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11話『眠れぬ夜』
しおりを挟む背中からセレーネの寝息が聞こえる。
微かに甘い香りがして、全く寝つけない。
下半身が熱く疼くせいで、睡魔は訪れない。
意識がやけに冴えて、心臓の鼓動だけがうるさく響く。
そっと身を起こし、セレーネの寝顔を確認する。
月明かりの光だけでもわかるほど美しいその寝顔に、
背徳心を覚えながらも、込み上げる感情を抑えきれなかった。
「……嫌です」
はっきりと拒まれた言葉が胸を刺す。
望んでいたことのはずなのに、
なぜこんなにも痛いのか、自分でもわからない。
彼女が眠っているというのに、心が安らがない。
その存在が、静けさよりも鮮やかに夜を満たしていく。
――俺以外?
あれほど俺の後をついてまわっていたセレーネが、
急にそんなことを言い出したには、きっと理由がある。
けれど、その答えが見えない。
考えれば考えるほど、胸の奥に焦りが滲んでいく。
わからない。
ただ、確かなのは、この胸のざわめきが“彼女を失いたくない”という叫びに似ていることだけだった。
他の男になど渡したくない。
焦りのせいか、更に下腹部に血が集まる。
吐き出したくても、吐き出せない。
彼女はもう、俺に触れてはくれないのか。
俺はもう、彼女に触れてはならないのか。
――触れたい。
たったそれだけの衝動が、理性を簡単に揺らす。
眠る彼女に指先ひとつ動かすこともできず、
自分の中の熱だけが暴れ続けていた。
このままでは、何かを壊してしまう。
俺は息を殺すようにして、静かに寝台から身を起こした。
足音を忍ばせ、外気の差し込む扉へ向かう。
扉を開けた瞬間、冷たい夜風が肌を撫でた。
月の光が静かに降り注ぐテラス。
白い大理石の床に、淡い光が滲んでいる。
俺は手すりに片手をつき、深く息を吸い込んだ。
冷気が肺に入り、熱を鎮めていく――はずだった。
だが、瞼を閉じても、彼女の面影が焼きついて離れない。
声も、笑顔も、拒んだ時の震える睫毛までも。
「……俺は、どうして……」
独り言のように呟き、握った拳を手すりに押し当てる。
指先が白くなるほど力を込めても、
胸の奥の熱だけは消えてくれなかった。
月が雲に隠れ、庭が暗く沈む。
馬車の中では、あれほど眠れたのに。
今はまるで、眠気というものが存在しないかのようだ。
瞼を閉じても、浮かぶのは彼女の横顔ばかり。
遠くの風の音さえ、妙に耳につく。
どうしてこうも落ち着かないのか――
自分でも理解できない。
こんな事は初めてだった。
冷たい夜風に当たり続ければ、
この熱も少しは鎮まるだろうか――
「……何をしてるんです?」
背後から声がして、ハッと振り返る。
セレーネが薄い外套を羽織り、
寝起きのままの姿で立っていた。
月明かりが彼女の髪を照らし、
風に揺れるその影が静かに床を滑っていく。
「……寝付けなくて」
俺がそう言うとセレーネは小さく眉をひそめた。
「寒い夜中に、そんなところで……。
風邪をひいたらどうするんですか」
叱るような声。
けれどその奥には、心配の色が滲んでいた。
「もう、子供みたいに」
セレーネが呆れたように肩をすくめる。
俺は短く息を吐き、月明かりの方を見たまま口を開いた。
「寒いから、おまえは中に入っていろ」
「そうはいかないでしょう? 置いていけませんよ」
風が二人の間を通り抜ける。
少しの沈黙のあと、俺は低く呟いた。
「……おまえが横にいると、眠れない」
「……はぁ?」
思わず、気の抜けた声が漏れた。
「だから、寝室はもう別にしよう」
「そ、それなら……いいですけど」
言って、すぐに後悔した。
自分でも理由がわからない。
同じ空気の中にいるだけで息が詰まりそうで、
それなのに――離れると、胸が痛む。
セレーネは一瞬だけ俺を見つめてから、
ふいに視線を逸らした。
「……わかりました。では、そうしましょう」
静かな返事。
それが、どうしてか突き刺さるように感じた。
月明かりが彼女の横顔を照らす。
その光が、冷たい風よりも痛い。
諦めた直後のことだった。
隣にやってきたセレーネが、そっと俺の頬を両手で包み込む。
月明かりの下、その指先は驚くほど温かかった。
「ほら、こんなに冷たくなって」
どうして――。
その手を取ると、華奢な指先から伝わる体温が胸の奥まで染みていく。
「……嫌なら、どうしてこんなことをする」
思わず問いかけると、セレーネは少し驚いたように目を見開き、
すぐに、朗らかな笑顔を浮かべた。
「最後くらい、優しくしてあげますよ」
「……最後?」
「だって、明日から別の部屋でしょう?」
「……もう二度と、同じ寝床では寝てくれないのか」
「自分で“別がいい”とおっしゃったじゃないですか」
「最後とは、言ってない」
「え?」
「――最後は、嫌だ」
気づけば、衝動でセレーネを引き寄せていた。
驚くほど細い身体が腕の中に収まる。
「レ、レオニス……?」
震える声が耳に触れる。
離せない。今、離したら、もう二度と届かない気がした。
「……どうすればいい」
「は?」
「どうすれば――」
その先の言葉が、喉の奥で途切れる。
どうすれば、またおまえは俺を見てくれる?
どうすれば、あの頃のように愛してくれる?
言葉にならない想いが、
夜の静けさの中で熱を帯びていく。
「どうもこうもありません。もう――中へ入りましょう」
腕の中で、セレーネが落ち着いた声でそう言った。
その声音には、拒絶でも冷たさでもない、
ただ“終わりを告げる優しさ”が滲んでいた。
「……おまえの言うことなら、なんでも聞く」
「えぇ」
「嫌だと言うことは、もうしない」
「今、してるじゃないですか」
「……」
言葉を失う。
その小さな返しが、妙に胸に響いた。
「諦めてください。――もう、寝ましょう」
穏やかな声。
まるで宥めるようなその響きが、
逆に、どうしようもないほど切なかった。
俺は腕の力をゆるめ、静かに彼女を解き放つ。
先に歩く彼女に続いて、寝床に上がる。
「毎日していたことがなくなって、落ち着かないだけですよ。
我慢して寝てください」
寝床に戻ったセレーネが、淡々とそう言った。
その声に、どこか遠いものを感じて、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
――人は、こうも変わるものなのか。
その心を変えたのは、他でもないこの俺なのに。
外にいすぎたせいか、身体の熱はすっかり引いていた。
むしろ肌寒くて、思わず身体を丸める。
「ほら、だから言ったのに。寒いんでしょう?」
背後からセレーネの声がする。
けれど、俺は寝たふりをした。
「もう……」
小さなため息が落ちたあとだった。
「……レオニス?」
「……」
「抱っこしてあげましょうか?」
その声がした瞬間、
思考よりも先に身体が動いた。
振り向くと、
両手を広げたセレーネがそこにいた。
迷う間もなく、その胸に飛び込む。
「起きてるなら、返事してください」
くすっと笑う声が、耳元で揺れる。
彼女の胸の奥から伝わる温もりが、
ゆっくりと凍えていた身体を溶かしていく。
――暖かい。
セレーネが、そっと俺の頭を撫でた。
指先が髪を梳くたびに、
優しいぬくもりがじんわりと広がっていく。
「大人しくしていればいいんです」
柔らかい声が、耳の奥に落ちた。
叱るでも、慰めるでもなく――ただ包み込むような声音。
セレーネの香りがふわりと鼻をかすめる。
心地いいはずなのに、
胸の奥がざわついて、呼吸が乱れる。
――どうしてだ。
穏やかであるはずの香りが、
理性をひとつずつ溶かしていく。
今触れたら、壊してしまう。
それがわかっているのに、
その甘い匂いが、俺を狂わせる。
でももうこれ以上嫌われたくない。
俺は我慢して、瞳を閉じた。
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