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10話『沈黙の中の温度』
しおりを挟む仕方なく寝室に戻ると、
ソファに身を預けたまま眠っているレオニスが目に入った。
胸の奥が、少しだけ痛む。
――またそんなところで。
って、私のせいか。
罪悪感に背を押されるように、そっと近づいた。
静かな寝息。
ほんのりと石鹸の香りが漂っている。
レオニスも……湯浴み、したのね。
レオニスの銀の髪に指を伸ばすと、少しだけ湿っていた。
まだ乾ききっていない。
「こんなところで寝たら、風邪をひきますよ?」
囁くように声をかけても、返事はない。
仕方なく、彼の鼻を軽く摘んでみる。
その瞬間――手首を掴まれた。
「……っ!」
驚いて見下ろすと、蒼い瞳が薄く開いていた。
「嫌なのではないのか?」
「何が?」
「俺に、触れられるのが」
「……嫌ですけど?」
即答すると、レオニスの眉がわずかに動く。
「では、なぜ触れる」
「じゃあ……もう触りません」
拗ねたように言い返すと、
レオニスは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。
「……おまえは、触れてもいい」
その声は低く、少し震えていた。
まるで、自分に言い聞かせるような響きで。
息を呑む。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
どうしてそんな顔をするの――
言葉にならない想いが、喉の奥でほどけた。
「毎日私にまたがられて迷惑だとおっしゃっていたじゃないですか」
なんかそんなよーな事言ってたよね?
女セレーネの勇気をなんだと思ってるんだ。
惨めで悲しくて、それでもそうするしかなかったセレーネの自尊心も何もかもを壊したのはこの男だ。
「……」
「私はもうあの頃のセレーネではないんです、だからもう心配なさらないでください。迷惑になるような事はもう致しません」
「……迷惑ではない」
……は?
「言っていたではないですか」
「思ってはない」
「え?」
ちょっと待って?
どういうこと?
「ああ口にしただけだ」
え?
「夜伽がしたいだけなら、他をあたってください」
何言い出してんだこの男は。
呆れた。
付き合いきれない。
レオニスに押しつぶされそうになりながら、突き上げられたあの一夜が脳裏から消えない。
性欲のハゲ口じゃないのよ、私は。
セレーネはそれでもいいからレオニスを繋ぎ止めたかった。
肌が触れ合うだけで、心は満たされた。
そんな悲しい事ある?
例え悪女で、彼女がした事が罪だったとしても、その策略にハマったのはリディアじゃない。
セレーネは既婚者になったレオニスを諦めきれなくて……
……って、それはそれでやっぱり怖いな。
だめよ、ダメダメ。
あっぶない、倫理観失うところだった。
「理由を聞いてもいいか」
レオニスの声は低く、どこか迷いを帯びていた。
その問いに、私はわずかに眉を寄せる。
「――慰め晴らしのために抱かれて、嬉しい女がどこにいるんですか」
言葉が零れ落ちた瞬間、
空気がひんやりと変わった。
自分でも驚くほど冷静な声だった。
けれど、その奥には、
張り詰めた糸のような感情が確かにあった。
レオニスは、ハッとしたように目を見開く。
「すまなかった」
短い言葉なのに、胸の奥にずしりと響いた。
謝る姿なんて想像もしなかったから、言葉が出てこない。
「どう詫びれば……許してもらえる?」
真っすぐな瞳がこちらを射抜く。
その真剣さに、思わず視線を逸らした。
「……別に、許すとか許さないとかじゃなくて……」
言いかけて、口を閉ざす。
心の奥で何かがほどけていくようで、苦しかった。
「もういいじゃないですか。どうせ、あなたは私のことなんて――捨てるんですから」
言ってから、空気が凍った。
レオニスがわずかに眉を動かし、静かに問い返す。
「……捨てる? おまえを?」
しまった。
焦りのあまり、つい未来のことを口走ってしまった。
「い、いえ、今のは……その……」
しどろもどろになる私に、レオニスがふっと目を細める。
「そんなふうに思って、拗ねていたのか?」
頭がめでたいなコイツ。
「いや、拗ねてるのはそっちでしょう?」
「俺が、拗ねただと?」
「めちゃくちゃ拗ねてたじゃないですか」
「……俺は、拗ねたことなど一度もない」
うそつけぇ!!
心の中で全力でツッコむ。
でもその声を飲み込んだとき、彼の瞳がわずかに揺れた。
「……そうやって気を引こうといつもするおまえに、
うんざりしていたはずなのに――」
小さく息を吐く。
視線を逸らしながら、かすかに笑った。
「どうしてか、おまえが側にいないと、落ち着かないんだ」
「……え?」
胸の鼓動が跳ねた。
レオニスの言葉は淡々としているのに、
その奥にある温度は、あまりにもまっすぐだった。
レオニスの声が震える。
「なっ、何を甘えてっ……」
私は息を呑んで、その瞳を見返した。
「……」
沈黙。
その空白が、かえって苦しい。
「おまえを捨てたりなどしない」
その言葉に、胸がざわめいた。
――そんなこと、あり得ない。
そんな結末にならないことを、私は知っている。
「別に、捨てられても恨みはしませんので。ご心配なく」
その瞬間、腕をぐいと引き寄せられた。
「……捨てないと言っている」
「す、捨ててくれないと、こ、困りますっ!」
「何故」
「な、なんでって……!」
「ほ、他にいい人がいるかもしれないし!」
「他に?」
「私は貴方を愛してはいませんから。
レオニスだって、心のどこかで他の方を――」
「俺以外の誰だ?」
「あ……」
言葉が詰まった。
そうだ。
私はすべてを知っている。
今のレオニスは、リディアに裏切られた痛みを抱えたままなのに、
そのことを、いつの間にか忘れていた。
自分のことばかり考えて、
彼の傷を見ようとしなかった。
――レオニスだって、傷ついていたのに。
「……い、今はいません」
「ダメだ」
掴まれていた腕に、レオニスの指がゆっくりと滑る。
手首、手の甲――そして、指先へ。
触れるたびに、そこが熱を帯びていく。
逃げることも、息をすることもできなかった。
「……っ、レオニス」
名を呼んだ瞬間、彼は迷いなく私の指先を取った。
そして、そっと唇を落とす。
それは、触れるだけの、静かな口づけだった。
けれど、その一瞬が、胸の奥を焼くように熱かった。
指先に残る温もりが、心臓の鼓動と重なっていく。
レオニスが顔を上げたとき、
その瞳には、これまで見たことのない色が宿っていた。
「……こうすれば、行かないか?」
低く響く声。
からかわれているわけじゃない。
ただ、真っすぐに――私を見ていた。
息を詰めたまま、私は小さく首を振った。
「……そういうことをしたら、もう添い寝しませんよ」
私がそう言うと、レオニスの動きがピタリと止まった。
驚きというより――制御の効かなくなった衝動を、必死に押しとどめるような静止だった。
指先に残る温もりが、心臓の鼓動を早めていく。
このままでは、きっと流されてしまう。
そっとその手から指を引き抜く。
そして息を整えて、わざと少しだけ強い声で言った。
「……もう、ここで話していても終わりが見えません。
風邪をひきますよ」
その言葉に、レオニスはしばらく黙ったまま、私を見つめた。
月明かりが彼の横顔を照らし、その影の奥で何かが微かに揺れる。
「……わかった」
短い返事だった。
けれど、その声はどこか優しくて、胸がきゅっと締めつけられる。
私が寝台に戻ると、レオニスも後からやってきて、何も言わずに私に背を向けて横になった。
少しだけほっとして胸を撫で下ろす。
はあ、疲れた。
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