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第3章 MENUETT

op.11 孤独の中の神の祝福(4)

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 捜索を始めて、気付けばもう昼も近くなっていた。

 紙の山は一つを崩すと奥から新しい山が出現して、時間が経過するごとにこの膨大な作業にヴィオとソルヴェーグを付き合わせているのが申し訳なくてたまらなくなる。

「そろそろ昼時ですかな」
「だな」

 ヴィオが表情に多少疲れを滲ませて呟く。

「お疲れですか? この調子ですと今日中にラクアツィアを出るのは難しい気がいたしますし、一旦宿を取りましょうか。お昼からはヴィオ様は宿で休憩されても構いませんが」
「いや、それはいい」

 ヴィオが即答する。そうおっしゃると思いました、とソルヴェーグが笑う。

「何というか……、書簡の整理の重要性を垣間見た気がするな。うちもまさかこんな風になっているのか?」
「まさか。きちんと整理されておりますよ」
「そうか。管理してくれている人間に感謝しないとな……」
「ふふ、そうですな」

 ヴィオが呟いた言葉に、ソルヴェーグはどこか満足そうでリチェルは首を傾げる。

「一旦休憩にしましょう。宿のこともありますし、院長殿に一声かけて町に降りましょうか」

 ソルヴェーグがそう言った時だった。カタンと入口の方で物音がして、リチェル達は音の方を振り向いた。

 驚いたのか、赤茶色の癖っ毛が一瞬引っ込んで、だがすぐにヒョイっと顔を出す。

「こんにちは。リチェルがここにいるって聞いて」
「パウロ」

 先程小さな子の世話をしていた年長組の少年が一人、扉の向こうに立っていた。一度思い出すと、記憶はスルスルと出てきた。リチェルが孤児院にいた頃はまだ八歳で、良く悪戯をしてシスターに怒られていた子だ。

 孤児院に来たのは確か四、五歳くらいだった気がする。途中で入った子には珍しく人懐っこい子で、今もそれは変わらないのかヴィオ達にも気後れした様子はない。

「パウロ、ダメよ。怒られるわ」

 今は昼食時ではないだろうか。だとしたら下の子達の世話があるだろう。そう尋ねるとパウロはぱちぱちと瞬きをした。

「大丈夫だよ。チビたちはもう昼寝してるし、ロゼがついてる」
「もうそんな時間なの?」
「うん。あれ、リチェル達まだご飯食べてないの? 流石にお客様の昼ごはんを出す余裕はなくても、声かけくらいすればいいのに……」

 そう呟いてから、パウロが顔を上げて口を開きかけて止まった。まじまじとリチェルを見る顔にどこか戸惑っている気配が垣間見れて、リチェルは首を傾げた。

「どうしたの?」
「え。あ、いや、リチェル。変わったな、と思って……」

 遠慮がちなパウロの声に、リチェルはキョトンとする。確かに姿形を見ればあの頃より背は伸びているし、何より服はヴィオに揃えてもらった物だからそう見えても仕方ないかもしれない。

(距離を、感じるかしら……)

 そう思うと、急にパウロの気持ちがよく分かった。
 きっと、初めてリチェルがヴィオに出会った時と同じだ。自分の格好とヴィオの格好を見比べて、どうしても卑下してしまう。自分なんかが口を聞いていいのか、分からなくなってしまうのだ。

(よし……)

 思い立って、後ろで結んでいる髪紐をとく。

「え、リチェル?」

 戸惑った声を上げたパウロの前で髪を二つに分けると、リチェルはその髪を三つ編みにしていく。片方は後ろで縛っていたリボンで結んで、もう片方は縛るものがなかった事に気付いて、手でキュッともった。

 孤児院にいた頃、リチェルはずっと髪を二本のおさげにしていた。

「これでどうかしら? あまり変わらない?」

 これなら、少しは前と同じだと思ってもらえるだろうか?
 そう思って尋ねたリチェルに、パウロは呆然としていたが、やがてぷっと吹き出した。ふふ、ははっ、と明るい笑い声をあげる。

「……そうだね。確かにあんまり変わらないかも」

 口元を押さえて、パウロがおかしそうに笑う。

「でもリボンひとつしかないじゃん。リチェルは相変わらずそそっかしいなぁ。俺チビ用の髪紐持ってるから貸してあげるよ。ほら、髪貸して」

 そう言って、パウロはポケットから取り出した紐でリチェルのもう片方の三つ編みを縛ってくれる。手つきは慣れたものでとても器用だった。

「その、全然釣り合わないけど……」

 簡素な紐を結んだ後で、恥ずかしそうにパウロが呟く。

「ううん。そんな事ない。とっても上手に結べるようになったのね」
「うん、おかげさまで」

 パウロは恥ずかしそうに笑うと、『それで』と顔を上げた。

「あの……、ここに来たのは……」

 パウロが遠慮がちにヴィオとソルヴェーグの方に視線をやる。心配そうにリチェルの方を見るので『大丈夫よ』とリチェルは笑う。

「とても優しい方達だから」

 やはり心配していたのだろう。パウロはホッとしたように、そっか、とこぼす。

「うん、リチェルが言うならそうなんだろうな。……あの、朝のロゼのことを謝りに来たんです」

 そう言ってパウロが頭を下げる。

「失礼なことを言ってしまってすみません」

 ヴィオはリチェルをチラリと見てから、『構わない』と一言言った。

「怒ってはいないから。ただどうしてそんな言葉が出てくるのか気にはなったけれど」
「あー、それ……」

 パウロが頭をかく。

「パウロ?」
「いや、ロゼのやつ、あれマルタへの当てつけなんです」
「え?」

 パウロの言葉は予想外で、リチェルは目を丸くする。ヴィオの方を申し訳なさそうに見て、パウロは続ける。

「今ちょっとロゼとマルタの折り合いが悪くて。ロゼもこの間反省室に閉じ込められたばっかだからやめればいいのに。後で怒ったんですよ。リチェルが、その、前と同じとは限らないんだからって」

 決まり悪そうに視線をリチェルに向けて、パウロは呟く。

「その、もしかしたら……失礼なことを主人に言ったから、リチェルは怒るかもしれないし。あんな綺麗な服着てるから、変わってたって仕方ないしさ……。それに一緒にいる人たちが厳しい人だったら、怒られるのリチェルかもしれないし、とか……」

 まぁ結果的にリチェルは全っ然変わってなかったんだけど、とパウロはリチェルの三つ編みを見て笑う。

「でも、やっぱり怖かったから。リチェルが優しい人だって言うからきっとそうなんだって今は安心しているけど、あなた達みたいな立派な方は俺たちにとっては雲の上みたいな人達なんです。だから院長に一言言われたら、どんなお仕置きされるか分からない。ただ俺はともかくロゼは女の子だから、顔とか、傷つかない方がいいかなって。今のうちに謝っとこうかなって」
「何も言うつもりはないから安心していい。ただ、心配させたみたいで悪かった」
「え、いいんです! 悪いのはロゼだから! いや、ロゼと俺! 俺も悪いから!」
「パウロ……」

 その言葉に、無意識にリチェルの手が伸びた。そっと頭に手をのせて子供にするようにそっと撫でる。

「そっか。ロゼのこと思ってくれたのね。偉いね、パウロ」
「……いや、リチェル。俺もうチビじゃないから。一応今は最年長なんだけど……」

 不満げに口にしながらも、パウロはリチェルの手を振り払わない。

「でもロゼは大丈夫なの? あんな風に言ってしまうほど、思い詰めたりしてないかしら……」

 孤児を引き取る人間は、代わりに寄付金を置いていくことが常だ。
 孤児院を運営するにはお金がかかるし、それが悪いとは思っていない。だけど、少なくとも出ていく子供達が自分達を商品のように言うことなんて、リチェルの頃はなかったはずだ。

「あー……」

 今はそんな不思議じゃないかも、とパウロが苦り顔でこぼす。

「リチェルも知ってると思うんだけど、シスター・テレーザは金の亡者だからさ。ちょっとでもたくさん寄付金をくれる人に俺たちを引き渡したいんだよね。そういう来客が近くなると、本当に細かいところまでうるさくて。それにロゼがキレちゃってさ。『そんなに高く買って欲しいなら綺麗に飾り付けてみれば?』とか言っちゃったわけさ」
「…………」

 思わず言葉を失う。それは、聖職者であるシスター達がものすごく怒りそうな言葉だ。

「シスター・テレーザなんて悪魔のように怒ってさ。放っといたら鞭でも打ちそうな感じだったよね……。でもそれより先にマルタが怒ってロゼを平手打ちしてさ。反省室に放り込んだんだよ。覚えてる、反省室?」

 パウロの言葉にリチェルはおずおずと頷く。
 一度だけ入れられた事がある。小さな小窓しかない倉庫のような部屋。昼間でも薄暗くて、夜に閉じ込められるともう真っ暗だった。いたずらをした子供が最終的に押し込められる部屋で、あの部屋に入れられると子どもたちはみんな大人しくなって帰ってくるのだ。

「マルタ、元は俺たちと同じ立場なのに、修練から帰ってきてからずっとアイツらの言いなりでさ。そういうのも鬱憤溜まってて、今絶賛ロゼはマルタを敵視してる」

 それから特に悪意もなく『その点リチェルは優秀だったよね』とパウロは笑った。

「ほら、リチェルを引き取った人は多額の寄付をしていったみたいだから。シスター・テレーザは今でもたまに話に出すくらいだったんだよな。あれくらい高く買ってもらえって、まぁそんな言い方はしてないけど同じような意味でしょ。それを思い出して当て擦ったんだろうな。本当にすみません」

 最後の言葉はヴィオとソルヴェーグに向けてだ。
 二人は先ほどから黙ってパウロの話を聞いている。正直、聞いてもらいたい話ではなかった。

 売り買いされている訳ではない。だってリチェルもここにいる孤児達も、孤児院がなければ行き場もなく、もっと酷い環境に置かれていただろう。生きている事すら、奇跡かもしれない。

 だからリチェル達はみんな、自分達がいつか奉公に出されると言うことを受け入れていた。孤児院へ少しでも恩返しができるのだと、そう思っていた。
 けれど、リチェルが知った外の世界から見れば、それはとても『綺麗』だとは言えない事なのかもしれない。

「俺、来月ここを出るんだ」

 不意に、ポツリとパウロが呟いた。シスター・テレーザも言っていたから覚えている。パウロはもう奉公先が決まったのだと。

「ねえ、リチェルは……どうだった? 外の世界って、怖い──?」

 今まで大人びた口調で喋っていたその声が、急に幼さを帯びる。期待以上に心細さと、漠然とした不安がそこにはあった。

 
『みんな嘘ばっかり。出ていった先で幸福だなんて誰にも分からないのに』


 唐突に、脳裏に蘇る声があった。

 子供達を送り出す時、シスターは大丈夫だと子供達に言い聞かせる。彼女はそんな耳触りのいい言葉に、あの時怒っていた。

『分かるわ、マルタ。だけどね、私たちはいつだってそう言って送り出すしかないの』

 落ち着いた低い声が答える。

『行く先が良きものか分からなくても、少なくとも私たちはそれを信じねば。私たちが大丈夫だ、と送り出してあげなければ、ただただ恐ろしいだけでしょう?』
『だから嘘をつくの?』
『嘘ではないわ。希望を紡ぐのよ。そうであれと、ただ願うのよ』


 パウロの瞳が揺れている。

(外の、世界……)

 リチェルにとって、孤児院を出てからの四年間は苦痛と恐怖の記憶でしかない。間違っても、パウロを安心させる物ではなかった。

 マルタの言う通り、出ていった先で幸福だなんて誰が分かるのだろう。
 他でもないリチェルが、そうではなかったのだから。

(でも──)

 そっと、パウロの手を取った。両手を包むように握って、目を伏せる。

「大丈夫」

 そう、優しく紡ぐ。
 例えリチェルがそうであったからと言って、それがパウロの心を損なっていい理由になど決してなりはしないのだ。

「辛いことも苦しいことも、永遠に続くことなどないのだから。優しさも、希望も、同じくらい世界には溢れているものだから」

 だから希望を紡ぐ。きっとそれは願いであり、祈りだ。

「どこにいても主はきっと貴方の行く道を祝福してくださるわ。だから安心して、いってらっしゃい」
「…………」

 パウロは黙ってリチェルを見ていた。その瞳がふっと、緩む。

「……リチェルの方が院長よりよっぽどシスターらしいや」

 軽口を叩いて、パウロは笑う。

「ありがとう、リチェル。元気出た」

 そう小さく呟いて、パウロはヴィオとソルヴェーグに礼をすると部屋から出ていった。パタン、と扉が閉まる。

 パウロの背中を見送って、はたとヴィオとソルヴェーグの存在に気づいた。
 急に恥ずかしくなって振り返ると、案の定リチェルを見ている二人の目と目が合う。

「あ、あの……!」

 シスターでもないのに、大仰なことを口にしてしまった。ヴィオもソルヴェーグも何と思っただろうか。

「わたし、院長に一度外へ出ることを伝えてきます! お二人はここで待っていてください!」
「リチェル⁉︎」

 それだけ言うと、リチェルは逃げるように資料室を飛び出した。



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