浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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9話『月の鏡に映るもの』

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「大公様、着きました」



 御者台の前から、執事のグレイが落ち着いた声で告げた。

 屋敷の門が静かに開かれ、月明かりが馬車の窓を照らす。



 私は膝の上のレオニスに視線を向ける。



 けれど、彼は目を閉じたまま微動だにしなかった。

 寝つきがいいのか、あるいは起きる気がないのか――

 寝顔には、わずかに疲れの影が滲んでいる。



 そんな過労なの?



「……着きましたよ?」



 控えめに声をかける。

 しかし返事はない。



 困ったように眉を寄せた私は、ふとため息をこぼした。



「……もう少し、待ってあげるか」



 そう呟いて、窓の外を見上げる。

 雲の切れ間から顔を出した月が、白く澄んだ光を落としていた。



 この先、どうすればいいのだろう。

 そんな思いが胸をよぎる。



 ――それにしても、この世界の月は、本当に美しい。





それは、音もなく世界を照らす月だった。



触れれば崩れてしまいそうなほど繊細で、けれど確かに、すべてを見ている。



ああ――この光のように。



誰にも触れられず、ただ見つめるだけの美しさ。

それが、どれほど孤独なことかを私は知っている。



セレーネのレオニスへの記憶が私の中に満ちていく。



バカな子。



報われなくてもそばに居たかったなんて、不毛にも程がある。



噛ませ犬で、尊厳なんてものは無視されたまま幕を閉じる。



私は彼らの恋愛譚を飾るための、ただの装飾品。



そんなのは嫌。





だからこそ、私はさっさとここを出ていきたい。











「……綺麗だな」



不意に声がして、思わず下を見た。









「あら、起たんですか?」





レオニスはゆっくりと身を起こし、まだ少し眠たげな顔を私に向ける。





「では、屋敷へ戻りましょうか」





私がそう言うと、レオニスは私の顔をまじまじと見つめたまま、黙り込んでいる。





「……何か、顔についてます?」



「いや――おまえの顔を、こんなに近くで見たのは初めてだな、と」





何言ってんだ、この人。





「わけのわからないこと言ってないで、早く屋敷に入りましょう」



「……そうだな」



 そう返したレオニスは、しばらく私を見つめたまま動かなかった。 



 目の奥に、微かに何かを探すような光が宿っていて、

 その視線から逃れるように、私はそっと目を逸らす。



 その瞬間――足に、じんと痺れが走った。



「……っ」



 やっぱりまた痺れてるうっ!!





 立ち上がろうとした瞬間、バランスを崩しかけた私の身体を、レオニスの腕がすくい上げた。





「っ、ちょ、レオニス!?」





 彼は私を軽々と抱き上げると、そのまま馬車を降りた。



 大きな腕の中で、心臓の鼓動がやけにうるさい。

 頬が勝手に熱を持つのを、どうすることもできない。





「歩けますから」



「痺れてるんだろう?」





 無表情のままそう言って、彼はそのまま屋敷の灯の下へと歩き出した。





 夜風が銀糸の髪を揺らし、

 月の光が彼の肩越しに静かに降り注ぐ。







 いったいどうしちゃったのこの人は。





 屋敷の玄関をくぐると、

 出迎えた使用人たちが一斉に息を呑んだ。





 ――無理もない。



 大公自ら、毛嫌いしていた妻を抱きかかえたまま戻ってきたのだから。



 レオニスは気にも留めず、まっすぐ寝室へと足を運ぶ。

 扉が閉まる音と同時に、静寂が落ちた。







 そっと下ろされ、ベッドの上に腰を下ろした瞬間――

 彼の気配が変わった。



 その視線は、戦場に立つ時のように鋭い。

 空気が一気に張り詰め、思わず背をのけぞらせる。





「な、なにを……しようとしてるの?」





 喉が乾いて声が震える。

 レオニスは無言のまま近づいてきた。









「や、やめて! 無理なの……もう、無理なんだから!!」







 自分でも何が“無理”なのか、うまく言葉にできない。



 けれど、彼の指先が頬に触れそうになった瞬間、

 胸の奥が痛いほど跳ねた。







「もしかして夜伽が……嫌なのか?」



「嫌です!!」





 即答した私に、レオニスは一瞬きょとんとしたあと、ふっと視線を落とした。





「……そうか」





 その横顔が、なぜかひどく寂しそうに見える。



 ――いやいや、おかしいでしょ!?

 なんであなたがそんな捨て犬みたいな顔をするのよ。

 まるで私が悪者みたいじゃない!





「わ、私は別の部屋で寝ますから」



 そう言ってベッドから降りようとする。

 けれど、さっきまでの痺れがまだ残っていて、足が思うように動かない。





「……隣にいるだけも、嫌なのか?」



「へ?」



「膝枕がいいなら、それくらいはいいんじゃないのか」



「何言って……」



「おまえが嫌なら、何もしない」







 嘘つけぇぇ――!!



 さっきの夜会で何かしたじゃない!!



 で、デコにちゅ……って!





「……隣に女性が必要でしたら、誰か別の者を手配しますので、お待ちください」





 できる限り冷静に言い放つと、

 レオニスは一瞬だけ目を見開き、それから小さく諦めたように笑った。





「別の者、か」









 低く静かな声。



 責めているわけでも、怒っているわけでもない。

 ただ、少しだけ寂しそうに笑っていた。



 沈黙が落ちる。



 外の風が、カーテンを揺らして通り抜けていく。

 その音がやけに大きく感じられた。



 目を逸らそうとして、できなかった。

 視線の先で、レオニスがゆっくりと息を吐く。

 

 その仕草が悲壮で、胸の奥がきゅっと痛む。







「……もう休め。無理をさせた」



 そう言って、彼は寝台の端に腰を下ろし、背を向けた。





 ちょ、ちょっと待って。



 何それ反則じゃない?



 どうしてそんな凹むわけ?





「とっ、隣に寝るだけなら、……い、いいですけど」





 あー、もう!



 なんなの!!







 レオニスは何も言わない。

 拗ねたように背を向けたまま、沈黙が降りる。



 諦めて、私は小さく息を吐いた。



「とにかく……このままでは眠れませんので、着替えてきます」





 こちとらこんな窮屈なドレスじゃ息もままならない。



 そう言ってベッドから降りようとした瞬間――

 手首を掴まれた。



「っ、な……なにを――!」



 思わず振り返る。 



 レオニスの指が、私の手首を包み込んで離さない。

 けれど、その力は驚くほど優しかった。



 月明かりが、彼の横顔を照らす。 



 無言のまま、深い藍の瞳がこちらを見つめている。

 

 何かを言いたそうで、けれど言葉にならない――

 そんな迷いがその瞳に揺れていた。



「……レオニス?」



 呼びかけると、ほんの一瞬、彼の指が震えた。

 そしてようやく、ゆっくりと手が離される。



「……すまない」



 低くかすれた声。

 まるで、自分自身に言い聞かせるような響きだった。



 胸の奥に、言葉にならない痛みが広がる。

 その背中に何かを返そうとして――

 結局、何も言えなかった。



 自室へ戻りメイドに湯浴みの準備を頼む。



 湯殿に入ると、静けさが降りた。

 湯気が立ちこめ、外の月明かりが格子窓からぼんやりと差し込む。



 湯に身を沈めた瞬間、

 張りつめていた肩の力がゆっくりと抜けていった。



「……はぁ……」



 ため息と一緒に、心の奥まで熱が広がる。



 ――さっきの、あの手。



 掴まれたとき、驚いたはずなのに、

 怖くはなかった。

 むしろ、胸の奥が妙にざわついて。



「……何なのよ、もう」



 湯面を指先でかき回しながら、呟く。



 この世界に来てから数日。



 息をつく暇もなく慌ただしい毎日だった。



 

 考える事が多すぎて、イレギュラーなストーリー進行に、私自身も追いつけていない。





 そしてふと疑問が浮かぶ。





 本当のセレーネは、一体どこへ行ったの?





 その疑問が湯気の中に溶けていく。

 ここにいる私は、誰なのだろう。



 彼女の記憶で笑い、彼女の言葉で話しているけれど――

 心の奥だけは、確かに“私”のままだ。





 湯から上がり、鏡の前に立つ。

 髪から滴る雫が、肌を伝って落ちる。

 見慣れない顔。けれど、どこか懐かしい。



 ――セレーネ。



 あなたが生きた時間を、私は奪っているの?

 それとも、託されたの?





 鏡の中の私が、問い返すように笑った。





 その笑みが、少しだけ切なくて、

 私はタオルでそっと顔を覆う。







 でもごめん!!



 やっぱり私は死にたくない!



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