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28話『忠臣、月下にて沈黙す』
しおりを挟む馬車の前で、グレイは困り果てていた。
——声をかけるタイミングが、ない。
到着の報告をするために馬車の横に立ったものの、中から聞こえる“会話にならない息づかい”と“やたら低い殿下の声”が止まらない。
(……これは、声は……かけられん……)
グレイは眉間を押さえた。
こういうときの経験は、それなりにある。
だが、最近の殿下は明らかに様子がおかしい。
馬車の中から、低く掠れた声が聞こえる。
「……セレーネ……」
「……逃げるな……」
「……可愛い……もう少し……」
(…………。)
そして、たまに聞こえる奥様のくぐもった声。
「……レ、オニス……っ」
「……だめ……やめ……っ」
「……いやじゃ……ない……」
グレイは空へ視線を逸らし、湖の風を受けながら真顔になった。
(どのタイミングで声を……!?)
馬車は完全に停止している。
報告しなければならないのに、中は甘熱空間。
そして——
中から、低い声がはっきり聞こえた。
「……セレーネ……
このまま……逃がさない……」
(無 理 だ)
声をかけられるわけがない。
忠臣は、そっと馬車の影に下がり、月を見上げた。
(いつ終わるのだろう)
「とはいえ、微笑ましいこと、か」
呆れた笑いを浮かべながら、どこか嬉しい気持ちで心が満たされる。
昔のご様子を思えば、信じられぬほどだ。
……殿下は、特別なお方だ。
帝都の者たちは知らぬふりをするが、エルバーン家は“建国王朝の血”を引く、帝国でも数少ない直系の名家だ。
本家から分かたれたとはいえ、その血筋の重みは今も変わらない。
本来なら帝城で暮らし、皇族たちと肩を並べるはずの家柄である。
だが北部統治の任を与えられた初代以来、エルバーン家は何代にもわたり帝都の政治から距離を置き、
名目上は皇族、実態は“北の君主” として生きてきた。
殿下はその家の長子。
本来なら誇り高く、何にも怯む必要などない——そう思われていたはずだ。
……だが、実際は違った。
皇族としての血筋ゆえの重圧、北部を支える責務、そして歴代の中でも比類なき寒冷と貧困の時代。
背負うものは、並ではなかった。
それでも殿下は弱音を吐かれなかった。
吐く相手すら、いなかった。
本家からの援助はほとんどなく、帝都の貴族たちは北部を“僻地”と見下し、殿下の家柄よりも、政治派閥の思惑を優先していた。
——ゆえに、殿下はいつも孤独だった。
皇族の血筋でありながら、皇族らしく扱われることもなく。
北の臣民からは絶大な信頼を得ているのに、帝都からは冷たい視線を向けられる。
その板挟みの中で、あの方はずっと、一人で立ってこられたのだ。
帝国の北部を束ねる大公家の長子。
誇りも責務も、背負ったものは大きいはずなのに。
——あの方はいつも孤独だった。
殿下がまだ幼かった頃、大公夫妻は格式に縛られ、現実を見ようとしなかった。
領民は疲弊し、税は重く、屋敷には虚飾ばかりが積み上がり……。
若い殿下は、それを一人で支えてこられた。
他の誰も手助けをしようとしなかったから。
殿下はその重さに押し潰されながらも、決して弱音を吐かれなかった。
そして……もう一つ、殿下を苦しめてきたものがある。
——フェルン家だ。
フェルン家は北部戦争で領地の半分を失い、収入源は古い荘園税とわずかな鉱山だけ。
貴族としての体裁だけは保ちながら、内情は没落寸前——そんな家だった。
(なのに……プライドだけは高い)
皇室の遠い縁を盾に、教会への献金で権威をつなぎとめ、自分たちの不備を誰にも認めようとしない。
頼るべき時に頭を下げず、見栄だけで家を支えようとする——そんな“空虚なプライド”が、フェルン家の本質だった。
そして、その象徴がリディア様だった。
人々は彼女を「儚い」と呼んだ。
細い体、よく泣く瞳、すぐに体調を崩し、常に風に揺られる花のような存在だと。
——だが、それはあくまで“表向き”の顔。
私は知っていた。
彼女の奥底にある、どうしようもなく乾いた承認欲求を。
あれは、枯れた土のような欲だった。
誰か一人の愛では満たされず、周囲の視線すべてを自分に注がせたくて仕方がない——そんな渇き。
殿下の婚約者として迎えられた当初、ディア様は確かに優しかった。
だがその「優しさ」は、殿下のためではなかった。
“皇族の婚約者として、丁重に扱われる自分”
その立場こそが、リディア様の欲望だったのだ。
殿下に寄り添うふりをして、殿下の疲労に気づかぬふりをして、時に涙を武器にし、時に弱さを盾にする。
——そのすべてが、
殿下の愛をつなぎとめるためではなく、周囲から「可哀想な婚約者」「殿下に尽くす健気な娘」と見られるためのものだった。
殿下は気づかなかった。
いや、気づかないふりをしておられたのだろう。
幼い頃から“愛される方法”を知らない方だったから。
だから……誰かが涙を見せれば、それが愛だと思ってしまわれる。
リディア様は、そこを巧みに突いた。
——そして、弱音を吐けない殿下の孤独に、最も深く傷を刻んだのも、彼女だった。
彼女は殿下を愛していなかった。
ただ、「皇族の婚約者」である自分を愛していただけだ。
その歪んだ渇望が、殿下の心を少しずつ削っていった。
……だからこそ、私は思う。
今の奥様——セレーネ様には、
嘘も、計算も、一欠片もない。
そういう正直さに、殿下の心は初めて戸惑い、乱れ、そして……惹かれずにはいられないのだろう。
——しかし。
(最近の奥様は……どこか変わられた)
それが、どうにも気にかかって仕方がない。
殿下を慕っておられたのは、私も知っている。
お会いになる前から胸を高鳴らせ、お姿を見れば真っ赤になり、城中でも、どこか落ち着きなく殿下を追いかけていた。
ところが今ではどうだ。
距離を置こうとしておられる。
それどころか——
(……「閣下」と呼ばれている)
あれほど殿下のことを“大公様”と尊んでいたのに。
皇族の血を引く方に対する敬称も、礼の作法も誰より心得ていたはずだ。
それなのに、やけに他人行儀で、まるで“距離を置くためだけの呼び方”に聞こえる。
そして何より——
(……あの浮かれたご様子が、影も形もない)
殿下を追いかけていたあの必死さも、恋に浮かれた少女のような純粋さも、どこかへ消えてしまった。
(まるで……殿下から離れようとしておられるかのようだ)
その変化が、どうにも胸に引っかかる。
(奥様……一体、何があったのです?)
馬車の中から微かに漏れる声に、私は気配を殺したまま、どうしても奥様の“変化”の理由を探してしまうのだった。
私はそっと喉を鳴らし、気づかなかったふりをして、馬車の影から空を見上げた。
……まあ、ともあれ。
これだけは確かだ。
(殿下と奥様の寝室は……一つで良さそうだ)
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