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24話『避けられぬ問い』
しおりを挟む耐えきれず、私は小さく咳払いをして、できるだけ「何も気づいていません」みたいな顔を作った。
「……あ、あの。なにか、私の顔についていますか?」
声が震えたのが、自分でも分かる。
けれど、これ以上あの沈黙には耐えられなかった。
レオニスは一瞬だけ瞬きをして、こちらの言葉の意味をゆっくり噛みしめるように視線を細める。
そして——
「……いや。何もついていない」
それだけを静かに告げた。
(じゃあなんで見てるのよおおお!!怖いからやめて!!!)
レオニスは相変わらず落ち着いた表情で、逃がす気がないみたいに視線を外そうとしない。
そして、また沈黙。
馬車の揺れだけが、二人のあいだをすべっていく。
(……なに?なんなのよこの空気……)
レオニスから刺さるような熱だけがひしひしと伝わってくる。
(何がしたいの?)
黙っているくせに、存在感だけはやたら強い。
ああ、もう、ほんとに——
「……あの。言っておきますけど」
意を決して口を開いた。
「元気そうだし、艶々の顔してますよね?だから、膝枕はもうしませんからね!?」
レオニスは視線を落として小さく息をついた。
「……そうか」
そして——また沈黙。
気まずいのに、どこか落ち着かない、不思議な空気が馬車いっぱいに広がる。
そんな時だった。
「……寒いのか?」
不意に、レオニスが低い声で尋ねてきた。
「いえ?」
条件反射みたいに答えてしまった。
(……あんたが身体に印をいっぱいつけるからでしょうが……!!)
喉まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。
こういう唐突な優しさを向けてくるのは反則だ。
レオニスはまだじっと私を見ている。
その目は、まるで「理由を言え」と言っているよう。
(……言うわけないでしょ!!)
頬がどんどん熱くなっていくのに、彼は気づいているのかいないのか、ほんのわずかに首を傾けて私を見つめ続けていた。
しばらく私の顔を眺めていたレオニスは、ふいに視線を落とし、静かに口を開いた。
「……隣に行ってもいいか?」
「なんで?」
反射的に聞き返してしまった。
でも、理由もなく急に距離を詰められて、警戒するなという方が無理だ。
即答した私を見て、彼は微かに眉を寄せた。
まるで「また拒絶された」とでも言いたげな表情で——
やめて、その顔は罪悪感がすごい。
レオニスはさらに小さく息を吐き、俯いた声でぽつりと付け加えた。
「……離れていると、落ち着かない」
「…………は?」
思考が一瞬止まる。
目の前の大公様は、まるで自覚のないまま爆弾を投げている。
その言葉が胸の奥で変なふうに跳ねる。
「……あ、あの。私は大丈夫なので」
言葉を絞り出すように答えると、私は窓際いっぱいに身体を寄せた。
に、逃げ場がなさすぎる!!
レオニスはわずかに瞬きをし、しばし迷うように視線を揺らしたあと——静かに口を開いた。
「……何か、気に障るようなことをしてしまっただろうか?」
低く、ひどく丁寧で、まるでガラス細工を扱うみたいな声音。
「い、いえ?別に……」
ごまかそうとした声が裏返りそうになって、さらに顔が熱くなる。
レオニスはまだじっとこちらを見ている。
責めるでもなく、疑うでもなく、ただ不安げに——
(だからその目やめて……こっちが悪いみたいになるじゃない……!!)
馬車の揺れと沈黙だけが、二人の間に落ちた。
レオニスは一拍、言葉を選ぶように黙り込む。
そして——逃げ道のない声音で問いかけてきた。
「……では、なぜそんなに離れる?」
(……ッッッ!!)
頭の中で何かが爆ぜた。
やめてほしい。
「ち、違います……! その、これは……ただ……」
うまく言葉が繋がらず、喉の奥がひゅっと縮む。
窓際まで逃げたつもりが、もう後ろには壁しかない。
レオニスは少し困ったように眉を寄せた。
責める気配はどこにもない。
ただ、本気で不安そうに、まっすぐこちらを見ている。
「朝から……ずっと目を合わせてくれない」
あまりにも誠実な言い方に、胸の奥がひどく痛む。
(だ、だからその言い方やめてってば……悪いのこっちな気分になるじゃない……!)
逃げたくても逃げられない閉ざされた空間で、心臓の音ばかりが大きくなっていく——。
「そ、そんなことありませんよ?」
震えないよう必死で声を整えながら答え、意を決してレオニスの方へ視線を向けた。
その瞬間だった。
——じっと、熱い視線に捕まる。
逃げようとしていた“理由”が、一息で思い出される。
昨夜、あれほど私を乱した男の目。
穏やかそうに見えるのに、その底では「触れたい」という衝動がまだ静かに燻っているような色を帯びていた。
息が詰まる。
馬車の揺れが、余計に心臓の鼓動を強調してくる。
レオニスは動かない。
ただ、私の反応を一つも逃すまいとするように、深海のような瞳をまっすぐ向けていた。
「……セレーネ」
低く名前を呼ばれただけで、背筋が震える。
(やめて……名前呼ぶの反則……)
それでも、もう視線は逸らせなかった。
途端に、昨夜レオニスが言った「愛してる」の言葉が鮮やかによみがえる。
耳元で落とされた、あの低くて深い声。
触れられるたび、熱が溶けていくような抱きしめ方。
まるで一瞬たりとも私を離したくないとでもいうような、
あの必死な腕の力。
——「愛してる」。
あの一言が胸の奥に触れた瞬間、何かがほどけて、そのまま流されて、抗えずに沈んでいった。
そして今。
向かい合った馬車の中で、その言葉の残響が、すぐ近くに戻ってくる。
身体の芯がじわりと熱を帯び、視線を外せなくなる。
(……やめて……思い出したら余計に……)
レオニスは黙ったまま真っ直ぐに見つめてくる。
その目の奥に、昨夜と同じ色が微かに残っている気がして——
心臓がまた跳ねた。
どうしても確かめたい疑問が、喉の奥につかえて離れない。
(……いや、でも……もしかしたら……何かの間違いかもしれない……)
覚悟を決めて、そっと口を開いた。
「……あの、まさかですが。私のことを好きなわけでは……ありませんよね?」
沈黙。
馬車の軋む音だけが、小さく響く。
レオニスはゆっくりと瞬きをし——次の瞬間、迷いなく口を開いた。
「愛している」
「………………」
(やっぱり間違えてなかったああああ!!!)
心の中で盛大に悲鳴を上げる。
背筋に、汗がつうっと伝う。
嘘でも冗談でもなく、真面目な顔をしている。
視線もそらさない。
むしろ、さっきより熱を帯びている。
膝の上の手が震え、視界だけが妙に鮮明になる。
——逃げてはいけない。
ここで曖昧にすれば、きっともう戻れなくなる。
「わ、私は……そのお気持ちには、応えられません」
必死に絞り出した声は、震えていた。
レオニスの蒼い瞳が揺れ、静かに、深く私を見つめる。
「……お前は愛してもいない男に抱かれるのか」
その問いかけが、鋭く心臓に刺さる。
責めるようでいて、ただ真実を知りたがっている声。
だからこそ、胸が痛んだ。
私は喉の奥から、無理やり言葉を押し出した。
「——閣下こそ、愛していない私と夜伽をなさっていたではないですか」
レオニスの動きが止まる。
瞬間、車内の空気が冷たく張りつめた。
怒鳴りもしないし、否定もしない。
ただ、胸の奥を静かに刺された人のように、微かに息を飲んだ。
(なによ、図星じゃない。やっぱり)
「最低。快楽に負けただけでしょう? それなら他をお探しになってください」
自分でも分かるほど棘のある言葉だった。
しばしの沈黙ののち、レオニスが静かに口を開く。
「……それで、寝室を分けたいのか?」
声音は穏やかだが、言葉の端にかすかな痛みが滲んでいた。
「そうです。ずっとそう言っているじゃないですか」
視線を逸らさずに告げると、彼は一瞬だけ目を細める。
「——嫌いではない、と」
「え?」
「嫌いではないと言っただろう?」
言ったっけ?(言った)
言葉に詰まる私をじっと見つめながら、レオニスはさらに追い打ちをかけてくる。
「何が問題なのだ」
「ち、違います。嫌ってはいませんけど……」
心臓が痛いほど鳴る。耳まで熱い。
逃げ道が、ない。
「……愛しているとは、言っていません」
やっと絞り出したその一言に、レオニスの長い睫毛がわずかに揺れた。
沈黙。
馬車の車輪の音が、妙に大きく響く。
レオニスは、胸の奥の小さな痛みを押し殺すようにゆっくりと息を吐き——
「……どうすれば、愛してくれる?」
静かに、けれど揺るぎなくそう言った。
胸が痛い。
言った自分の言葉が、そのまま自分の心臓に突き刺さっているみたいだった。
それでも——言わなければならない。
「……そうなることは、ありません」
空気が、ぴたりと止まる。
言葉を発した直後、胸の奥がきゅっと縮んだ。
自分で自分を締め上げるような、苦しい痛み。
レオニスは動かない。
ただ静かに目を伏せ、まるで深い水底で響くような低さで、ぽつりとつぶやいた。
「……そうか」
その声音には怒りも失望もなかった。
けれど——触れたら砕けてしまいそうな、薄氷のような静けさがあった。
息が、うまく吸えない。
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