
『ご一緒してから、ちゃんとお話が出来ていなくて。ソルヴェーグさんには直接お許しを頂いていないのに、お二人に付いてきてしまったから……』
話す言葉は途切れ途切れだった。それだけでリチェルが緊張していることも、ずっと気にしていたことも分かる。
『ご心配には及びませんよ。ヴィオ様が仰ったことに異を唱えるつもりはございませんから。私の許可など不要です』
怖がらせないように、出来るだけ柔らかくそう告げた。
ソルヴェーグも、個人として見ればこの少女のことは嫌いではない。
正直で誠実な子だと思う。このまま何も言わず一緒にいても良かったのに、こうして話をしに来てしまう所が少女の性質を物語っているようだった。
ヴィオが許可し、ソルヴェーグが何を口にした訳でもないのだから、黙っていても良かったのに。
実際ソルヴェーグも、今の段階で何か口を出そうとは思ってはいなかった。
リチェルと一緒にいるヴィオの空気は柔らかかったから。幼い頃から仕えてきたが、あんな風に優しく笑うヴィオの事をソルヴェーグは知らない。
きっとリチェルがどこかの貴族の家の令嬢であれば、ソルヴェーグは心から少女の存在を歓迎しただろう。
そう、結局のところ、ソルヴェーグがリチェルに対して線を引かざるを得ないのはその一点だけなのだ。
『謝罪をしても、どうしようもないのは分かっています。わたしはヴィオの厚意に甘えて付いてきてしまったので、謝るくらいなら付いてこなければ良かったのだと言われてしまいます』
キュッとリチェルが前で重ねた手を強く握るのが分かった。
リンデンブルックでいる時も思ったが、この少女は人の感情の機微によく気がつく。
態度に出したつもりはないが、線を引かれていることは感じ取っているだろう。ただでさえ不安定な立場なのに、余計に不安にさせてしまったのでは、ヴィオにも申し訳がない。
そう思って謝罪を口にしようとするよりも、リチェルが先に口を開いた。
『だから、してはいけない事があれば教えて頂けないでしょうか』
意志のある声だった。
今考えたのではなく、ずっと考えていたのだろうと分かる、そんな目をしていた。
『わたしはあまり物を知らなくて、お二人にとって都合の悪い事がわたしだけでは理解出来ません。振る舞いや、言動でご迷惑をかけてしまわないようにしたくて……』
ヴィオは、優しい人なので何も言わないでいてくれる気がするんです。と小さな声でリチェルが言った。
『……では、今まで通りに振る舞って頂けますかな』
気付けば、言葉が溢れていた。
『……今まで通り、ですか?』
予想外だったのだろう。リチェルが戸惑ったように、ソルヴェーグの言葉を繰り返した。
『はい。ここにいるヴィオ様はリチェル殿の思っているような立場の人間ではございません。ヴィオ様の名乗る名の通りです。ですから、特別な気遣いは必要ないのです。ありのままで、接して頂けたら幸いです』
きっとそれが、ヴィオにとっても一番良い事だろう。
『本当に困るような事があれば、その時は申し上げますから。心配には及びません』
ソルヴェーグの言葉に、はい、と頷いたリチェルはやはり素直な子なのだろう。
ごまかされたと思う訳でもなく、ソルヴェーグの言うことをそのまま信じてくれる。
話はそれで終わった。
リチェルはその夜話した通り変わりなく振る舞っていたし、それ以降ソルヴェーグに過剰に気を遣う事もなかった。
嘘はついていない。
だが言わなかったことはある。
もしも、とソルヴェーグは思う。
もしも本当に困るような事になるのであれば、きっとその時はソルヴェーグより前にヴィオが自分で線を引く。
そう確信出来る事が、ソルヴェーグにとっては誇りであり、同時に痛みだ。
ルフテンフェルトでの一週間は、ソルヴェーグにとってもヴィオの変化を目にする事ができる、とても有意義な日々だった。
同時にその喜ばしい変化は、もう随分前から間違ってしまったのではないのだろうかとソルヴェーグに何度も問いかけさせた。
(いや、間違いなのかどうかすらも──)
分からない。
ただ一つだけ言える事がある。
リチェルと一緒にいる時のヴィオの空気は、侯爵家の当主であるディートリヒの持つ温かなそれに、よく似ていた。
◇
「美しい夕焼けですね」
不意に後ろからかけられた声にヴィオは振り返った。
荷の整理が終わったのだろう、ソルヴェーグが窓辺に座っていたヴィオのそばにコトリとコーヒーのカップを置いてくれる。
「どうしたんだ?」
「リンデンブルックで買っておいたものです」
紅茶はないので、リチェル殿には申し訳ないのですが。と付け加えたのはヴィオが口にすることを見越してだろう。
双子の荷物の整理や挨拶などで、結局ルフテンフェルトを出たのは昼過ぎになり、日が沈むまでに大きな町にたどり着くのは難しいだろうと村長が通り道にある村への紹介状を書いてくれたのだ。
ありがたく頂戴して、今日は牧草地にある空き家に泊めてもらっている。夜羊の番をするときに使う小屋らしく、寝る場所はあるからと快く貸してくれた。
周りは草地が多く視界が開けていて、今はその全てが茜色に染まっている。
ソルヴェーグの言う通り、確かにそれは美しい光景だった。
「珍しいですね。ヴィオ様がそうやって何もせずに外を眺めていらっしゃるのは」
「……そうか?」
思わず聞き返して、確かにそうかもしれないと黙った。
長い間思考を巡らせていることはよくあるが、今は物思いに沈んでいたわけでもない。
強いてあげるなら、この窓からは村から上がってくる道がよく見えるから──。
「静かだな」
「そうですね。ここ最近はずっとリートとリリコがいましたから、余計に賑やかでしたね」
今はリートとリリコ、アルとリチェルは夕飯を取りに来て欲しいと言われて村の方へ下りている。帰りが遅いところを見ると、恐らく用意や家事を手伝っているのだろう。
「そろそろ冷えてきましたし、窓を閉めましょうか」
「いや」
ソルヴェーグが窓辺に近づいたのをヴィオが片手で制する。もう少しこのままでいい、と言うとソルヴェーグは微かに目を開いて、かしこまりましたと引き下がった。
夕陽を見ると、どこか懐かしさを覚える。
意味もなく昔のことを思い出しては、思い出は茜に染まった空気に溶けるように消えていく。
その中で、ふと父の帰りを待っていた母のことを思い出した。
窓辺にたたずむその時間は、きっと彼女にとって大切なものだと理解しながらも、幼いヴィオには時間の無駄のように思えた。
やるべき事も、やりたい事も目の前に山積みで。
時間はいつも砂粒のように指の間からこぼれていくもので、無駄にはできない。
必死で走っても、置いてきぼりにされるような、そんな焦燥感。
だけど今こうして外を眺めている時間は、不思議と無駄には感じなかった。
ゆっくりと暮れていく空の色を見ながら、茜色の草地を眺める。
──だけどもうすぐ帰ってくるかしら、と思えることがとても楽しいの。
不意に、草地の向こうから声が聞こえた。
はしゃぐ声は一緒にいる双子のもので、風にのって高い笑い声が響いてくる。
同時にもう随分と耳に馴染んだ少女の声も。
──誰かが帰ってくる時間を楽しみに思えることが、とても嬉しいのよ。
苦笑をこぼして、カタリと椅子から立ち上がる。
あの時、母は何と言っていただろう。彼女の言葉は茜色の空に解けて、もうほとんど思い出せない。
──だって、待ち遠しいと思えるのは……
「ただいまぁ!」と、玄関で大きな声が上がった。
バタバタと駆け込んできた双子は、村の人から分けてもらった夕食を少しずつ抱えていた。
『食べ物の扱いは丁寧にね!』と慌てたように後から入ってきたアルに注意されて、はぁい! と元気よく二人が返事する。
その後ろから、バスケットを抱えた少女がゆっくりとした足取りで入ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
帰ってきたリチェルが、ふわりと笑う。
──待ち遠しいと思えるのは、大切だと思える人がいる証でしょう?
そうリチェルがソルヴェーグに声をかけたのは、ヤンの案内でルフテンフェルトに向かう最初の夜のことだった。
タイミング的に、偶然ではなくソルヴェーグが部屋を出てくるのを待っていたのだろうと分かった。構いませんよ、と頷いたソルヴェーグにリチェルはホッとした表情を浮かべた。
『ご一緒してから、ちゃんとお話が出来ていなくて。ソルヴェーグさんには直接お許しを頂いていないのに、お二人に付いてきてしまったから……』
話す言葉は途切れ途切れだった。それだけでリチェルが緊張していることも、ずっと気にしていたことも分かる。
『ご心配には及びませんよ。ヴィオ様が仰ったことに異を唱えるつもりはございませんから。私の許可など不要です』
怖がらせないように、出来るだけ柔らかくそう告げた。
ソルヴェーグも、個人として見ればこの少女のことは嫌いではない。
正直で誠実な子だと思う。このまま何も言わず一緒にいても良かったのに、こうして話をしに来てしまう所が少女の性質を物語っているようだった。
ヴィオが許可し、ソルヴェーグが何を口にした訳でもないのだから、黙っていても良かったのに。
実際ソルヴェーグも、今の段階で何か口を出そうとは思ってはいなかった。
リチェルと一緒にいるヴィオの空気は柔らかかったから。幼い頃から仕えてきたが、あんな風に優しく笑うヴィオの事をソルヴェーグは知らない。
きっとリチェルがどこかの貴族の家の令嬢であれば、ソルヴェーグは心から少女の存在を歓迎しただろう。
そう、結局のところ、ソルヴェーグがリチェルに対して線を引かざるを得ないのはその一点だけなのだ。
『謝罪をしても、どうしようもないのは分かっています。わたしはヴィオの厚意に甘えて付いてきてしまったので、謝るくらいなら付いてこなければ良かったのだと言われてしまいます』
キュッとリチェルが前で重ねた手を強く握るのが分かった。
リンデンブルックでいる時も思ったが、この少女は人の感情の機微によく気がつく。
態度に出したつもりはないが、線を引かれていることは感じ取っているだろう。ただでさえ不安定な立場なのに、余計に不安にさせてしまったのでは、ヴィオにも申し訳がない。
そう思って謝罪を口にしようとするよりも、リチェルが先に口を開いた。
『だから、してはいけない事があれば教えて頂けないでしょうか』
意志のある声だった。
今考えたのではなく、ずっと考えていたのだろうと分かる、そんな目をしていた。
『わたしはあまり物を知らなくて、お二人にとって都合の悪い事がわたしだけでは理解出来ません。振る舞いや、言動でご迷惑をかけてしまわないようにしたくて……』
ヴィオは、優しい人なので何も言わないでいてくれる気がするんです。と小さな声でリチェルが言った。
『……では、今まで通りに振る舞って頂けますかな』
気付けば、言葉が溢れていた。
『……今まで通り、ですか?』
予想外だったのだろう。リチェルが戸惑ったように、ソルヴェーグの言葉を繰り返した。
『はい。ここにいるヴィオ様はリチェル殿の思っているような立場の人間ではございません。ヴィオ様の名乗る名の通りです。ですから、特別な気遣いは必要ないのです。ありのままで、接して頂けたら幸いです』
きっとそれが、ヴィオにとっても一番良い事だろう。
『本当に困るような事があれば、その時は申し上げますから。心配には及びません』
ソルヴェーグの言葉に、はい、と頷いたリチェルはやはり素直な子なのだろう。
ごまかされたと思う訳でもなく、ソルヴェーグの言うことをそのまま信じてくれる。
話はそれで終わった。
リチェルはその夜話した通り変わりなく振る舞っていたし、それ以降ソルヴェーグに過剰に気を遣う事もなかった。
嘘はついていない。
だが言わなかったことはある。
もしも、とソルヴェーグは思う。
もしも本当に困るような事になるのであれば、きっとその時はソルヴェーグより前にヴィオが自分で線を引く。
そう確信出来る事が、ソルヴェーグにとっては誇りであり、同時に痛みだ。
ルフテンフェルトでの一週間は、ソルヴェーグにとってもヴィオの変化を目にする事ができる、とても有意義な日々だった。
同時にその喜ばしい変化は、もう随分前から間違ってしまったのではないのだろうかとソルヴェーグに何度も問いかけさせた。
(いや、間違いなのかどうかすらも──)
分からない。
ただ一つだけ言える事がある。
リチェルと一緒にいる時のヴィオの空気は、侯爵家の当主であるディートリヒの持つ温かなそれに、よく似ていた。
◇
「美しい夕焼けですね」
不意に後ろからかけられた声にヴィオは振り返った。
荷の整理が終わったのだろう、ソルヴェーグが窓辺に座っていたヴィオのそばにコトリとコーヒーのカップを置いてくれる。
「どうしたんだ?」
「リンデンブルックで買っておいたものです」
紅茶はないので、リチェル殿には申し訳ないのですが。と付け加えたのはヴィオが口にすることを見越してだろう。
双子の荷物の整理や挨拶などで、結局ルフテンフェルトを出たのは昼過ぎになり、日が沈むまでに大きな町にたどり着くのは難しいだろうと村長が通り道にある村への紹介状を書いてくれたのだ。
ありがたく頂戴して、今日は牧草地にある空き家に泊めてもらっている。夜羊の番をするときに使う小屋らしく、寝る場所はあるからと快く貸してくれた。
周りは草地が多く視界が開けていて、今はその全てが茜色に染まっている。
ソルヴェーグの言う通り、確かにそれは美しい光景だった。
「珍しいですね。ヴィオ様がそうやって何もせずに外を眺めていらっしゃるのは」
「……そうか?」
思わず聞き返して、確かにそうかもしれないと黙った。
長い間思考を巡らせていることはよくあるが、今は物思いに沈んでいたわけでもない。
強いてあげるなら、この窓からは村から上がってくる道がよく見えるから──。
「静かだな」
「そうですね。ここ最近はずっとリートとリリコがいましたから、余計に賑やかでしたね」
今はリートとリリコ、アルとリチェルは夕飯を取りに来て欲しいと言われて村の方へ下りている。帰りが遅いところを見ると、恐らく用意や家事を手伝っているのだろう。
「そろそろ冷えてきましたし、窓を閉めましょうか」
「いや」
ソルヴェーグが窓辺に近づいたのをヴィオが片手で制する。もう少しこのままでいい、と言うとソルヴェーグは微かに目を開いて、かしこまりましたと引き下がった。
夕陽を見ると、どこか懐かしさを覚える。
意味もなく昔のことを思い出しては、思い出は茜に染まった空気に溶けるように消えていく。
その中で、ふと父の帰りを待っていた母のことを思い出した。
窓辺にたたずむその時間は、きっと彼女にとって大切なものだと理解しながらも、幼いヴィオには時間の無駄のように思えた。
やるべき事も、やりたい事も目の前に山積みで。
時間はいつも砂粒のように指の間からこぼれていくもので、無駄にはできない。
必死で走っても、置いてきぼりにされるような、そんな焦燥感。
だけど今こうして外を眺めている時間は、不思議と無駄には感じなかった。
ゆっくりと暮れていく空の色を見ながら、茜色の草地を眺める。
──だけどもうすぐ帰ってくるかしら、と思えることがとても楽しいの。
不意に、草地の向こうから声が聞こえた。
はしゃぐ声は一緒にいる双子のもので、風にのって高い笑い声が響いてくる。
同時にもう随分と耳に馴染んだ少女の声も。
──誰かが帰ってくる時間を楽しみに思えることが、とても嬉しいのよ。
苦笑をこぼして、カタリと椅子から立ち上がる。
あの時、母は何と言っていただろう。彼女の言葉は茜色の空に解けて、もうほとんど思い出せない。
──だって、待ち遠しいと思えるのは……
「ただいまぁ!」と、玄関で大きな声が上がった。
バタバタと駆け込んできた双子は、村の人から分けてもらった夕食を少しずつ抱えていた。
『食べ物の扱いは丁寧にね!』と慌てたように後から入ってきたアルに注意されて、はぁい! と元気よく二人が返事する。
その後ろから、バスケットを抱えた少女がゆっくりとした足取りで入ってきた。
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