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23話『揺れる馬車と、過ちの軌道』
しおりを挟む車輪が小さくきしむ音と、馬の蹄が土を叩くリズムだけが、規則正しく馬車の内部に響いていた。
窓の外には、見慣れた峠の景色が流れていく。
緩やかな斜面を縫うように続く道、陽を受けてまばゆく揺れる草原、遠くに霞む山脈の稜線——どれも昨日とさほど変わらないはずなのに、胸の奥は落ち着かない。
私はその景色に視線を固定したまま、瞬きさえ慎重になるほど動けなかった。
真正面には、レオニスがいる。
向かい合うように座っているのに、怖くて顔を上げられない。
昨夜の熱の残像が、まぶたの裏に焼きついている。
どんな顔をして彼を見ればいいのか分からなかった。
馬車が段差を越えて揺れるたび、微かに身体がふわりと浮き、そのたびに心臓が跳ねる。
沈黙。
風がカーテンを揺らし、淡い光が車内をゆらめかせる。
カタン……カタン……と、車輪の音だけが時間を区切るように響いた。
(あ……)
窓の外を流れていく景色の、その端に。
ほぼ完成した鉄道の線路が、陽光を受けて細く銀色に輝いているのが見えた。
(……鉄道……)
地面を這うようにまっすぐ延びるその道を眺めながら、ふと胸の奥で、現実と夢想の境界が揺らぐ。
あれが本当に汽車として走り出せば――馬車という“アナログ”な移動手段は、きっと少しずつ姿を消していくのだろう。
文明がひとつ先へ進む、その気配が風に混ざっていた。
(馬車の長旅って、やっぱり慣れないなあ……)
座席は柔らかいはずなのに、背にかかる振動はどこか一定せず、長く座っていると腰がじんと痺れてくる。
パーティへ向かうときに使う馬車は、この世界ではさながら“貴族用の豪奢な送迎車”といった扱いだ。
あれくらいの距離なら優雅で済むけれど――旅路の馬車となると話は別だ。
どうしても揺れが骨にまで響き、身体がじわじわと疲れてくる。
窓枠の振動に頬を預けながら、私は線路の上を横切っていく風景を、ただぼんやりと追い続けた。
あれは、ローレンス家が帝国中を巻き込みながら敷いた鉄の道。
軍の物流を支え、商人の往来を変え、帝国の地図そのものを書き換えつつある大事業だ。
父の側で何度も聞かされた。「鉄道は力だ。道を制した者が、時代を制する」と。
窓の外の線路を見つめていると、セレーネの中の記憶が蘇ってきた。
――父が、ローレンス家が、なぜエルバーン家に固執したのか。
この物語は外から見ればただの泥沼恋愛小説で、大公夫婦のすれ違いを利用した官能劇だ。
きっと大半の人は、その部分だけを読んで終わる。
けれど実のところ、その世界設計はもっと緻密だった。
帝国の衰退。
皇族の弱体化。
格式ばかりを重んじる古い権力者たちと、どれだけ働いても暮らしの上がらない民たち。
まさに市民革命が起きるか起きないかの瀬戸際の時代。
そんな時代の中で――ローレンス家はどれだけ富を積み上げても、“階級”だけは手に入れられなかった。
誰よりも金はある。
誰よりも技術もある。
帝国を動かす力を握っているのに、ただの侯爵家にすぎない。
だからこそ、父は皇族の血筋を持つ家を必要とした。
そこで白羽の矢が立ったのがエルバーン家。
格式は高く、由緒正しく、帝国でもっとも“血の価値”が尊ばれている家。
鉄道計画の北部ルートにわざわざ固執したのも、本来は採算度外視と言っていいほどの遠回りだったのも、すべては――政略のため。
北部の交易が活性化すれば、エルバーン家は必ず恩義を負う。
恩義はやがて婚姻へ、婚姻は血脈へ。
父の頭の中にはきっと、そんな絵図が初めからあった。
けれど計画に拍車がかかったのは、もっと私的で、もっと浅ましい理由だ。
――娘が、大公に恋をしたから。
父はそれを見逃さなかった。
むしろ利用した。
「皇族の血を引く孫をローレンス家が得られれば、我が家は帝国の後ろ盾に成り、実質的にはこの国の頂点へ上り詰めるだろう」
父にとってセレーネは、政略の歯車。
鉄道も、婚姻も、未来も、“家”のための部品でしかなかった。
――そんなことを、思い返し苦笑する。
馬車の揺れとともに流れていく線路を見ながら、
私はひっそりと胸の奥の痛みに触れた。
セレーネは、ずっと孤独だった。
父と母は富に浮かれ、口を開けば投資と領地拡大の話ばかり。
豪奢な暮らしが当たり前になりすぎて、家族の温度を感じたことがほとんどなかった。
屋敷は広く、欲しいものはすべて揃っていたけれど――そのどれもが、心を満たすものではなかった。
そしてどこへ行っても彼女に陰口は付き纏った。
「成金のローレンス家」
「金だけで地位を買った家系」
笑われ、さげすまれ、微笑の下に侮蔑を隠し持った貴族たち。
どれだけ飾っても、どれだけ繕っても、“生まれ”は覆らないのだと、幼い心はすでに知ってしまっていた。
だからこそ、眩しかったのだ。
――レオニスが。
落ちぶれてゆく名門エルバーン家を、たった一人で支えるようにして立っていた若き大公。
その背筋は誰よりも凛としていた。
初めて目にしたその姿に、セレーネは息が止まるほどの衝撃を受けた。
富ではなく、名声でもなく、本来あるべき矜持だけで立つ人間がここにいる。
(この人のようになりたい)
その瞬間に芽生えた憧れは、やがて恋へと形を変えたが、最初の一歩はもっと静かで、もっと純粋な衝動だった。
彼のように、嘲笑われても揺らがず、失っても誇りを捨てない人間になりたい――そう願ったのだ。
そんな彼に「愛している」と告げられた瞬間、彼女はどれほど歓喜に震えただろう。
長年の孤独も、蔑まれ続けた日々も、ただの憧れだと自分に言い聞かせてきた思いも、すべてが報われたような気がした。
だが――そのやり方は賢くはなかった。
エルバーン家もフェルン家も、当時すでに傾いていた。
その事実に甘えて、リディアを陥れ、ふたりの仲を引き裂くなど、本来あってはならないことだ。
けれどセレーネは、愛されたいという願いだけを握りしめて周りが見えなくなっていた。
レオニスの隣に立つためなら、どんな手段も正当化してしまうほどに。
その結果、彼が守ろうとしていたものまで――彼女自身の手で壊してしまったのだ。
それは、恋ではなく、ただの渇きだったのかもしれない。
奪うことしか知らず、満たされることでしか自分の価値を測れなくて、歪んだ形でしか差し出せなかっただけで。
本当はただ、誰かを真っ直ぐに想い、誰かに真っ直ぐに触れられる生き方を——どこかでずっと、夢見ていた。
その代償に、破滅が待っているとも知らずに。
この物語は、レオニスの赦(ゆる)しによって円環が閉じる物語だ。
彼が差し出す赦しが、すべての結末を丸く収める。
リディアの過ちも。
セレーネの誤った恋も。
ローレンス家の野望も。
そしてカインが胸中で育てた市民革命の火種すらも。
だが同時に——“赦されるもの”と“断罪されるべきもの”は、明確に線引きされている。
黒幕は必ず裁かれる。
皇族を揺るがし、帝国を混乱に落とした者たちは、どれだけ力を持とうと、どれほど周到に隠れようと、最後には必ず正史の中で断罪されるのだ。
なぜなら、この物語の核は復讐でも恋慕でも陰謀劇でもなく——「皇族の血統がいかに守られるか」という一点にある。
ゆえに、歴史の敵となる者は裁かれ、皇族の血を脅かす存在はすべて排除される。
ローレンス家の悪巧みも、
カインの歪んだ革命思想も、
そしてセレーネの横恋慕も——
最終的には裁きの光のもとにさらされ、必要なものだけが赦され、守られるべきものだけが残る。
帝国の歴史は、必ず皇族の血へと収束する。
その中心に立ち、最後の秩序を形作るのが——レオニスという男なのだ。
そして私(セレーネ)は黒幕中の黒幕。ラスボスと言っても過言ではない。
そんな事を考えながら。
私は窓を眺めていた視線をずらさないように、レオニスを視界に入れる。
……なんでずっとこっちみてんの。
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