浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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12話『淡く香る距離』

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「奥様」

神妙な顔をした執事のグレイが、庭先で花をつんでいた私に声をかけてきた。



「なあに?」

「あの、大公様が」



いや、嫌な予感がする。

私は寝室を別にしてもらってから、毎日が快適でしかたなかった。

毎日がこんなにも快適なら、もうこのままでもいい気さえしてきた。

まあ、そんなわけないだろうから、油断はならない。

だってこの物語は既に結末が決まっている。


私はそれを知っているわけなのだから、多少物語が歪んでいたとしても、浮かれて遊び呆けるわけにはいかない。


でもお花が綺麗で心やすまるー!!


 寝室が変わってから、朝起きて窓の外を眺めるのが習慣になった。
 そこから見える庭園の景色に気づいたのがきっかけで、
 それ以来、毎朝ここへ足を運ぶのが日課になっている。


 庭園に咲く花々は、まだ種類が少ない。
 季節の花が点々と咲いているだけで、
 貴族の屋敷にしては、どこか物寂しさを感じさせる光景だった。

 けれど――その中にも、確かな変化がある。
 かつてはただの土色だった花壇の端に、
 今は小さな蕾がいくつも顔を出していた。

 淡い黄色のスイセン、赤いチューリップ、
 それに混じるように植えられた名も知らぬ白い花。
 それらが朝露を纏って揺れているのを見るたび、
 私は、思わず口元が緩んでしまう。

 この庭を手入れしていたのは――前のセレーネ。
 憑依する前、彼女は少しずつ花の数を増やしていたのだと、
 侍女たちの話で知った。

 それを思い出すたびに、
 なぜだか、胸の奥がやさしく温かくなる。

「明日は、どんな花が咲くのかなー」

 そう呟いて、風に揺れる花弁を見つめた。

 この小さな庭園が、日ごとに少しずつ華やかになっていくのが――
 今では、私のささやかな楽しみになっていた。

 息を吸い込むと、土と花の香りが胸の奥に広がった。
 寒さの残る風が頬を撫で、
 それがかえって心地よい。

「明日は、もう少し暖かくなるといいな」

 そう呟くと、遠くで小鳥の声がした。
 まだ春は浅く、夜にはひんやりと冷えるけれど、
 この庭が少しずつ花で満ちていくのが、今では私の小さな楽しみになっている。

 

「奥様」



「えー、今幸せな気分なのに……いいわよ、もうレオニスのことは」

そう言いながらも、執事グレイの表情がどこか歪んでいるのが気になった。
彼は滅多に顔色を変えない。そんな彼が、こうして言葉を選んでいる。

「……き、聞くだけよ?」  

とりあえず聞いてみる。

「……少し様子が」


花の香りに包まれた朝の空気が、急に重たくなる。


「少し様子が、なに?」
花かごを抱えたまま、私はグレイを見上げた。

「お顔の色が優れませんのに、今朝も執務を詰め込まれておりまして」

「……そんなの当然でしょ。大公家が傾きかけてるんだから」

淡々と答えたものの、グレイは歯切れ悪く視線を伏せる。

「それが……領地の一部が水害の被害に遭いまして」

「領地が?」

「はい。午後には現地視察に向かわれるとのことで。ですが……お身体の具合が心配で」

「だから?」

「できましたら、奥様もご同行を」

「……は?」

思わず素っ頓狂な声が出た。

「なんで私がそんな面倒を見てあげないといけないの?」


心で思ったつもりが、しっかりと口から出ていた。



「……大公様は、奥様のことを気にしておられます」

「気にしてる?」

 思わず、肩で笑ってしまう。

「ええ。寝室を分けてからというもの、お顔を合わせる機会も減りましたので……」

 私は花かごを持って立ち上がった。
 風が裾を揺らす。まだ少し冷たい。

「私たちは最初から、夫婦というより――政略上の同居人でしょう?
 グレイ、あなたも知ってるはずよ」

「……」

「あなたの方が長くレオニスに仕えてるんだから、わかるでしょ。
 あの人が――誰を愛しているのかくらい」

 グレイは言葉を飲み込むように黙り込む。
 その沈黙が、かえって痛かった。

「心配いらないわ。リディアは戻ってくる」

 自分で言いながら、胸の奥がひどく冷たくなった。
 風が、咲きかけの花びらを一枚、私の足元へと運んでくる。
 それを見つめる視線が、わずかに揺れた。

「リディア様が……? ですが――大公様、昨夜もほとんどお休みになられなかったようです」

「……それがどうしたの? 私には関係ないでしょう」


 口ではそう言いながら、私はふと腰をかがめ、
 土の上に落ちた花びらを拾い上げた。

 その白い花弁は、朝露に濡れて冷たかった。
 なのに――指先に残るその冷たさが、なぜか胸の奥まで沁みていく気がした。


「奥様……」

「行けばいいんでしょう、行けば」


 投げやりにそう言い捨てて、私は花かごを持ったまま屋敷へと身体をむけた。


 グレイがほっと胸をなでおろすのが見え、余計に腹が立つ。

「そんな顔しないでよ。私が行ったところでどうなるかわからないわよ?」

 そう言い訳のように呟きながら、足早に屋敷の奥へと向かう。
 冷たい石の廊下を進むたび、靴音が妙に響いた。

 ――どうして、私がこんなことを。

 扉の前で一度だけ深呼吸をして、ノックをする。

「失礼します」

 重たい扉が静かに開くと、執務室の中には紙とインクの香りが満ちていた。
 机に向かうレオニスが、山のように積まれた書類に目を落としている。
 その横顔は、どこか痩せたように見えた。

(……気のせい、よね)

 そう思いながらも、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
 顔を上げたレオニスが、驚いたように目を見開き――すぐに柔らかく微笑んだ。

「……セレーネ」

「……お出かけになられると聞きました」

「ああ。少し屋敷を離れることになるが、問題ない」

 淡々とした声。けれどその瞳の下には、薄く疲れの影が落ちている。
 彼の手元には、まだ捺印も済んでいない書類が積み重なっていた。

「そんなやつれた顔をして領地に向かうつもりですか?」

 思わず、口調が強くなる。

「そ、そんなにやつれては――」

「私も同行いたします」

「え?」

「倒れられても困りますから」

 できるだけ冷静に言ったつもりだった。
 けれど、自分の声が少しだけ震えていることに気づいて、私は視線をそらした。

 レオニスは、そんな私をしばらく見つめ――ふっと、息を漏らすように笑った。

「……そうか。なら心強い」

 その笑顔が、少しだけ寂しげで、
 私はなぜか目を合わせられなかった。



「それで、どんな状況なんですか」 

 書類を覗き込むようにして、私は机の向こうのレオニスに尋ねた。
 椅子にもたれたまま、彼は淡々と答える。

「北の支流が氾濫した。川沿いの村が浸水している」

「……大変そうですね」

「放ってはおけない。もともと水が豊かな土地だからな。
 あそこは谷が深くて、川がいくつも交差している。
 普段なら、泉の水面が鏡みたいに澄んでいて――まるで楽園のようだ」

 彼の声が柔らかくなる。
 私は顔を上げた。

「楽園?」

「ああ。春から初夏にかけては、谷一面に野花が咲く。
 風が吹くたび、川の上を花びらが流れていくんだ。
 水鳥が群れを成して飛ぶのも、この季節の名物だ」

「……なんだか、リゾート地みたいですね」

「領民たちは“湖上の楽土”と呼んでいる。
 帝都からもたくさんの旅人が訪れる」

「へぇ……」



 え、行きたい。



 私が好奇心で頭をいっぱいにしていると、

「花をつんでいたのか?」

 不意に声をかけられて、私は少し肩を跳ねさせた。
 
 机に向かっていたレオニスが、手を止めてこちらを見ている。
 その視線の先――私の腕の中には、摘みたての花束。

「え? あ、これですか? 庭先に花が増えてきたので、毎日部屋に飾る用につんでいるんです」

 自分でも思っていたより声が弾んでしまって、慌てて口をつぐむ。
 けれどレオニスは不思議そうにこちらを見ている。

「花が好きなのか?」

「はい!」

 思わず即答してしまった。

 だって、本当に好きなんだもん。

 前のセレーネが少しずつ花を増やしてくれていたおかげで、
 今では庭を眺めるだけでも心が落ち着く。

「そうか……」

 レオニスは短くそう言って、視線を落とす。
 書類の山を見つめながらも、どこか遠くを見ているように思えた。

 (……少し、疲れてるのかな)

 そんなことを考えてしまう自分が、なんだか不思議だ。
 

「では、準備をしてきますね」

「ああ」

 短い返事。でもその声は、どこか柔らかかった。

 部屋を出る前、私は机の上に花を一輪そっと置いた。


「お裾分けです」


 部屋に少しでも春の香りが残ればいいと思った。


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