浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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25話『青に沈む前で』

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 しばらくのあいだ、馬車の中には “薄氷のような静けさ”だけが降りていた。

 レオニスは、ただ俯いたまま動かない。
 怒りでも、失望でもなく——触れたら壊れてしまいそうな沈黙。

 胸が、ぎゅうっと痛い。

 (……そんな顔、しないでよ……)

 言葉にすれば、きっとまた彼を傷つける。
 けれど黙っていれば、私の心臓が先にだめになる。

 息苦しさを振り払うように、私はずっと視線を窓の外へ向けていた。

 いつの間にか——世界が、ゆっくりと色を変えていた。

 西の空に沈みかけた太陽が、最後の光を名残惜しむように地平線を照らしている。
 淡い金色は、湖面に細く長い光の道を残しながら、まるで溶けるようにゆっくりと沈んでいった。

 空は茜から群青へ、そして紫紺へと滑らかに移ろっていく。

 深い青が広がりはじめると、それはまるでレオニスの瞳の色が世界そのものを染め上げていくようだった。

 ひんやりした夜気が、馬車の隙間から忍び込み、
 昼の熱を静かに攫っていく。

 夕が落ちる瞬間、景色全体がひと息ついたように静まり返り——音もなく、夜が訪れた。

 風景もいつの間にか変わっていた。

 深い針葉樹林が、緩やかに連なりはじめる。
 空気がひんやりとして、湿り気を帯びてくる。
 遠くには大きな湖の光がちらりと揺れて見えた。

 「……エルゼリア領に、入ったのか」

 つぶやくと、レオニスがわずかに顔を上げる。

 沈黙のままでも、領地に近づくにつれ
 馬車の空気がほんの少しだけ変わった。

 土のにおいも、風の冷たさも、ここが湖地帯であることを告げている。

 湖へ向かう街道沿いには、避難のためか、ところどころ屋敷の明かりが消えていて、水害の爪痕が静かに広がっていた。

 とはいえ、想像していたほど壊滅的ではない。

 (……たしかに、深刻ではないかもしれない)

 崩れた護岸。
 道に溜まった泥。
 ところどころ浸水の痕跡。

 けれど、復旧できる。

 「……とても静かな場所だろう」

 不意にレオニスが口を開いた。

 まだ少し沈んだ声だったが、それでも、先ほどより柔らかかった。

 湖の方へ向ける彼の視線には、幼い頃の記憶を映すような懐かしさがあった。

 「父も母も、ここの空気を気に入っていてな。夏はほとんど、この湖畔で過ごしていた」

 馬車がゆるやかな坂を下りはじめたとき、視界の端で、ふいに光がほどけた。

 周囲の山影が夜に溶け、空と湖の境界が失われていく中、
 湖だけが、ぽう、と淡い光を宿し始めた。

 月でも、星でもない。
 水そのものが、静かに呼吸するように光っている。

 深い闇の底から湧き上がるような、冷たく澄んだ“白光(びゃくこう)”。

 青ではなく、銀ではなく——夜の色と混ざりあって生まれた、言葉にならない光だった。

 湖面は鏡のように凪いでいるのに、わずかに風が触れるたび、光が砂のように揺らめき、水の上をゆっくりと漂って消えていく。

 まるで——
 
 湖が夜の魔法を吸い込み、そのまま淡い夢を吐き出しているようだった。

 見つめていると、現実感が失われていく。

 水面と空が混ざりあい、どこまでが湖で、どこからが夜なのか分からなくなる。

 ——世界そのものが、ひっくり返ったように見えた。

 空の色でも、海の色でもない。

 “青”という概念そのものが、ひとつの湖に落とし込まれたような景色。

 それが、エルゼリア湖だった。

 山の影すら飲み込みながら、どこまでも透きとおる青。

 深さの分だけ暗さを増すはずなのに、なぜか底へ沈むほど光を帯びている。

 風がひと撫でされるたび、湖面はゆるく揺れ、そのたびに 青が生まれ変わっていく。

 淡い瑠璃。
 濃く深い藍。
 透明な碧。

 青のすべてが連なり、溶け合い、ひとつの巨大な宝石として息づいていた。

 息を呑むしかなかった。

 まるでこの湖の色は——水ではなく、“光でできている”ようだった。

 どれだけ深くても濁らず、どれだけ遠くても澱まず、手を入れればそのまま空へ還ってしまうような、そんな透明さ。

 その青を見た瞬間、私は気づいた。

 (……レオニスの瞳の色だ)

 ただの色の一致ではない。

 深くて、冷たくて、触れたら切れそうなのに、
 どこか温かい光を内側に宿している青。

 覗き込めば、その奥に吸い込まれてしまいそうで——怖いのに、目を逸らせない。

 湖に漂う静けさは、彼の孤独にも似ていた。

 誰も近づけないほど凛として、誰よりも純粋な光を宿していて、そしてどこまでも深い。

 この湖の青は、彼が背負ってきた孤独そのものが自然に溶けて広がったような色だった。

 (……綺麗。綺麗すぎる)

 胸がゆっくり、痛くなる。

 見惚れるほど美しいのに、触れたら壊してしまいそうで。

 湖面に風が走り、その青がふっと揺れる。

 それはまるで——レオニスが、ほんの少し微笑んだときの瞳の揺らぎと同じだった。

 湖の青に見惚れていたその瞬間だった。

 ——ガタンッ。

 馬車が大きく跳ね、身体がふわりと浮いた。

 「きゃ——」

 座席から滑り落ちそうになった瞬間、強い腕が私の腰をさらうようにして支えた。

 レオニスだった。

 ぐい、と引き寄せられ、胸元へ倒れ込むように抱き寄せられる。思わぬ近さに息が詰まった。

 その弾みで、肩に掛けていたストールがふわりと落ちる。

 白い肌が、一気にあらわになった。

 レオニスの目がそこで止まる。

 息をのむ音が聞こえた気がした。

 「す、すみません……! ありがとうございます……!」

 咄嗟に礼を言うと、レオニスは首を振った。

 「……そうではない」

 その声は低く、かすかに震えていた。

 「え……?」

 彼の視線が、露になった肌の一点に吸い寄せられる。

 ——昨夜、彼が残した、深紅の痕。

 指先がそっとそこに触れた。

 逃げようとした瞬間、レオニスは私の肩を押さえ、落ちるようにその痕へ口づけた。

 「レ、レオニス……っ?」

 熱い唇が、ゆっくりと吸い、じん、と痕が再び疼き出す。

 馬車の狭い空間が、一気に息苦しくなる。

 レオニスはなおも唇を離さず、低く荒い呼吸のまま囁いた。

 「……すまない」

 「な、何を謝って……」

 問い終える前に、彼の額が私の鎖骨に落ちた。

 深く息を吸い込む音。

 それは、まるで理性の限界を押しとどめるような——切羽詰まった呼吸だった。

 「……お前の香りを嗅ぐと……」

 喉の奥で熱を噛み殺すように、言葉が続く。

 「……狂いそうになる」

 その告白は、 “愛している”と同じくらい危険で、“欲している”と同じくらい真っ直ぐだった。

 抱き寄せられる腕の力が、ほんのわずか、震えていた。
 
 肩に落ちたレオニスの額が、ゆっくりと上がる。

 その瞳は、湖よりも深い色をしていた。
 熱と苦しさと、どうしようもない欲が混ざった色。

 そして—— 抱き寄せる腕に、ほんの少しだけ力がこもる。

 「……嫌でないなら、このままで」

 「レ、レオニスっ!? ちょ、ちょっと……!」

 心臓が跳ねた。
 いや、跳ねたなんてものじゃない。
 全力疾走したみたいに胸が苦しい。

 逃げようとしても、逃げ道がない。
 馬車の中、至近距離、腕の中。

 レオニスは視線を逸らさない。
 眉はかすかに寄り、息は熱く乱れたまま。

 「お前が……離れようとするたびに」

 低い声が喉を震わせる。

 「胸が締め付けられる」

 その言葉が、肌に触れる彼の指先よりも熱かった。

 私の喉がひくりと動く。



 「愛さなくてもいい」



 その一言が、まるで祈るように落とされた。



 「……ただ、離したくない」



 抱き寄せる腕が、今度ははっきりと震えた。

 強く抱きしめたいのに、壊すのが怖くて躊躇っている——
 そんな矛盾した震え。

 息が触れそうなほど近い。

 レオニスの声はかすれて、本気で苦しんでいる人間のそれだった。

 「少しだけでいい……このままでいさせてくれ」

  抱き寄せられたまま、レオニスの胸の鼓動がびりびりと腕越しに伝わる。

 逃げ場がない。
 でも拒絶の言葉も出てこない。

 なにより——彼の手が震えていることに気づいてしまった。

 (……こんな顔、されたら……)


 喉が乾き、声がうまく出ない。

 それでも、どうにか言葉を搾り出した。


 「……す、少し……だけなら」


 言った瞬間。

 レオニスの瞳が、大きく揺れた。

 驚きでも喜びでもない。
 もっと深い——理性が決壊する寸前の色。

 「……セレーネ」

 名前を囁いたその声が熱い。

 次の瞬間。

 彼の唇が迷いなく降ってきた。

 触れた、ただそれだけのはずなのに、世界が一気に反転するような衝撃。

 「……っ……!」

 息が吸えない。
 考える暇もなかった。

 優しい口付けじゃない。
 必死で、追いかけるようで、触れた瞬間にずっと欲していたものを奪い返すみたいな——

 完全に“堪えていたものが溢れた”キスだった。

 彼の片腕が腰を抱き寄せ、逃げられないように背中を確かめる。

 それでも唇は甘く、深く、だけど不安げに触れては離れ、また求めてくる。

 「……少しじゃ、足りない」

 唇を離したあと、熱を落とすように私の額に彼の額が重なる。


 うっ、嘘つきーーー!!

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