Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第3章 MENUETT

op.09 序奏とロンド・カプリチオーソ(1)

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『リチェル』

 呼ばれた声は繰り返す咳のせいで少しひび割れていた。責めるわけでもない、奥深くて優しい声音に、それでも顔を上げる気になれない。

『リチェル』

 今度はもっとゆっくりと、まるで言い聞かせるみたいに名前を呼ばれた。
 握った拳をさらにキツく握りしめた。ポツリ、と拳に雫が落ちる。

『だって、シスター……っ』

 声を出した途端に余計に涙が溢れて、リチェルは唇を噛み締める。二つに結えたお下げが視界の端で揺れた。

 あぁ、そうだ。自分は怒っていた。
 小さい頃から怒りを覚えることなんて滅多になかったのに、あの時の自分は明確に怒っていたのだ。

 シスターは何がおかしいのか笑って、やがて落ち着いた声を出した。

『私が赦しているのです。だから貴女が怒ってはいけませんよ』

 だって、とまたリチェルの口から反論する言葉が溢れる。
 
 倉庫のような小さな部屋は、壁紙があちこち剥がれていた。
 すきま風はいくら塞いでもなくならなくて、この部屋はとても寒い。

 リチェル、といつもリチェルをたしなめる時のような、深く落ち着いた声をシスターが出す。顔を上げると、シスターは真っ直ぐにリチェルを見つめていた。

『理不尽なことはこの世にたくさんあるのです。本当に、たくさん』

 そっと持ち上げられた手が、いつか褒めてくれた時のようにリチェルの頭に触れようとして、止まる。
 触れることなく下ろされたその手を、リチェルは追いかけるみたいに両手で掴んだ。シスターが困ったように笑う。

 シスターの手は記憶の中よりずっと細く、骨張っていて、それがまた悲しかった。

『貴女はとても優しい子だから、きっとこれからたくさん辛い事があるのでしょうね』
『わたし、嘘はつきません……。悪いこともしません。恵みは人と分かち合います。足りなければわたしの分を。それでもですか?』
『だからですよ』

 シスターはそう言って笑う。

『貴女はとても敬虔で、優しく、心が綺麗です。そういう人間ほど辛い目に遭うように、世界はできています』

 シスターの言っていることはよく分からなかった。善き行いをすれば救われるのだと神父様は説くのに、シスターの言っていることは真逆のようにさえ思える。

『では、悪いことをすれば良いのですか?』
『いいえ』

 ふふっ、と笑ってシスターは言う。

『リチェル、貴女は強い子ですよ。だから敢えて伝えますね。これから生きていく上で、きっと辛いことがたくさん待っているでしょう。だけどリチェル。貴女は──』

 ぱちりと、リチェルは目を瞬かせる。

『どんなに辛くても、────』

 どうしだろう。
 声が聞こえない。

 シスターがリチェルの頭をそっと撫でる。

『────、────』

 あぁ。
 何かとても大切なことを、教えてもらった気がするのに。

 どうしてだろう。

 貴方の顔も、声も、わたしはぼんやりとしか思い出せないのです。





   ◇





 フッと暗闇から意識が浮かび上がった。

 窓の外はまだ薄暗かったけれども、時間はもう夜から片足を引き抜こうとしている。
 修道院でもクライネルトでも、夜明けと共に起きるのが普通だったから何となくの時刻はわかる。
 もう夜明けが近い。

 ゆっくりとベッドから身を起こすと、隣のベッドで双子がスヤスヤと寝ているのが目に入った。
 朝方は随分と冷え込むと言うのに、リートもリリコも上掛けを置き去りにして眠っていて、リチェルはクスリと笑うとずり落ちた毛布を二人に順番にかけ直した。

 もう一度眠る気にはならなくて、窓辺に近づいて手を触れると、思っていたよりずっと冷たい感触が指先に伝わってくる。

(懐かしい、夢……)

 もう何年も見ていなかった。孤児院での記憶だった。

 起きたばかりだからか、その時抱いた感情までが生々しくまだ胸に残っている。それなのに、会話の内容はモヤがかかっているようで、よく覚えていない。

 ずっと忘れていた記憶。
 だけどヴィオと旅をするようになってから、特にリンデンブルックに着いたあたりからだ。
 クライネルトの日々で忘れていた多くのことを、思い出す事が増えてきた。

 今までは落としていた事すら気付かなかった物が急に見えるようになったみたい。そう言えばこれも自分のものだったっけ、と拾い上げると気付くのだ。

 確かにそれは、自分の記憶で。
 確かにそれは、自分の感情で。

 だけどその感情を吟味することも出来ないほど、ヴィオと出会ってから積み上げてきた新しい感情が色濃くて、よく分からなくなっていく。

 何を拾って。
 何を捨てて。

 どうすればこの気持ちは穏やかに落ち着くのだろう。

 リチェルにとって、嬉しいは嬉しいで、悲しいは悲しいで、それだけで良かったはずなのに。

『多分リチェルがいるからだろうな』

 ルフテンフェルトの木の下でヴィオにかけられた言葉を思い出して、服の上から胸に手を当ててキュッと拳を握る。あの時感じた違和感はまだずっと残っていて、今もヴィオと一緒にいると時たま疼く。

 あたたかに降り注ぐ言葉が、ただ嬉しいだけではなかったのはどうしてなのだろう。

 それは柔らかな布を糸で引き絞るみたいに、胸の奥に痛みをもたらす。嬉しいはずなのに、どうして痛みを伴うのか不思議だった。

 落としたものを拾い集めて、新しい物を受け入れる。
 それはどこか自分が自分ではなくなっていくような感覚だ。

 それが少し、──怖い。
 未来を考えるどころか、今を知ることすら少し怖くて。

 どうしてだろう。

(ヴィオに、会いたいな──)

 何故だかとても、声が聞きたかった。
 
 
 
 
 
 
 
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