浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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32話『リディアの燻る感情』

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楽団の弦が、絹のように滑らかに流れていく。
 
燭台の光が煌めき、貴婦人たちの笑い声が花弁のように舞った。
 
その中央に、ひときわ明るい笑顔があった。

 
セレーネ・ローレンス

 
誰もが彼女を見た。
若い貴族も、老いた紳士も、口元に笑みを浮かべながら。

彼女は夜会の華だ。

周りの視線が私の周りをすり抜けていくたびに、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

 
言葉に出来ない屈辱を覚える。

公の場では聖女のように扱われ、周りに人集りができるのに、この夜会の場に来ると、あの女に全て奪われる。

私はこの帝国の三大公爵家の令嬢で、あんな成り上がりの侯爵令嬢とは格が違うというのに。

しかも今や私は大公妃という立場だ。


「……今宵も華やかですね」


隣から声がした。
カイン・ド・レファード――。
夫の政敵だ。

レオニスからは感じない、色気のあるその風貌に圧巻させられる。

心が微かに揺れ動く。
 
けれど、彼の瞳は、私の肩越しを見ていた。
その先にいるのは、銀糸のドレスに身を包んだセレーネ。

……すぐに気づいた。
カインも彼女に惹かれていることに。

男は皆、セレーネに心を奪われる。

彼に微笑んでみせる。
完璧な淑女の仮面を貼りつけたまま。


「……そうですね」

 

この醜い感情をどうすればいいのかしら。

あの女が羨ましくて仕方ない。



彼女に誰もが惑わされる——だがレオニスはそうではない。

彼は私のことしか眼中にない。

そう思うことで、自分を保つ。

けれど、彼は私に触れようともしない。

昔からそうだ。


幼いころから、彼は私の傍にいた。

病に伏せたときは夜通し看病してくれ、転んで泣けば膝をついて手を差し出した。

彼にとって、私は守るべき存在で——決して、傷つけてはいけない“宝物”だった。



その優しさが、今では檻のように感じる。



女として見られていないのではないかと気づくたびに、胸の奥で何かが軋む。



どうして誰も、私を“女”として見てくれないのだろう。

 

 なのに。

 あの女は、誰からも性の対象とされる。

 家格も低い。
 淑女教育を受けたわけでもない。

 見目からして下品なだけなのに、ただそこに立っているだけで、人が集まる。

 ずるいわ。こんなの不公平よ。



 レオニスの視線の先に、私がいた時間はたしかにあった。
 幼い頃は、私の涙に誰よりも敏感で、私の痛みに誰よりも寄り添ってくれた。

 それなのに——

 私が妻になってからは、より一層触れようとしなかった。

 私を傷つけたくない、と?
 穢したくない、と?
 妹のように、守るべき存在だから、と?

 そんな言い訳、聞きたくなかった。

 私が欲しかったのは、
 “守られる私”ではなく、
 “女として愛される私”。

 

 私は、欠けた心を埋めてほしかっただけ。

 寂しさに震えていた夜、カインに口説かれた時——やっとあの女に勝ったとおもえた。

 私は悪くない。
 私は求められただけ。

 そう、私はただ——

 女として必要とされたかった。



 熱い視線が、自分だけに注がれるあの快感を——私は、一度でいいから欲しかった。

 ……でも、快楽を知ってしまったら、もう戻れなかった。

 突然飽きたのか、カインに誘われないようになった。

 カインに抱かれなくなったのは、ほんの数度の夜のあとだった。

 理由は分かっていた。
 彼は最初から私を“奪う道具”としてしか見ておらず、私という女に興味を持っていたわけではない。

 その現実を、認めるのがあまりにも苦しかった。

 だから私は——埋めようとした。

 空洞になった心を、何かで満たそうとした。

 誰でもよかった。

 笑いかけてくれれば。
 触れてくれれば。
 私を“女”として扱ってくれれば。

 その夜会で、手を差し伸べてきた若い騎士がいた。
 軽い賛辞を囁く商会の次男がいた。
 酒場の奥で甘言を向けてきた貴族の三男がいた。

 ——皆、同じ顔に見えた。
 優しさも欲望も、私を必要としているように錯覚させてくれる。

 そして私は、その錯覚にすがらなければ生きていけなかった。

 夜毎、違う腕に抱かれるたび、胸の奥の痛みは薄れるどころか増していった。

 触れられた皮膚より、冷えた心臓のほうがずっと痛い。

 “これでは満たされない”と、触れ合うたびに思い知る。

 ——私は、誰のものにもなれないまま、誰かの腕の中で溺れ続けた。

 けれど翌朝、誰も私を振り返らない。

 夜が明ければ、私はまた
 “孤独な大公妃”に戻るだけ。

 抱かれた回数だけ、自尊心が削られ、記憶の底に沈んでいく。

 カインに拒まれ、レオニスに抱かれず、民からは“聖女”と崇められても——

 誰も私を“性”として必要としていない。

 私はただ、空洞を埋めるためだけに男を求める、哀れで愚かな人形になっていった。

 そしてある朝、侍女が青ざめた顔で私を見つめた。

 彼女の震える声を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 ——遅れている、と。

 いつもなら、何の気にも留めなかったこと。
 けれど、ここ数ヶ月の自分の行動を思い返せば、その意味は痛いほど分かる。

 私は膝の上で両手をきつく握りしめ、声も出ないまま天井を見つめた。

 逃げ場なんて、どこにもなかった。

 カインのものではない。
 彼はとっくに私から興味を失い、手を触れることも拒むようになっていた。

 なのに——。

 私の中には、誰のものとも言えぬ命が宿っていた。

 あの夜会の廊下で。
 薄暗い客間で。
 酒の匂いが充満する奥まった部屋で。

 思い返したくもない断片が、容赦なく頭の中に蘇る。

 どの男の顔も、曖昧で。
 声も、触れ方も、混ざり返って判別がつかない。

 私は、誰に抱かれていたのだろう。

 分からない。
 本当に、思い出せない。

 それがどれほど恐ろしいことか、理解した瞬間、背筋が凍った。

 侍女が何か言っていた。
 慰めなのか、動揺なのかも分からない。

 私はただ、俯いたまま唇を震わせた。

 レオニスの子ではない。
 カインの子でもない。

 誰の子かなんて分からない。


 ならば、この子は——何なの?

 大公妃として、生まれるはずのなかった命。
 帝国の誇りを穢す存在。
 自分自身の愚かさの結晶。

 胸の奥から、黒い絶望が込み上げる。

 私はとうとう——女としての価値だけでなく、母としての価値すら見失った。

 逃げ道はない。
 覆せない。
 取り返しもつかない。

 この腹の中の命が、レオニスのものではないと。

 言いたくなかった。
 言えば終わる。
 私が築いてきた“完璧な大公妃”という像は、一瞬で崩れる。

 でも、隠し通すこともできなかった。

「……レオニス」

 呼んだ声が震えていた。
 彼がゆっくりと振り返る。その青い瞳が、すべてを見透かすようで息が詰まる。

 どうしてこんなときでも、彼は美しいのだろう。
 私を泣かせるのはいつだって、この冷たい優しさだ。

 両手で腹部を押さえ、搾り出すように言った。

「私……子どもができたの」

 言った瞬間、世界が音をなくした。

 暖炉の火が弾ける音さえ、遠くに感じる。

 レオニスの顔には、怒りも、悲しみも浮かばない。
 ただ静かに、まるで祈るような呼吸をして——

「……そうか」

 その言葉が胸を刺した。

 怒ってほしかった。
 問い詰められたかった。
 “誰の子だ”と責めて、抱きしめて、許してほしかった。

 けれど彼は、何も聞かない。
 私の罪を追わず、過去も問わず、ただただ受け止めるだけだった。

「……あなた、怒らないの?」

 それは懇願だった。
 怒ってくれれば、まだ“私を見てくれている”と思えるから。

 けれど返ってきたのは——

「怒る理由があるのか?」

 微笑。
 あの優しい、私のすべてを許すような微笑。

 その瞬間、はっきり分かった。

 彼は私を愛してなどいなかった。

 ずっと守られていたと思っていたのは、勘違いだったのだ。

 レオニスが守っていたのは“私”ではない。

 彼自身が作り上げた、清らかで傷つかない理想の娘——その幻影だった。

「ごめんなさい……」

 かすれる声で謝った時、胸の奥が崩れるように痛んだ。

 涙がこぼれそうになった。
 でも、泣けば彼はまた優しく受け止めてしまう。
 その優しさが、今はひどく、残酷だった。

(どうして……どうして、私は“女”として抱いてもらえなかったの……)

 カインですら私を選ばなくなり——レオニスも、最初から私を女として求めてはいなかった。

 誰も、私を“ひとりの女”として愛してはくれない。

 腹の中の命の重みが、ずっしりと沈んだ。

 その重さを抱えたまま、私はゆっくりと笑った。
 涙がこぼれないように、必死に形を保ったまま。

 ただ、レオニスに軽蔑されたくなくて。
「ただの道具みたいな女」だと思われるのが嫌で。

 私は咄嗟に、
 その中で一番身分の高い男——カイン・ド・レファードの子だと、嘘をついた。

 ——私はきっと、この瞬間から壊れはじめたのだ。

 そしてレオニスは、新しい大公妃にセレーネを選んだ。

 ——ありえない。

 よりによって、よりによって、あの女が“後釜”だなんて。

 私の代わりに選んだのがセレーネ・ローレンス?
 笑わせないで。

 あの成り上がりの娘。
 教養も格式も、家柄さえロクに整っていない小娘。

 夜会で男たちを惑わせる顔と、媚びるような笑みだけの女。

 私は帝国の三大公爵家の令嬢よ。
 代々この国を支えてきた血統の娘で、大公妃だった女よ。

 なのに——どうしてあんなものが私のあとに座っているの?

何かの間違いよ。

レオニスは、私を捨てたわけじゃない。
そうよ、きっとそう。

あの女を選んだのは、私を守るため。

フェルン家の失態、私の過ち、腹の子の父親が誰かも分からないというこの惨めな現実。
それらすべての責を、一身に引き受ける“替え”が必要だっただけ。

だからあの女なのよ。
どこにでもいる、ただの成金の娘。
捨て駒にはちょうどいい。

……そうよ。
彼の中で、理想の“妻”は今でもこの私。


「……エルゼリアで、水害が?」

従者の報告に、私は手にしていた香水瓶を落としそうになった。

エルゼリア。
かつて “私が大公夫人として立っていた場所”。

もう私は公妃ではない。
ただの名ばかりの三大公爵家の娘に戻っただけ。

それなのに——その響きだけで胸がざわめく。

従者が慎重に続けた。

「前大公妃……いえ、リディア様。村々が冠水し……」

前大公妃。
その呼び名に胸がかすかに疼いた。

(……前? いいえ違うわ。私は——)

心の中でその言葉を否定する。
否定して、上書きしようとする。

従者はさらに告げた。

「殿下が、視察に向かわれるそうです」

ガタン、と胸の奥で音がした。

レオニスが。

私は息が詰まり、思わず椅子に手をついた。

そして——思い出した。

先日の夜会のこと。

私はたまたま廊下で出くわしたカインと並んでいた。

そこへレオニスが姿を現した。

一瞬、胸が高鳴った。

きっと、私を見て足を止める——昔と同じように、私を気遣ってくれるはず。

「……お久しぶりです、大公殿下」

完璧な微笑みを浮かべ、声を向けた。

レオニスは、確かに一瞬だけ足を止めた。

——“一瞬だけ”。

「……元気そうだな」

それだけ言うと、まるで何の未練もないというように、私をすり抜けて歩き去った。

……そのときの胸の痛みを、私は今でも覚えている。

でも、あれは強がりだわ。

レオニスはあのとき、怒っていた。

そう——きっと、私がカインの隣にいたから。

カインと一緒にいる私を見て、胸を焼かれるほど嫉妬したに違いない。

その証拠に、すぐに帰ってしまったのだもの。

……そうよ、絶対そう。


「……ふふ、レオニスったら」

そう思うと胸が満たされていく。


彼が私から目を逸らしたのは、“嫉妬を悟られたくなかったから” に決まっている。

そう、あれは——レオニスが私に未練を残している証拠。

だから私は間違っていない。
間違うはずがない。

だって……
あの夜のレオニスの瞳は、確かに揺れていたのだから。

私の望む形で。



従者はためらいながらも続ける。

「現地の民の中には、“リディア様が来てくれるのでは”と噂されているようで……」

その瞬間、胸の奥が熱くなった。

——まだ私を必要としている人がいる。
——まだ私を、公妃として覚えている。

そう思った。

いや、本当は違う。
私はもう公妃ではない。

でも、私はその“立場”に固執する。

「……民は、私を……」

呟く声が震える。

エルバーン家の大公夫人として湖畔を歩いた日々。
慈愛の象徴として民から手を取られ、祈祷を捧げた日々。

全部、全部——あの女に奪われた。

従者が言葉を待つように佇んでいる。

私は息を吸い込んで、宣言した。

「——行きます。エルゼリアへ」

従者が目を丸くする。

「り、リディア様……それは……お立場が……」

「かつて……あれは私の領地だったのです」

自分でも分かるほど、身勝手な理屈。

でも、止められない。

だって——“私のものだったものを奪われて、そのまま黙ってなんていられない”。

レオニスが。
民が。
城が。
湖が。

全部、全部、
私の“世界”だった。

そう、あの離婚の日までは——。


レオニスと別れ、私はフェルン家へ戻った。
大公妃としての威光を剥がされ、ただの“元妃”として扱われる空虚な日々。

それを思い出すだけで胸が軋む。

「祈祷服と旅装を、すぐに」

従者は従うしかなかった。

鏡の前に立った私の瞳は、どこか焦げつくように赤く揺れていた。



「あの女に……渡してなるものですか」



その呟きだけが、部屋の中にひどく静かに落ちていった。



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