浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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13話『ひざの上の約束』

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 屋敷の外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
 まだ春の終わり、朝は少し肌寒い。

 玄関前には黒い馬車が用意され、既に使用人たちが整列している。
 その中央に立つレオニスが、私を見るなり歩み寄ってきた。

 いつもなら無言で先に乗り込むはずの彼が、今日は――。

「足元に気をつけて」

 差し出された手。

 調子が狂う。

「ありがとうございます」

 とりあえず形だけの笑顔を作り、その手に触れた。
 指先に伝わる体温が、思っていたよりもあたたかい。

 こんなことをされるのは、たぶん初めてだ。
 いや、前の人生を含めても。

 彼の手に導かれて馬車に乗り込むと、座席の向かいに腰を下ろしたレオニスが
 黙ったまま、どこか遠くを見つめていた。

 沈黙。
 蹄の音と車輪の軋みだけが響く。

 この空気、落ち着かないなあー。

 私は窓の外に視線を向けながら、何気ない風を装って口を開いた。

「ところで……エルゼリアまでは、どのくらいかかりますか?」

 静寂を破るように問いかけると、レオニスがゆっくりとこちらを見た。
 薄い銀の睫毛が、窓から差す光にかすかに揺れる。

「二日ほどだ。途中、トルネアの関所を抜けて南下する」

「トルネア?」

 わたしの言葉に、レオニスの視線がゆっくりこちらへ向く。
 少しだけ驚いたように眉を上げ、それから淡々と口を開いた。

「エルゼリアへ行く途中にある関所の町だ。
 山の水源を抱え、交易で栄えている。
 エルバートから向かう場合、そこを抜けるのが最短ルートになる」

しまった。

私がトルネアを知らないはずはない。

ふと記憶の奥がざわめいた。

「ああ、ローレンス家の機関車事業の」

「トルネアは、その線路が最初に通る予定の地だな」


 ――ローレンス家が中心になって進めていた、機関車事業。

 貴族たちのあいだで話題になった、帝国初の「陸の道」。
 
豪華な馬車が並ぶ夜会の場で、「いずれ鉄の箱が人を運ぶ時代になる」と笑っていた紳士たちの顔を、私はぼんやりと思い出す。


 セレーネの実家――ローレンス家。

 もともとは東部の鉱山で財を成した、由緒などない新興貴族。
 けれど、彼らは誰よりも早く“時代の匂い”を嗅ぎ取った。
 金と技術と人脈を武器に、鉄道の建設事業を帝国に持ち込み、
 今ではどの古い貴族よりも確かな影響力を持つ。

 ……成り上がり者の家。

 だからこそ――この傾いた大公家に嫁ぐことができた。

 名門の名ばかりを誇りに、沈みゆく船のように静かに崩れていくエルバーン家。

領地は北の寒冷地にあり、古くから軍を抱えていたものの、
戦がなくなった今ではその軍費だけが重荷になっている。
領民の数は減り、鉱山も閉鎖され、
いまや屋敷の灯りでさえ、節約のために半分が落とされているという。


さらに――レオニスがフェルン家の娘リディアと結婚したことで、
没落貴族フェルン家の負債まで背負うことになった。

名門同士の縁組のはずが、実際は沈みゆく者同士の結びつき。
その積み重なりが、いまの家をさらに押し沈めている。

 帝国そのものも、今や傾きかけている。
 中央では派閥争いが絶えず、財政は慢性的な赤字。
 その隙を縫うように、南のレファード家や東のローレンス家が勢力を伸ばし始めた。

 大公家――エルバーン家は、そんな帝国の“残された威信”だった。
 建国の時代から皇族の血を引き、北方防衛を担う家。
 皇帝の血筋に最も近いとされ、帝都では“北の殿下”と呼ばれている。

 けれどその誇りは、もう遠い昔の話。
 戦もなく、栄光も失われた今、残るのは名ばかりの格式と、
 誰にも見せられないほどの借財だけだった。


そして追い打ちをかけるように、水害。
レオニスからすれば──まったく、頭の痛い話だろう。
 


ま、私には関係ないけどね。



「二日は結構かかりますね」

馬車の揺れに身を任せながら、私はそっと息を吐いた。

「……トルネアで一泊してから、現地へ向かう」

「トルネア、かあ……」

思わず小さくつぶやく。

トルネアは、北部と中央を結ぶ街道の要衝にある中継地だ。
商人の往来が多く、宿場や倉庫、交易所が軒を連ねている。

貴族たちは滅多に足を運ばないが、金と情報の流れだけは早い――
“帝国の喉”なんて、誰が言い出したのか。

「商人たちの街、ね」

そう呟きながら、私は小さく息をついた。

かつて、社交界の宴で“新しい時代を動かすのは商人たちだ”と笑っていた紳士たちの顔が、ふと頭をよぎる。

なんか楽しいことでもあるのかな、トルネアって。
どうせ宿屋で一晩過ごすだけだし。

心の中でそうぼやいていると、向かいに座るレオニスが、
まるで私の思考を読んだみたいに口を開いた。

「トルネアは、夜が美しい」

「……夜?」

「霧が晴れると、谷を囲む街灯の光が川面に映ってな。
まるで金糸を散らしたように輝く。この北では珍しい光景だ」

私は少し意外だった。
レオニスが“美しい”なんて言葉を口にするのを、
聞いたのはこれが初めてかもしれない。

「……そんなに綺麗なんですか?」

「昔は、よく見に行った」

そう言って、彼はふと窓の外に視線をやった。
どこか懐かしそうな、少しだけ柔らかい表情で。

その横顔を見ているうちに、
胸の奥がほんの少しだけ、ざわついた。

ああ、リディアと?
嫁の前で好きな女の思い出にほくそ笑むなよ。

喉の奥まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
代わりに、窓の外を見ながらできるだけ無関心を装った。


「……へぇ、そうなんですね」


我ながら声が少し上ずっていた気がする。

でも、レオニスは気づいていないのか、あるいは気づいていて知らぬふりをしているのか、穏やかな声で続けた。


「軍にいた頃、トルネアの駐屯地に短く滞在したことがある。
夜になると、部下たちが街に出て飲みに行く。
私は外を歩くのが好きでな……
あの霧の街を抜けて、橋の上から灯りを眺めるのが癖だった」

……軍時代の思い出?
つまり、女でもリディアでもなく――戦地で過ごした若い日の記憶?

少し拍子抜けして、思わず口から漏れた。

「……え? リディアとじゃないの?」

レオニスは一瞬だけこちらを見て、ほんの僅かに眉を上げたように見えた。


「そういえば、リディアとは行った事がないな」


へー。


「……気になるか?」

「は? だっ、だれがリディアなんかっ!」

思わず声が上ずった。
自分でも何を言ってるのかわからない。
顔が熱くて、窓の外を見るふりをして誤魔化した。

「リディア? そうではない」

「……え?」

「夜のトルネアに、だ」

一拍おいて、穏やかな声が続く。

「おまえが見たいなら、案内しよう」

言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
胸の奥が妙にうるさくて、返す言葉が出てこない。


⸻でも、見てみたいかも。


この世界に――自分が、どれほどいられるのかもわからないのに。
どうせなら、少しでも“この人生”を味わっておきたい。

(なんせ、気づいたらこの世界だったわけだし……突然元の世界に戻される可能性も否めない)

自嘲気味にそう思いながら、唇を噛んだ。
けれど、気づけば口が勝手に動いていた。

「み、見たいです」

私がそう言うと、レオニスは一瞬だけ目を見開き、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「……楽しみだな」


その声音があまりに自然で、胸の奥が、ふいに温かくなるのを感じた。



た、楽しみ…で、すっ(くやしい)





会話が途切れ、馬車の中が静まり返る。

道が悪く、がたがたと車輪が揺れるたび、
窓に寄りかかったレオニスの頭がごん、ごん、とぶつかっている。

寝てないって言ってたもんね。

疲れた顔、それを見ているうちに、なんだか可哀想になってきた。
……ほんの少しだけ、胸がちくりと痛む。

その時、大きく揺れ「がんっ!」と、思い切り窓枠に頭をぶつけて、レオニスが目を覚ました。

「……っ、痛っ」

思わず笑ってしまう。

「ふふっ……大丈夫ですか?」

レオニスは一瞬きょとんとしたあと、恥ずかしそうに眉をひそめ、視線をそらした。

その仕草が、どうしようもなくおかしくて、つい口が勝手に動いていた。

「膝枕、しましょうか?」

一拍の沈黙。

何も言わずにレオニスがこちらへすっ飛んできて、横に並ぶ。

そして静かに私の膝に頭を預けた。

膝に伝わる重みと体温に、心臓が妙に落ち着かない。


「……もっと早く言ってくださればいいのに」


私がそう呟くと、
閉じたままの瞳の奥から、静かな声が返ってきた。


「おまえが嫌がることはしない」


あ――そうだった。
私が触られるのが嫌だって言ったんでした。


律儀に言われたことを守るレオニスに少しだけ、胸が熱くなる。

「膝枕は特別に許可します」

そう言うと、レオニスの唇がかすかに緩んだ。



「いいのか?」

ほんの、微笑みのように。



「いいですよ、だからきちんと寝てください」


私がそう言うと、レオニスは静かに目を閉じた。

長いまつげが頬に影を落とす。
その横顔を見ていると、なんだか妙に胸が落ち着かなくて、
目を逸らそうとして――


「……嬉しくて、寝られないかもしれない」

小さな声が、膝の上から響いた。

「え?」

「久しぶりに、顔を見たから」

レオニスの声は、まぶたを閉じたまま、どこか夢の中のように穏やかだった。

「そうですっけ」

軽く返すと、彼はわずかに目を細めて、膝の上で小さく息を吐く。


「たまには顔を見せに来てくれていい。……今日みたいに」


ああー。

あの城、無駄に広いからレオニスに用事がないと全く会わないからなー。

ここ最近、食事も別だったな、そういえば。忙しいんだと思って気にもしてなかった。

そう思いながらも、何も言えなくて、ただ視線を逸らす。

「花をありがとう」

「え、お花?……あんなものでよければ、毎日お裾分けしましょうか?」

少し照れ隠しのように言うと、
レオニスが目を開けて、穏やかな笑みを浮かべた。

「欲しい」

たった一言なのに、

その声が妙に優しくて、
胸の奥があたたかくなる。


「では毎朝お届けしますね」
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